第38話 十年前の一体
翌朝、わたしは台の上のものに布をかけた。
かけたのは、隠すためではない。次に手を入れるまで埃を乗せないためだ。彫りかけに埃が乗ると、削り面の目に入り込んで、あとで色が変わる。母の五十体に布がかかっているのも同じ理由になる。
布をかけてから、わたしはアンナさまの座っておられる腰かけの正面に、自分の腰かけを持っていった。
客の正面に座るのは、彫るときと、聞くときだ。
「昨日、これまでのどれよりも、とおっしゃいました」
「申しました」
「これまでに、何体お作りになりましたか」
◇
アンナさまは、指を折らなかった。
折らずに、すぐ答えられた。数えなくても分かっている数というのは、そういう出方をする。
「四体でございます」
「四体」
「七つのときに一体。十二のときに一体。十四と、十五で一体ずつ」
「同じ工房でございますか」
「同じです」
わたしは、聞くべきことを一つずつ聞くようにした。順序を飛ばすと、答える側が構える。
「いちばん初めの一体は、どちらにございますか」
「宮の広間に、飾ってございます」
◇
「飾って、とおっしゃいますと」
「台に載せて、置いてございます」
アンナさまは、そこで少し間をとられた。間の取り方は、この方の癖ではない。癖でない間というのは、言葉を選んでいるということだ。
「七つのときの縁組は、流れました。相手の国の事情でございます。わたくしは何も聞かされておりません」
「では、人形は」
「戻ってまいりました。戻ってきて、そのまま広間に置かれました。十年、そこにございます」
見合い人形は、縁組が流れれば返される。返された人形をどうするかは家によって違うが、たいていは布に包んで仕舞う。仕舞う場所は納戸か、家によっては物置の高いところになる。
焼く家もある。焼くのは、その縁組の話をもう出さないと決めた家だ。うちへ持ち込んで削り直させる家もある。削り直すというのは、顔をいったん落として、その人の今の顔で彫り直すことをいう。母の帳面には、削り直しが年に二件か三件ずつ出てくる。二度目の縁組のために持ってこられるものだ。
飾る家は、聞いたことがなかった。
流れた縁組の人形を人目に置くのは、その家にとって恥になる。恥にならないとすれば、それは「流れた」と誰も思っていない場合だけだ。
◇
「どなたが、ご覧になりますか」
「大勢が」
「毎日でございますか」
「毎日でございます。広間は通り道でございますので」
アンナさまは、膝の上で指を組まれた。
「宮の者は、あれを見て、それからわたくしを見ます」
わたしは、その言い方を頭の中で二度なぞった。
順序が逆だ。ふつう、人は当人を見てから人形を見る。似ているかどうかを言うのは、当人を知っている側の役目になる。
この方の場合、人形が先にある。
「似ておいでですね、と申されます」
「はい」
「毎日、そう申されます」
◇
わたしは、次を聞いた。
「その一体は、どちらでお彫りになったものですか」
アンナさまは、答えられた。
「堤通りの工房でございます」
◇
わたしは、その名前を、あの工房を出てから一度も口に出したことがなかった。
母が死んだのは冬で、工房は春までに戸を閉めた。わたしは十七で、行くところが無かった。行くところが無い十七の娘に、彫る仕事を教えてくれる工房は、王都に一つしかなかった。
そこに三年半いた。
最初の半年は木を運んだ。乾かし場から作業場へ運んで、番号の札を差し替えて、帳面に日を書く。次の半年は荒どりの下の下をやった。丸太の皮を落として、四角く落として、そこまでだ。顔には触らせてもらえない。二年目から荒どりに入り、三年目に面の下彫りへ回された。
朝に灰で手の脂を落とすことも、木口を見て年輪の詰まりを読むことも、三か所を叩いて音を聞くことも、半分はあそこで覚えた。残りの半分は母から見て覚えていた。二つは、途中まで同じ道だった。
途中までしか同じではなかったので、わたしは出た。
出たあと、公爵家へ嫁いだ。それからのことは、王都の人が知っているとおりだ。
わたしは、灰通りへ戻ってきてから七年ぶんの帳面をつけ直したが、あの三年半のことは一行も書いていない。書かなかったのは、書くことがなかったからではない。
◇
「ヴェルクマイスターどの」
「はい」
「いま、何かお考えでしたか」
「木のことを考えておりました」
嘘ではなかった。あの工房で使っていた欅は、堤通りの乾かし場で六日干したものだった。うちは十日干す。四日の差が何を変えるのかを、わたしはあそこで一度も聞かなかった。
聞かなかったのは、答えが分かっていたからだ。
六日で足りる木を選んでいる。足りない木は、使わない。
選ぶ、というのは、そういうことだ。
◇
昼過ぎに、ニナが戸口から戻ってきた。
外で誰かと話していたらしい。帳面を抱えたまま、少し早口だった。
「あの、聞きました?」
「何をでしょう」
「堤通りの人形が、また一件流れたって」
ニナは帳面を台に置いた。
「今度は初対面のところで、って。向こうの家の人が、人形と本人を並べて、それで黙ったって聞きました」
「どちらから、お聞きになりました」
「魚屋の子です。あの子、あっちの縁続きなんです」
灰通りの話は、たいてい魚屋か金物屋から来る。どちらも朝が早い。
◇
夕方、アーベルさまが来られた。
湯呑みは出したが、この方は手を伸ばさなかった。二度目だ。冷めるまで置いて、そのまま帰られる。
「検分の日取りが決まりました。三十四日後でございます」
「承知しました」
「二体を並べます。キール工房の一体と、こちらの一体を」
「こちらは、まだお受けしておりません」
「受けなくても、並びます」
アーベルさまは書類を膝に置いた。置いてから、角を三度、台に当てて揃えた。
「殿下が、そう申し出ておられます。院の側は、断る理由を探しております」
検分というのは、贈る前に人形を院へ持ち込んで、三人の検分方が見る手続きのことだ。見るのは三点。当人に似ているか、木に無理がないか、届け出の欄が埋まっているか。三点とも通れば札が付き、札の付いた人形だけが贈れる。
ふつうは一体しか出ない。一つの縁組に一つの人形しか作らないからだ。二体を並べる検分は、王都では十年に一度あるかどうかで、あったとしても片方は削り直しのやり直しになる。
同じ人を、別の工房が二人で彫って並べる。それは検分ではなく、勝ち負けの場だった。
ふた月ほど前に、わたしは一度そこに立っている。あのときは公開で、立会は七十人いた。
◇
わたしは、湯呑みのほうを見ていた。
湯気は、もう出ていなかった。
「一つ、伺ってもよろしいですか」
アーベルさまが言われた。
「はい」
「彫り手名簿の、七年前より古い頁を読みました。突き合わせの仕事でございますので、順に読んでおります」
紙をめくる音がした。今度は、一枚だけだった。
「二十四年前から、順に。工房ごとに、誰が入って、誰が抜けたかが控えてございます」
わたしは、湯呑みから目を離さなかった。
「ヴェルクマイスターどの」
「はい」
「あなたは、堤通りの工房を、ご存じですね」
【今日の彫りおぼえ】六日で足りる木を選べば、六日で足ります。足りない木を使わなければ、失敗はいたしません。失敗をしないことと、嘘をつかないことは、別のことでございます。
お読みいただきありがとうございます。
人形が先にあって、人があとから見られる。順序が逆だと申しましたが、逆のまま十年続けば、それはもう逆ではなくなります。誰も逆だと思わなくなったころに、彫り手のところへ話が回ってまいります。
次話——十四の見習いが、また刃を止めます。今度は止めたところから先の話を、少しだけいたします。




