第37話 顔が、出ません
朝の光は、正直だ。
灯りで彫ったものを朝に見ると、たいてい二つか三つ、余分に削ったところが出てくる。灯りは一方向からしか当たらないので、影の出ない側の膨らみが見えない。朝の光は窓から斜めに入って、部屋の中で一度散ってから顔に戻ってくるので、影の薄いところまで拾う。
だから、彫り上がりは朝に見ると決めている。
その日の朝、わたしは台の上のものを、四半刻ばかり見ていた。
◇
削りすぎたところは、無かった。
目の窪みは深すぎず、小鼻の脇は残しすぎておらず、口の端の落とし方も測ったとおりだった。眉の高さは揃っている。目尻の位置も揃っている。鼻梁は途中で折れていない。
紐で測った数字と、彫り上がったものを、もう一度突き合わせた。
合っていた。
どこも合っているのに、それは誰でもなかった。
◇
わたしは、半年ばかり前のことを思い出していた。
義妹が自分の名で出した人形が、贈った先の卓の上で割れた話だ。あのとき、割れる前にその人形を見た人が、こう言ったと聞いている。
——似ていないというより、誰でもなくなっていた。
あれは、盛った人形だった。盛れば骨が動く。動いた骨は誰の骨でもなくなるので、そうなる。理屈は分かる。
これは、盛っていない。
一分も、半分も、足していない。測って、削って、削ったとおりに残してある。
それでも、同じ場所へ着いていた。
◇
ニナが降りてきて、台を覗き込んだ。
覗き込んで、口を開けて、閉じた。
「……上手ですよ」
「はい」
「上手なんですけど」
「はい」
ニナは、それ以上を言わなかった。言わないところが、ニナの言い方だ。
わたしは布をかけずに、台の上にそのまま置いておいた。かけると、次に取ったときにまた同じことを考える。考えたぶんだけ時間が経つ。
◇
昼に、アンナさまが降りてこられた。
三日いる、と言っていたのが、もう六日になっていた。誰も何も言わない。ニナは食事を四人分作るのをやめて、三人分にした。
アンナさまは、台の前に立った。
しばらく見て、それから、こう言われた。
「よく似ております」
わたしは、その言葉を聞いた。
聞いてから、この方が嘘を言っているのではないと分かった。嘘を言う人は、言い終わってから相手の顔を確かめにくる。この方は、確かめにこなかった。台の上のものを見たまま、そう言った。
「本当に、よく似ております」
「……さようでございますか」
「はい。これまでのどれよりも」
これまでの。
わたしは、その一言を聞き落とさなかった。聞き落とさなかったが、その日は聞き返さなかった。
この方は、台の上のものを、まっすぐ見ていた。見て、少し首を傾けて、また戻した。人が自分の顔を見るときの動きだ。鏡の前でする動きに近い。
似ているかどうかを言えるのは、本当は本人ではない。自分の顔は、鏡と水面と、他人の目に映ったぶんしか見たことがない。鏡は左右が入れ替わる。水面は揺れる。他人の目は、その人がこちらをどう思っているかで曇る。
それでも、たいていの客は自分の人形を見て何か言う。鼻が高い。頬が痩せている。母に似てきた。文句のようでいて、そのどれもが手がかりになる。文句が出ないときは、彫り手のほうが困る。
この方は、何も言わなかった。
言わずに、よく似ておりますと言った。
◇
午後、ミレナさまが荷を持って寄ってくださった。
わたしは、布をかけていない台のほうへ案内した。
「ご覧いただけますか」
「まあ、どなたのですの」
「それを、伺いたいのです」
ミレナさまは、少し笑ってから、真面目な顔で覗き込んだ。この方は商家の娘で、店の帳場に立つので、人の顔を覚えるのが仕事のうちに入っている。
しばらく見て、こう言われた。
「……どなたでしょう」
「どなたにも見えませんか」
「そうではありませんの。きれいですわ。きれいなのですけれど」
ミレナさまは、右の口角を上げなかった。
「明日には、忘れております」
◇
その言い方が、いちばん正しかったのだと思う。
人形は、贈られた先で一度だけ見られるものではない。卓の上に置かれ、家の者が見て、翌日にもう一度見て、それから当人が来る。三度目に見たときにも同じ人だと分かるかどうかで、その人形の値打ちが決まる。
忘れられる顔は、三度目に負ける。
わたしは、ミレナさまを見送ってから、台の前に座った。座って、何も彫らなかった。
◇
やれることは、順に試した。
まず紐を出して、測り直した。額を測った。顎を測った。眉を測った。数字は六日前と同じだった。彫り上がったものにも同じ紐を当てた。こちらも同じだった。
次に、光を変えてみた。窓を全部開けた。閉めた。灯りを近づけた。遠ざけた。台を回して、右から見て、左から見て、下から見上げた。
どの角度でも、同じものが出てきた。
それから、棚の一体と並べてみた。母が彫って納めなかったほうの人形だ。あちらは頬に丸みがあって、目尻が下がっている。並べると、あちらの顔だけが先に目に入った。こちらの顔は、あとから思い出す形でしか入ってこない。
最後に、母の帳面を出した。
二十冊を下から順にめくった。似ていない、と書いてある頁を探した。三冊目に一つあった。四冊目に二つあった。どれも理由が書き添えてある。木が動いた。客が痩せた。日を置きすぎた。
理由の書いていない頁は、無かった。
◇
夕方、ニナが箒を持ってきて、土間の隅から掃き始めた。
掃きながら、こちらを見ずに言った。
「どうするんですか、それ」
「分かりません」
「珍しいですね」
「はい」
「あなた、分からないって言ったことないです」
わたしは、台の上のものを見た。
目があって、鼻があって、口がある。全部ある。
「顔が、出ません」
ニナは、箒を止めた。
止めて、しばらく何も言わずに立っていた。それから、また掃き始めた。掃く音が、いつもより長く続いた。
◇
その夜、戸を叩く音がした。
二度。待たない叩き方だ。
開けると、キールさまが立っていた。手ぶらだった。灰通りは堤通りへ帰る道ではない。この人は、遠回りをして来ている。
「典礼院からの帰りだ」
「さようでございますか」
「検分の日取りが決まった。追って院から通知が行く」
キールさまは、土間へ入らなかった。戸口の外に立ったままだった。
わたしの背中側には、布をかけていない台がある。この人の目は、たぶんそこまで届いている。
「難儀しとるようだな」
「はい」
わたしは、隠さなかった。隠しても、この人には分かる。彫る人間には分かる。
キールさまは、少しだけ顎を引いた。
◇
「あんたは、あの方を今日はじめて彫った」
「はい」
「わしは、十年前から彫っとる」
通りの向こうで、戸を閉める音がした。ハウザーさんが、いつもの時刻に戸を半分閉めた音だ。
「わしの彫った王女殿下は、十年前から、ちゃんと似ておりますよ」
【今日の彫りおぼえ】人形は、三度目に見たときに勝ち負けが決まります。一度目にきれいなものは、たいてい三度目に負けます。
お読みいただきありがとうございます。
盛らなければ似る、と思って七年やってまいりました。盛っていないのに似ないというものが世の中にあると、この工房は今日はじめて知りました。分からないと口に出すのは、たぶん、あまり良くない癖でございます。
次話——十年前に彫られた一体が、宮のどこかに飾ってあるそうです。




