第3話 盛らずに彫りました
最初の客は、三日目に来た。
連れてきたのはハウザーさんだった。金物屋の店先で「あそこの工房、また開いたぞ」と言って回っていたらしい。頼んでいない宣伝だったが、断る理由もなかった。
「ケルナー商会の奥さまだ」
ハウザーさんはそれだけ言って、さっさと帰っていった。
入ってきたのは、仕立てのよい上着を着た四十がらみの女性と、その後ろに立つ娘だった。娘のほうは十九か二十くらいで、母親の半歩後ろから動かない。
「ミレナです」と母親が言った。「この子の見合い人形を、お願いしたくて」
「承知しました」
「メルツのお屋敷にもうかがったのですけれど、いまは新しい方に代わられたとかで、三月待ちだと言われまして」
わたしは手を止めなかった。
「それは、お困りでしょう」
「ええ。ですから、こちらで」
ミレナはまだ何も言わない。母親の肩越しに、棚の人形をひとつずつ見ていた。
◇
わたしはミレナに椅子を勧めて、正面に座った。
まず顔を見る。三十分ほど、ただ見る。話しかけない。相手が退屈して素の顔に戻るまで、それくらいはかかる。
骨の張り方は素直だ。額が広く、頬の肉がまだ丸い。笑うと右の口角のほうが早く上がる。目は大きくはないが、瞼の縁が薄いので、光の入る角度で表情が変わる。
いい顔だと思った。
「あの、ひとつよろしいかしら」
母親が言った。
「はい」
「その、実際より、少し——痩せて見えるように、していただけません?」
わたしは顔を上げた。
「痩せて、とおっしゃいますと」
「ええ、頬のあたりを。この子は肉づきがよくて、写りが悪いものですから」
「頬の肉を削りますと、この方の場合、顎の骨が出ます」
「え」
「ミレナさまは顎の角が張っておいでですので、頬を落とすと輪郭が四角くなります。痩せて見えるというより、骨っぽく見えます。それでもよろしければ」
母親は口を開けたまま、こちらを見た。
ニナが台所のほうで小さく吹き出した音が聞こえたが、聞こえなかったことにした。
「では……目を、もう少し」
「目を大きくしますと、瞼の縁が厚くなります。この方の目は縁が薄いのが良いところですので、そこは触らないほうがよろしいかと」
「あなた、」母親の声が硬くなった。「どこも直せないとおっしゃるの」
「直せます」わたしは答えた。「直したものを、贈るかどうかというお話です」
母親は黙った。
そのとき、ミレナが初めて口を開いた。
「お母さま。お願いしましょう」
「ミレナ」
「わたし、この方の彫ったお人形を見てみたいわ」
◇
六日かかった。
最初の二日は木を選び、三日目から荒く落とし、五日目に顔をつける。目を入れるのは最後だ。
荒く落とすあいだは、顔のことを考えない。四角い塊から、頭と肩と胴の三つの大きさの比だけを出していく。ここを急ぐと、あとで顔をどれだけ丁寧に彫っても、遠目に見たときに別人になる。人が人を見分けているのは、細かい造作ではなく、頭と肩の比のほうだからだ。
実際、廊下の向こうを歩く人を、顔が見えないうちに誰か分かることがある。あれが比だ。
四日目の夕方に、いちど手を止めて、外へ出た。木を持ったまま、灰通りの端まで歩いて、また戻った。狭い場所で見続けると、目が寸法に慣れて、狂っても気づけなくなる。母は「一日一度は木を外の光へ出せ」と言っていた。
ニナは毎日、作業台の向かい側に座って見ていた。何も言わずに見て、たまに木屑を指で丸めていた。
「ねえ」
五日目の夜に、ニナが言った。
「それ、あの人よりちょっとだけ地味じゃないですか」
「地味でしょうか」
「実物のほうが、もう少し可愛いですよ。笑ったとき」
「笑っていない顔を彫っておりますので」
「なんで笑ってる顔にしないんですか。見合い人形でしょう」
わたしは刃を置いた。
「笑った顔は、相手を選びます。この方は、笑うと右の口角が先に上がります。それを可愛いと思う人と、だらしないと思う人がいます」
「だから?」
「だから、笑わせません。笑ったところを見たいと思ってもらうところまでが、人形の仕事です」
ニナはしばらく黙って、それから言った。
「……そういうの、どこで習うんですか」
「母です」
「ふうん」
彼女はまた木屑を丸めはじめた。
◇
