第4話 二人目の客と、名乗らない男
ヴァイラント男爵家の使いが置いていった紋は、鹿の角を組み合わせた古い意匠だった。
「聞いたことないですね」
ニナが紙を裏返して、日にかざしている。
「北の、境に近い家です。王都には屋敷を持たない方々かと」
「なんで知ってるんですか」
「以前、その家の人形を彫りましたので」
わたしは道具の手入れを続けた。三年半のあいだに彫った家の名前は、たぶん全部覚えている。覚えていたくて覚えたわけではない。木の癖が家ごとに違うので、そちらと一緒に頭に残っただけだ。
ニナがこちらを見た。
「じゃあ、向こうもあなたのこと知ってるんじゃないですか」
「いいえ」
「なんでですか」
「贈り主はメルツ公爵家ですので」
ニナはしばらく黙って、それから紙を台に置いた。
◇
翌日の午後に、母娘が来た。
男爵夫人は五十がらみで、旅装のままだった。娘のほうはテオドラといって、十七だという。二人とも背が高く、肩の付き方が似ている。同じ家の骨だ。
テオドラは入ってきたときから、顔の左側をこちらへ向けなかった。
「見合い人形を、お願いしたいのです」
夫人はそう言って、椅子に座らなかった。立ったまま話す人は、たいてい早く帰りたがっている。
「承知しました。お嬢さまのお顔を、しばらく拝見してもよろしいですか」
「……その前に、お伝えしておくことが」
夫人が娘の肩に手を置いた。テオドラは動かない。
「この子は、六つのときに火にあたっております。左の頬から耳にかけて、痕が残っておりまして」
「はい」
「消していただけますね」
わたしはテオドラを見た。
彼女は床を見ている。頬の骨は素直で、額が広い。母親と同じで、笑うときは口より先に目のほうが動く型の顔だ。左の頬の痕は、光の加減で見えたり見えなかったりした。ひきつれてはいない。皮膚が薄く張り直った跡で、色だけが違う。
「消しません」
夫人の手が、娘の肩から落ちた。
「……なんですって」
「消しません。彫るのは、いまのお嬢さまの顔ですので」
「あなた、この子を売れないようにするおつもり?」
「いいえ」
「では、なぜ」
わたしは道具箱の蓋を閉めた。
「痕のない人形をお贈りになった場合、先方は痕のないお嬢さまを想像なさいます。そして、お会いになった日にご覧になります」
「……」
「そのときお嬢さまが受け取るのは、初めて見た人の顔です。わたしは、その顔を作りたくありません」
夫人は口を開いて、閉じた。
テオドラが、初めてこちらを向いた。左側を、隠さずに。
◇
その日のうちに木を選んだ。
左の頬に浅い面を入れる仕事は、木目が斜めに走っていると影が濁る。まっすぐ通っていて、なおかつ目の詰まりすぎていないものがいい。詰まりすぎた材は、刃が滑って、浅い面がどうしても平らになる。
床下から出しておいた試し彫りを並べて、指で弾いた。三本目の音がよかったので、それと同じ山の欅を買った。金貨一枚。その場ではニナに言わなかったが、帳面をつけているのはあの子なので、どのみち翌日には知られた。
◇
彫っているあいだ、テオドラは四度来た。
最初の日は何も話さなかった。二度目に「痛くはないんです」と言った。三度目は工房の棚を全部見て回って、ニナと二人で笑っていた。四度目に、こう聞いた。
「あの、痕って、どんなふうに彫るんですか」
「木を彫ります」
「彫っちゃうんですか」
「はい。色は塗りません。塗ると、色だけが目に入りますので」
わたしは彫りかけの顔を彼女に見せた。
左の頬に、ごく浅い面がひとつ入っている。深さは髪の毛二本ぶんもない。光が斜めに当たったときだけ、そこに影が落ちる。
テオドラはそれを長いこと見ていた。
「……ほんとだ。正面から見ると、わかりませんね」
「はい」
「でも、あるんですね」
「あります」
彼女は指でその面をなぞって、それから手を離した。
◇
人形は十日で渡した。
渡すとき、男爵夫人は人形を受け取らなかった。テオドラが先に手を出したからだ。
彼女は両手で持って、左の頬に光を当てるように、少しだけ角度を変えた。影が出る角度を、こちらが教えなくても探し当てた。四度も通えば、そのくらいは覚える。
