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「人形のような妻だ」と離縁されたら、公爵家の縁談が全部壊れました  作者: 風音シエル


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第2話 七年ぶりの灰通り

 灰通りは、七年前と同じ匂いがした。


 鉄と、木屑と、油を焼いた匂い。どれも強くはないが、混ざると通り一本ぶんの匂いになる。王都のほかのどこにもない匂いで、わたしは子どものころ、これを家の匂いだと思っていた。


 金物屋の前で、痩せた男の人が桶を洗っていた。目が合って、それから、手が止まった。


「……ヴェルクマイスターの」


「ハウザーさん」


 七年ぶりに名前を呼んだ。相手はしばらく黙って、桶を置いた。


「大きくなったな」


「二十四になりました」


「そうか」ハウザーさんは通りの奥へ目をやった。「あそこは、そのままだ」


「そのまま、とは」


「誰も入っていない、ということだ。あんたの母親が死んでから、看板を下ろすやつも、上げるやつもいなかった」


    ◇


 通りを歩くと、店の並びが半分ほど変わっていた。


 左手の三軒目は、以前は蹄鉄屋だった。いまは荷車の輪を作る店になっている。その隣の乾物屋は看板がそのままで、中の人だけが若くなっていた。突き当たりに近づくにつれて、木屑の匂いが強くなる。この通りは奥へ行くほど木を扱う店が増える。母は、そういう並びになったのは川の位置のせいだと言っていた。木は水に近いほうがいい、と。


 濡れた木がいいのではない。乾き方が急でないほうがいい、という意味だ。急に乾いた木は、外側だけ縮んで内側が追いつかず、そこで裂ける。


 突き当たりの家は、想像していたより小さかった。


 子どものころは大きな建物だと思っていたが、実際は間口が三間ほどしかない。木の看板は残っていたが、文字はほとんど流れて、「ヴェ」と「工」しか読めなかった。


 鍵を差した。


 半分回ったところで一度止まり、それから、かちりと落ちた。


 扉を押すと、埃が光の筋の中に立った。


 中は暗い。床に積もった埃に、細い足跡が二列ついている。


 わたしは足跡を見た。


 それから、道具箱を胸の前に持ち替えた。


「どなたか、いらっしゃいますか」


 返事はない。


 奥の作業場へ進む。棚が壁の三面に組んであって、そこに人形が並んでいた。彫りかけのもの、下地だけのもの、頭部しかないもの。母が死んだ日のまま、七年ぶんの埃をかぶって、全部こちらを向いていた。


 顔が、五十はある。


 わたしはその前に立って、しばらく動けなかった。


 どれも仕上がっていない。目が入っていないもの、頬の片側しか削れていないもの、口の形を三通り試して途中でやめたもの。母は仕上げるまで顔を見せない人だったから、これは全部、誰にも見せなかったものだ。