六日目の朝に目を入れた。
目は彫るのではなく、開ける。木を掘って影を作り、その影の深さで視線の向きを決める。深すぎれば睨む。浅ければ眠る。ミレナは人の話を聞くとき少し顎を引く人だったので、影はごく浅くした。
最後に砥石で刃を立て直して、額の生え際を一度だけなでた。
それで終わりだった。
わたしは人形を裏返して、裾の内側に指をあてた。
窪みをひとつ入れる。指の腹でしか分からない大きさで、木目の流れに紛れる位置に。母がわたしに教えた最初のことだ。
三年半、公爵家で彫った人形にも、全部これを入れてきた。誰にも見られない場所に、誰にも読めない印を。
意味はない。意味はないが、入れないと仕事が終わった気がしない。
◇
人形は七日目の朝に渡した。
ケルナー夫人は受け取って、しばらく無言だった。それから小さな声で「まあ」と言った。喜んだのか落胆したのか、判別のつかない「まあ」だった。
ミレナは人形を両手で持って、正面から、それから横から見た。
「これ、わたしですね」
「はい」
「よく分かりますね。誰が見ても、わたしだって」
「そのように彫っております」
夫人は最後まで納得しない顔で、それでも代金を置いて帰った。
◇
十日後、ケルナー夫人がひとりで工房に来た。
扉を蹴るように開けて、入るなり言った。
「破談になりました」
ニナが立ち上がりかけたので、わたしは手で制した。
「先方は、なんと」
「うちの娘は、思っていたのと違う、と!」夫人の声は震えていた。「あんな正直な人形を贈るからです。よそさまはもっと、綺麗にして寄越すのに」
「さようですか」
「さようですか、じゃありません! お代はお返しいただきます」
「お返しいたします」
わたしが即答したので、夫人はかえって言葉に詰まった。
それから、なぜか泣きそうな顔になって、金貨を置いていくのも忘れて帰っていった。
◇
ミレナが来たのは、その日の夕方だった。
人形を抱えていた。返しに来たのだと思って、わたしは手を出した。
ミレナは渡さなかった。
「これ、いただいていってもいいですか」
「……よろしいのですか」
「はい」
彼女は人形を胸に抱えたまま、少し笑った。右の口角が先に上がった。
「あの方、わたしを一度も見ていないんです」
「と、おっしゃいますと」
「先方の坊っちゃま、お人形を見て『これは違う』とおっしゃったそうです。お会いする前に。——お会いする前に、ですよ」
夕日が窓から入って、彼女の手の中の木の顔にあたっていた。
「もし、お母さまの言うとおりに痩せて彫っていただいていたら、わたし、あの方とお会いして、それから同じことを言われていました。今度はわたしの目の前で」
わたしは何も言わなかった。
「壊れてよかったんです、これ」
ミレナはそう言って、頭を下げて帰っていった。
◇
扉が閉まってから、ニナが言った。
「……お金、返しちゃいましたけど」
「はい」
「あれ、うちの三日ぶんの食費ですけど」
「はい」
「ばかじゃないですか」
「そうかもしれません」
わたしは作業台を拭いた。木屑がまだ少し残っていて、指の腹についた。
人形は嘘をつかない。嘘をつくのは彫る人だけだ。今日は誰も嘘をつかなかったので、壊れるべきものが、ちゃんと壊れた。
それだけのことだった。
扉が叩かれたのは、そのときだ。
開けると、見慣れない仕着せの使いが立っていた。胸に、見たことのない家の紋がついている。
「灰通りの人形師どのは、こちらでよろしいか」
「はい」
「先日、ケルナー商会へ贈られた人形を、うちの家人が見ております」
使いは言った。
「同じ彫り手に、うちの人形も頼みたいと申しております」
【今日の彫りおぼえ】笑った顔は彫らない。笑うところを見たいと思わせるまでが、こちらの仕事。
お読みいただきありがとうございます。
盛らない人形は、たしかに縁談を壊します。ただ、壊れるのは壊れて正しかった縁談だけです。会う前に断ってくれる相手というのは、じつはとても親切なのかもしれません。
壊れてよかった、と言っていただけました。この工房を続けてよさそうでしたら、ブックマークに一体、置いていってくださいませ。
次話——二人目のお客が来ます。それと、名前を名乗らない男がひとり。