夫人はその横で、口を結んだまま立っていた。
帰りぎわ、扉のところで一度だけ振り返って、こう言った。
「……あの子は、鏡を見ない子でした」
わたしは頭を下げた。
それが感謝なのか、抗議なのか、その場では分からなかった。分からないまま見送るのは、この仕事ではよくあることだ。
◇
三週間後、ヴァイラント家から短い手紙が来た。先方の三男が人形を見て、こう言ったという。
——この頬の影は、彫り忘れではないのか。
男爵夫人は「彫り手に確かめる」と答えた。三男は「では、確かめずに会いたい」と言ったそうだ。
縁は、まとまった。
「よかったですね」
ニナが手紙を読み上げてから、そう言った。
「はい」
「前のは壊れて、今度はまとまった。基準が分かんないですね、あなたの人形」
「同じ基準です」
「どこがですか」
わたしは手紙を畳んだ。
「どちらも、会う前に本当のことが伝わりました。あとは先方が決めることです」
ニナは「ふうん」と言って、手紙を棚に立てかけた。
◇
その男が来たのは、手紙の届いた日の夕方だった。
扉が開いた音がしたのに、しばらく誰も入ってこない。行ってみると、土間のところに立って、棚の人形を見上げていた。
三十前後だろうか。上着は地味だが、仕立てが違う。袖口の縫い目が細かい。ああいう縫い方をする職人は王都に三人もいない。
顔を見た。
眉の骨が高く、目の位置が深い。鼻梁がまっすぐで、顎の角が張っていない。彫るなら楽な顔だ。影が勝手に落ちるので、彫り手は輪郭だけ整えればいい。
ただし、そういう顔は、彫った結果が全部似る。誰が彫っても同じところに影が出るので、彫り手の癖が出ない。腕のいい者と悪い者の差が、いちばん見えにくい顔でもある。
もうひとつ、気づいたことがあった。
この人は、棚を見上げるとき、顎を上げない。目だけを動かしている。首の据わり方が、そういう見方を長くしてきた人のものだった。人の前で頭の高さを変えない癖は、たいてい、変えなくていい立場で覚える。
「何か」
男が言った。こちらを見ないまま。
「失礼いたしました。お顔を拝見しておりました」
「よく言われます」
「そうでしょうね。そういう顔は、写しやすいので」
男が振り向いた。
初めて目が合った。笑ってはいないが、口の端がわずかに上がっている。
「ヴァイラント家の人形を彫ったのは、あなたですか」
「はい」
「頬に影を入れたのも」
「はい」
男は棚のほうへ視線を戻した。並んでいるのは母の彫りかけばかりで、仕上がったものは一つもない。彼はそのうちの一体を、少し長く見ていた。
「消してくれと言われたでしょう」
「言われました」
「なぜ消さなかったのですか」
「消したものは、いずれ見つかりますので」
男は答えなかった。
しばらくして、道具の並んだ台のほうへ二歩だけ近づいた。手は触れない。触れないと決めている人の近づき方だった。
「ご用件をうかがっても」
「今日は、見に来ただけです」
「どちらさまでしょう」
男は名乗らなかった。
代わりに、こう聞いた。
「あなたは、誰の顔なら盛るのですか」
わたしは答えなかった。
答えなかったのは、答えを持っていなかったからではない。この人が、答えをもう知っている顔で聞いていたからだ。
男は一礼して、出ていった。
扉が閉まってから、ニナが階段の上から下りてきた。
「誰ですか、あれ」
「存じません」
「うわ、変な人」
ニナは土間まで下りて、男の立っていたあたりを見た。それから、少し顔をしかめた。
「……あの人、床の埃を踏んでませんね」
【今日の彫りおぼえ】痕は、彫る。塗らない。塗ると色だけが見えて、形が見えなくなる。
お読みいただきありがとうございます。
前回は縁談が壊れ、今回はまとまりました。やっていることは同じなので、たぶん基準はこちらにはありません。会う前に本当のことが伝わったあと、どうするかを決めるのは、いつも先方です。
次話——工房のいちばん奥に、布のかかったものが一つあります。七年、そのままだったものです。




