第1話 人形のような妻だ、と言われました
この国では、縁組はまず「見合い人形」から始まります。
本人が会うのは、そのあとです。
「人形のような妻だ」
離縁状に署名を終えた夫が、羽根ペンを置きながら言った。三年半のあいだに彼がわたしを呼んだ言葉のうち、いちばん長いものだった。
広間には公爵と、義妹のヴィオラと、書記官がひとり。誰もわたしの方を見ていない。
書記官が離縁の条項を読み上げはじめる。持参財の返還、名の抹消、屋敷からの退去期日。
わたしはその声を聞きながら、ヴィオラの頬骨を見ていた。
張り方が浅い。皮膚の下で骨が前に出ようとしていて、それを支える顎が細い。あと三年もすれば、この方の顔は下へ落ちる。人形にするなら、いまの形を彫っても長くはもたない。
「聞いているのか」
「はい」わたしは答えた。「持参財の返還と、名の抹消と、退去期日です」
夫は少しだけ目を細めた。それから、また署名の方へ視線を戻した。
——この家の見合い人形を、三年半、わたしが彫っていたことは、この場の誰も口にしない。
◇
この国の縁組は、本人より先に人形が会う。
家と家が話をまとめるとき、まず互いの子の姿を彫った木の人形を贈り合う。それを見て、悪くないと思ったほうが、次に本人を見る。人形は「その人を一番よく知る者」に彫らせるのが習わしだった。母や、乳母や、長く仕えた侍女に。
だから人形は、嘘をつける。
メルツ公爵家の見合い人形は、この三年半、王都でいちばん評判がよかった。当主のヘルマン公爵は、それを「わが家の抱えの職人」の腕だと説明していた。抱えの職人には名前がない。名前がないほうが、家の手柄になる。
わたしはその名前のない職人だった。
「お義姉さま」
ヴィオラが立ち上がって、机の端にあった革の巻きを取り上げた。中身は彫刻刀だ。母の使っていた、刃の細いほうの一組。
「これは家財ですから。ヴェルクマイスターのものじゃないでしょう?」
彼女は笑っていた。悪意でそうしているというより、本当にそう思っているらしい笑い方だった。
「その巻きは、母のものです」
「ええ。でも、この家で使われていたものですよね」
書記官が読み上げをやめて、こちらを見た。夫は見なかった。
わたしは少し考えて、それから頭を下げた。
「承知しました」
「……いいの?」
「はい。刃はいずれ減ります。減った刃は、どなたの持ち物でも同じです」
ヴィオラは何か言おうとして、口を閉じた。それから、勝ったような顔で座り直した。
巻きの革は、母の手の脂で色が変わっている。使う人の癖がそのまま残るので、他人が握ると必ずどこかが当たる。彼女はそれを、たぶん明日には気づく。
「お義姉さま、ひとつだけ教えてくださる?」
ヴィオラは巻きを膝に置いて、首をかしげた。
「お義姉さまって、この三年半、屋敷の奥でずっと何をなさっていたの? お茶会にもいらっしゃらないし、刺繍もなさらないし」
書記官の羽根ペンが、少しだけ止まった。
公爵は動かない。夫も動かない。
「木を削っておりました」わたしは答えた。
「木」
「はい。木です」
「……変な人」
ヴィオラは笑って、それきり聞かなかった。
◇
「退去は明後日の朝までだ」
公爵が初めて口を開いた。声は低く、丁寧だった。この方はいつもそうで、三年半のあいだ、わたしに向かって一度も声を荒らげたことがない。荒らげる必要がなかったからだと思う。
「かしこまりました。ひとつだけ、お願いがございます」
「言え」
「工房の道具箱を、持って出させていただきたいのです。母が使っていたもので、この家に入るとき自分で運び込みました」
公爵の目が、わずかに動いた。
わたしの言う道具箱がどれのことか、この方は知っている。三年半、屋敷の奥の作業部屋で、わたしがどの箱の前に座っていたかを知らないはずがない。
「箱ひとつだ」
「はい。箱ひとつです」
「よかろう」
それだけだった。
「お父さま、来月の十二体は」