「泥棒ですか」


 背後で声がした。


 振り向くと、階段の途中に子どもが立っていた。十四くらいの、痩せた女の子だ。手には麺棒を握っている。


「泥棒じゃありません」


「じゃあ何ですか」


「ここの家の者です」


「へえ」


 子どもは麺棒を下ろさなかった。


「ここ、七年空き家ですけど」


「はい。七年前まで、わたしが住んでおりました」


「証拠は」


 わたしは鍵を見せた。それから、少し考えて、棚のいちばん下の段を指した。


「その段の左から三つ目、頭だけの人形があります。後頭部に指を入れると、内側に窪みがあるはずです。母が試作のときにつける印です」


 子どもは疑わしそうな顔のまま、片手で人形を取って、指を入れた。


 顔つきが変わった。


「……ありますね」


「はい」


「ふうん」


 麺棒が下がった。


    ◇


「ニナです」


 子どもはそう名乗って、勝手にお茶を淹れはじめた。竈に火があるということは、今朝も使ったということだ。


 水甕は満ちている。薪も割ってある。窓の下の板が一枚新しくなっていて、そこだけ色が違った。雨漏りを自分で直したらしい。釘の打ち方は雑だが、打つ場所は合っていた。


 二年、この子はここで暮らしていた。


 わたしは道具箱を床に置いて、外套を脱いだ。


「いつからここに」


「二年くらい前から。雨の日に入って、それきりです」


「二年」


「文句あります? 誰も来なかったんですから」


「文句はありません」


 わたしは腰を下ろした。椅子は母のもので、座面が右に沈んでいる。母は右足に体重をかけて彫る人だった。


「あなた、どうしてこの家を選んだのですか」


 ニナは背を向けたまま、少し黙った。


「……昔、ここの人形を見たことがあるので」


「母のですか」


「たぶん。うちの近所の人が持ってました。ぜんぜん綺麗じゃなくて、変な人形だなと思ったんですけど」


 湯気の音がした。


「その人、その人形の顔で嫁に行って、いまも同じ顔で笑ってます」


 わたしはお茶を受け取った。


    ◇


 その夜は棚を拭いた。


 布を濡らして絞って、人形をひとつずつ台に下ろす。埃を落として木肌を確かめ、また棚に戻す。五十体ある。全部やると夜が明けそうだったので、まずは上の段だけにした。


 布が黒くなるたびに桶の水を替えた。四度替えた。


 どの顔にも見覚えはなかった。母が誰を彫っていたのかを、わたしは知らない。工房に来た客の顔をわたしが覚えているのは、母が死ぬ前の三年ぶんだけだ。それ以前の顔は、この棚のほうがよく覚えている。


 途中で一体、手が止まった。


 目が入っている。この棚では珍しい。仕上げまで進んだ顔だ。


 若い女の人だった。二十歳前後だろうか。頬に丸みがあり、目尻がわずかに下がっている。左の眉が右より少し高い。癖だ。生まれつきではなく、笑うときにそちらだけ動かす人の顔だった。


 わたしはその顔を布で拭いて、しばらく持っていた。


 誰にも渡されなかった人形は、渡されなかった理由を顔には書かない。


 棚に戻した。


    ◇


 ニナは階段の途中に座って、それを見ていた。


「全部拭くんですか」


「はい」


「意味あります? どうせ売り物にならないでしょう」


「売りません」


「じゃあなんで拭くんですか」


 わたしは布を絞った。


「木は乾きます。埃をかぶったままにすると、埃のぶんだけ湿気を吸って、そこから割れます」


「へえ」


「割れた顔は、直りません」


 ニナはそれきり何も言わなかった。しばらくして下りてきて、桶の水を替えてくれた。


    ◇


「明日から、ここで仕事をします」


「仕事って、人形ですか」


「はい」


「無理ですよ」ニナは即答した。「いま王都で人形を頼むなら、みんなメルツ公爵家に行きます。あそこの人形は綺麗ですもん」


「そうですか」


「そうですよ。だから、やるなら盛らないと。目は大きく、顎は細く。うちは五割増しで彫ります、って看板に書けば、二年でここ建て直せます」


 ニナは真顔で言っていた。商売の話をしているつもりらしい。


    ◇


 翌朝、看板を下ろした。


 脚立に乗って留め具を外す。板は思ったより軽い。七年ぶんの煤を落とすのに、桶の水を三度替えた。


 文字はもう戻らない。「ヴェ」と「工」の彫り跡だけが残っていて、あいだの字は雨で流れていた。


 通りかかったハウザーさんが下から見上げた。


「彫り直すのか」


「いえ。しばらくこのままにします」


「読めんぞ」


「読めなくてけっこうです。読める看板を出すと、読んだ人が来ますので」


 ハウザーさんは意味が分からないという顔をして、それから笑った。


「あんたの母親も、そういう言い方をした」


 わたしは看板を掛け直した。


    ◇


 わたしは埃だらけの台の上に、道具箱を置いた。


 留め金を外す。中には母の彫刻刀が七本と、砥石が二つ。いちばん下の板を外すと、その裏に、小さな金具がひとつ貼りつけてある。


 わたしはそれを見て、板を戻した。


「盛りません」


「なんでですか」


「そういう彫り方を、母から教わっていないので」


「じゃあ客、来ませんよ」


「では、来なくて結構です」


 ニナはあきれた顔でこちらを見た。それから、湯呑みを置いて言った。


「変な人。あなた、その顔で客商売やる気ですか」


「わたしの顔が、何か」


「嘘が下手そうな顔してます」


 ——ありがとうございます、と言いかけて、やめた。


 褒め言葉ではないと気づくのに、少しかかった。

【今日の彫りおぼえ】仕上げていない顔は、捨てない。どこでやめたかが、いちばんよく残る。


お読みいただきありがとうございます。


母親の仕事場を七年ぶりに開けると、たいてい本人より本人らしいものが出てきます。やりかけの仕事というのは、そういうものらしいです。


次話——工房に最初の客が来ます。ご注文は、「実際より、少し痩せて見えるように」。

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