第40話 研ぎ屋の刃
雨の日は、彫らない。
うちは川に近いので、降ると土間まで湿気が上がってくる。湿気を吸った木は、ほんのわずかに膨らむ。膨らんだ状態で削ると、乾いたときにそのぶん痩せる。夏の雨で三日続けて彫った年に、納めた人形が四体とも目のまわりから痩せた。母の帳面に、その四件が並んで書いてある。
だから、降ったら道具を仕舞う。
仕舞い方も決まっている。刃は布で拭いて、油を薄く引いて、箱へ入れる。箱は棚のいちばん上だ。床に近いほど湿気が溜まるので、下へは置かない。木は乾かし場から出さない。乾かし場の戸を閉めて、隙間に布を詰める。
それで、一日が空く。
◇
空いた日にすることは、掃除と、繕いと、帳面の写しだ。
ニナは帳面の写しをやる。受付簿の書き損じを清書して、日取りの入れ違いを直す。字は上手くないが、数字だけは正確だ。
わたしは繕いをやる。前掛けと、布巾と、乾かし場の布。針は苦手だが、母が使っていた道具箱に糸が入っていたので、使わないと減らない。
アンナさまは、雨漏りの受け持ちになった。
受け持ちを決めたのはニナだ。うちには決まった役割というものがなくて、その日にできる人ができることをやる。ただ、居候が三日を超えると、ニナは必ず何かを割り当てる。去年、自分がそう割り当てられたからだと思う。
最初に割り当てられたのは水汲みだった。次が木屑集めで、その次が受付簿だ。受付簿を渡したのはわたしだが、渡すと決めるまでに半年かかっている。
◇
うちは、二階の北側が漏る。
漏るのは去年からで、直そうと思っているうちに一年が経った。降ると三箇所に桶を置く。置く場所は決まっていて、床にうっすら跡がついている。
ニナが場所を教えて、アンナさまが桶を運んだ。
「ここと、ここと、あそこです」
「三つでございますね」
「三つです。あと、雨が強くなると四つ目が出ます」
「四つ目は、どちらでしょう」
「出てから探します」
四つ目は、昼前に出た。
アンナさまが階段を降りてきて、こう言われた。
「探しました」
「どちらでしたか」
「わたくしの寝ておりますところの、枕のあたりでございます」
◇
ニナが、階段を駆け上がった。
戻ってきて、腰に手を当てて言った。
「布団、濡れてます」
「濡れております」
「なんで言わないんですか」
「言うところでございましたので、いま言いました」
「もっと早く言ってください」
「はい」
アンナさまは、素直にうなずかれた。
うなずいてから、少しだけ口の端を上げられた。頬は動かない。ただ、その日の口の端の上がり方は、初めて見る形だった。
◇
昼過ぎに、戸を叩く音がした。
研ぎ屋の主人だった。頭から袋をかぶって、うちの三本を油紙に包んで持ってきていた。
「雨だと誰も来んからな。こっちから配る」
「ありがとうございます」
主人は土間の端に立って、包みを解いた。刃を一本ずつ布の上に並べて、指で光を確かめさせる。研ぎ上がりは、目で見るより光の返り方で分かる。
「先を丸めておいた。あんた、引いて使うだろう」
「はい」
「引く刃は、先を尖らせると木が裂ける」
わたしは三本を受け取って、順に指を滑らせた。引っかかりは無い。
◇
その流れで、聞いてみた。
「堤通りの工房の刃も、こちらへ出しておられますか」
主人は、袋を絞りながら答えた。
「出しとる。年に二度な」
「二度でございますか」
「二度だ」
うちは月に一度出す。年に十二度になる。
「向こうは職人が七人と伺いました」
「七人おって、年に二度だ」
主人は、店のほうを顎で指した。
「あそこの刃はこぼれん。減りもせん」
「なぜでしょう」
「使わんからだ」
◇
わたしは、その言葉を頭の中に置いた。
彫り手が七人いて、月に十二体を出す工房の刃が、年に二度しか研ぎに出ない。