ヴィオラが言った。公爵は答えなかったが、彼女は構わずに続けた。
「わたしが仕上げますわ。ずっと見ておりましたもの。あんなもの、慣れれば誰にでも彫れます」
「そうか」
「ええ。むしろ、もう少し可愛らしくして差し上げたほうが、先方も喜ばれると思うの。お義姉さまの人形って、正直すぎるんですもの」
わたしはうつむいたまま、その言葉を聞いていた。
正直すぎる。
三年半で受け取った評のうち、いちばん正確なものだった。
署名の乾いた離縁状が、書記官の手で丸められる。教会の婚姻簿からわたしの名が消えるのは、明日の午後になるという。
立ち上がるとき、夫が小さく言った。
「……悪く思わないでくれ」
わたしは彼を見た。
頬の骨が高く、目の周りの窪みが深い。彫るなら影の出やすい、いい顔だ。三年半のあいだ、わたしはこの顔を一度も彫っていない。頼まれなかったからだ。
「悪くは思っておりません」わたしは答えた。「わたしは、盛りませんので」
夫は意味が分からなかったらしく、眉を寄せた。
「なんの話だ」
「人形は嘘をつきません。彫る人が嘘をつくだけです」
◇
作業部屋へ戻る廊下には、納品を待つ人形が並んでいた。
十二体。どれも来月の縁談に使われる。伯爵家の三女、子爵家の次男、辺境の男爵家の末娘。全部わたしが彫った。全部、メルツ公爵家の名前で贈られる。
わたしは通りすがりに、いちばん端の一体を持ち上げた。
手のひらほどの、若い娘の姿。裾の裏側に、指の腹でしか分からない小さな窪みがある。木目の流れに紛れて、見ようとしなければ見えない。
母がわたしに教えた最初のことだった。彫った人形には、必ず自分の印を入れなさい、と。
なぜ、とわたしは聞いた。誰も見ないのに。
見ないから入れるのだ、と母は言った。
わたしは人形を棚に戻して、埃を指で払った。この十二体は明日の午後、わたしの名前が消えたあとに納品される。
伯爵家の三女は、笑うと右の目尻だけが下がる。子爵家の次男は、人の話を聞くとき無意識に唇を噛む。男爵家の末娘は、まだ骨が育ちきっていないので、来年になれば顔つきが変わる。
どれも、会って三十分でわかることだ。
わたしはそれを木に移しただけで、直したことは一度もない。目尻を上げてくれと言われても上げなかったし、噛み癖を消してくれと言われても消さなかった。そのたびに公爵家の使用人は困った顔をして、それでも人形は先方へ贈られ、縁談はまとまった。
まとまったのだ。三年半、一度も外さずに。
作業部屋の窓辺には、削りかけの木が一本、そのまま残っている。持ち出す許しは道具箱ひとつぶんしか出ていない。わたしはそれに触れずに、部屋を出た。
道具箱は、思っていたより重かった。
◇
門を出たのは、日が傾きはじめたころだった。
外套の下に道具箱を抱えて、石畳を歩く。
屋敷の門番は何も言わなかった。三年半、わたしがこの門を出入りするのを毎日見ていた人だ。門をくぐるとき、その人が一度だけ帽子に手をやった。挨拶なのか、癖なのか、わたしには分からない。分からないまま歩き出した。
王都の南、川沿いに灰通りという細い道がある。鍛冶と木工の小さな店が並んでいて、煤で壁が黒いから灰通りと呼ばれる。その突き当たりに、七年ぶりの家がある。
歩きながら、外套の内側の鍵を握った。
母が死んだ日から、この鍵はずっとここにある。三年半、一度も使わなかった。
握ったまま、手のひらの形を確かめる。
合っている。指の当たる位置も、腹に食い込む角の具合も、七年前とまったく同じだった。
——この鍵は、まだわたしの手を覚えている。
【今日の彫りおぼえ】人形には、必ず自分の印を入れること。誰も見ないから、入れる。
お読みいただきありがとうございます。
この国の縁組は、人形が先に会います。ということは、会う前に嘘をつく機会が一度あるということでもあります。この物語は、その一度をめぐる話です。
次話——七年ぶりの工房には、埃と、朽ちた棚と、なぜか見知らぬ子どもがひとりいます。