考えられることは二つある。自分たちで研いでいるか、そもそも刃を使う量が少ないか。前者なら、砥石の減りが工房のほうに出る。後者なら、彫っている量と刃の減りが合わない。
人形を一体彫れば、細身の刃は必ず減る。面の仕上げは細い刃でしかできない。減らないということは、一体あたりに使う刃の時間が短いということだ。
短くする方法は、いくつかある。荒どりを人に任せる。仕上げを浅くする。
もう一つある。
彫り上げたもののうち、手を入れる一体を減らすことだ。
二体を並べて、良いほうにだけ仕上げの刃を入れる。良くないほうは荒どりで止める。止めたものは薪にすればいい。堤通りの乾かし場は広いので、二体ぶんの木を並べても場所は困らない。
こう考えると、数が合う。七人で月に十二体。荒どりは分ければ早い。細身の刃を使うのは仕上げの一人だけになる。
わたしは、その考えを口に出さなかった。
物証がない。研ぎ屋の刃の減り方は、その工房の話であって、あの一体の話ではない。人形は、割ってみないと中が分からない。
半年ほど前に割れた人形のことを、わたしはもう一度思い出していた。あのときは、こちらが割ったのではなかった。
◇
研ぎ屋の主人が帰ったあと、雨が強くなった。
四つ目の桶が、二階で鳴っていた。
夕方近くに、また戸を叩く音がした。今度は三度、間を空けて三度だった。
アーベルさまが立っていた。傘をお持ちでない。肩から下が全部濡れている。
「布を」
「けっこうです」
「けっこうではございません」
わたしが布を出すと、この方は受け取って、頭ではなく書類の束を先に拭かれた。
◇
書類は、無事だった。
「途中経過でございます」
アーベルさまは、濡れていない側の紙を出された。
「三十年ぶんの突き合わせが、二十四年前まで戻りました。届け出の欄と、彫り手名簿の欄を、一件ずつ突き合わせております」
「進んでおられますね」
「人を増やしましたので」
紙をめくる音がした。
「二十四年前の記録に、王家の縁組が一件ございます」
わたしは、湯を注ぐ手を止めなかった。
「贈られた先は、当代の国王陛下でございます。二十四年前の、先の王妃陛下のご縁組」
◇
「その人形が、院の保管庫に残っておりました」
「残っておりましたか」
「先の王妃陛下がお亡くなりになったのが十三年前です。お亡くなりになった方の人形は、院へ戻されます」
これは知っていた。母の帳面にも、戻したという記録が何件かある。人形は縁組の証しなので、縁が終われば戻る。離縁でも戻る。わたしのぶんも、たぶんどこかにある。
院の保管庫は地下にあって、棚が年ごとに分かれていると聞いたことがある。入れるのは検分方と院長だけだ。
アーベルさまは、検分方でいらっしゃる。
アーベルさまは、紙を膝に置かれた。
「昨日、開けました」
二階で、桶に落ちる水の音がしていた。
「裾の裏に、印がございました」
わたしは、湯呑みを置いた。
「線が、二本でございます」
◇
二本。
三本ではない。四本でもない。
わたしは、そのまま少し立っていた。立っていたのを、あとから思い出した。
アーベルさまが、こちらを見上げられた。
「ヴェルクマイスターどの」
「はい」
「二十四年前の、こちらのご当主は、どなたでいらっしゃいますか」
「……祖母でございます」
【今日の彫りおぼえ】刃は使えば減ります。減らない刃を持っている工房は、彫っていないか、彫ったものの半分に手を入れていないかでございます。
お読みいただきありがとうございます。
雨の日は休みでございます。休みの日に限って、方々から人がやってまいります。傘を持たずに来る方は、たいてい急いで来た方です。急いで来た方の持ってくる話は、たいてい長くなります。
次話——三十四日が過ぎました。二体、並びます。




