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「人形のような妻だ」と離縁されたら、公爵家の縁談が全部壊れました  作者: 風音シエル


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第35話 四人分の食卓

 アンナさまは、翌々日の朝に来られた。


 頭巾はかぶっていた。ただ、前の日より深くはない。顎から下と、口のあたりまでが出ている。


「三日、こちらに置いていただけますか」


 わたしは、聞き返さなかった。


「彫るあいだ、そばにいたいのです」


「彫るには、まだ日がございます」


「では、日が来るまでいます」


 ニナが、箒を持ったまま固まった。


 断る理由は、いくつも思いついた。うちは宿ではない。二階に空いている部屋はない。木を置いてある部屋に人を寝かせると、人のほうが湿気を出すので木が動く。


 断らない理由は、ひとつだけだった。


 人形は、座っている時間ぶんしか正直にならない。三日そばにいる客というのは、三日ぶん正直になる客ということだ。宮から通ってきて、四半刻だけ椅子に座って帰る客より、割れた皿を拾う客のほうがよく彫れる。


 母は、住み込みの客を二度取ったことがある。帳面にそう残っている。どちらも仕上がりの評判がよかった。


「どうぞ」


 わたしはそう言った。ニナが、箒の柄でわたしの背中を軽く突いた。


    ◇


 二階には、部屋が二つある。


 ひとつはニナが使っている。もうひとつは物置で、板と、乾かし途中の木と、母の使わなくなった道具が入っている。人が寝られる広さはあるが、寝ていい広さではない。


 片づけるのに、半日かかった。


 板は立てて壁に寄せた。木は下へ降ろすと湿気を吸うので、そのまま部屋の隅に積んで布をかけた。道具は箱ごと廊下へ出した。埃は掃いて、それから絞った布で二度拭いた。木の粉というのは掃いただけでは取れない。乾いた布でも取れない。絞った布で、一方向に拭く。往復させると、また散る。


 その半日のあいだ、アンナさまは階段の途中に座って、こちらを見ていた。


「手伝われますか」


「手伝い方が、分かりません」


    ◇


 昼に、湯を沸かしていただくことにした。


 竈に火を入れて、鍋に水を張って、かけるだけだ。ニナが火の入れ方を教えた。


「まず、細いのを組んで、下に木屑を入れます」


「はい」


「火を移したら、いじらないでください」


「はい」


 アンナさまは、いじった。


 火は消えた。


 二度目も消えた。三度目に、ニナが「いじらないでって言いました」と言った。言い方はきつかったが、手つきは丁寧だった。ニナは、怒っている相手の手元にはちゃんと触る。


 四度目で、火はついた。


 アンナさまは、鍋の中を覗き込んだまま動かなくなった。


「まだ沸きません」


「沸きません」


「どのくらいでしょう」


「そのくらい待つと沸きます」


 ニナの説明は、いつもこの調子だ。それで、たいてい通じる。


    ◇


 午後は、皿と木屑だった。


 うちで出る木屑は二種類ある。荒どりで出る大きいのと、仕上げで出る粉のようなのだ。大きいほうは竈へ入れる。粉のほうは布の袋に集めて、乾かし場の下に置く。湿気を吸わせるためだ。


 混ぜてはいけない。粉を竈へ入れると、勢いよく燃えて火が上がりすぎる。


 アンナさまは、混ぜた。


 ニナが飛んできて、袋を引ったくった。


「これは竈じゃないです」


「申し訳ありません」


「あと、そっちのは触らないでください。それ、乾かしてる途中の顔です」


 アンナさまは、手を引いた。


 引いてから、棚のほうを見た。棚には母の彫りかけが五十体並んでいて、そのいちばん手前、光の入るところに、布のかかっていない一体が立っている。


 その一体だけ、仕上がっている。


 アンナさまは、それを見た。見たが、何も言わなかった。


    ◇


 皿は、割れた。


 井戸は裏の路地にある。灰通りの家は、三軒でひとつを使う。順番はない。行って、先に人がいたら待つ。


 汲むには段取りがある。桶を落として、縄を二度しゃくって、桶の口を伏せてから引く。伏せないと水が半分しか入らない。引くときは腕で引かずに、体重を後ろへ移す。腕で引くと、途中で持ち替えることになって、そこで水がこぼれる。


 うちは一度に二杯汲む。一杯目は洗い、二杯目はすすぎだ。冬は三杯汲む。手を温める分がいる。


 二枚目だった。井戸から汲んだ水は冷たくて、指がかじかむ。かじかんだ指で縁を持つと、滑る。


 割れた音がしてから、アンナさまが動かなくなった。


 ニナが立ち上がりかけたので、わたしは目で止めた。


 しばらくして、アンナさまはしゃがんだ。大きい欠片から順に拾って、掌に載せて、集めた。集めてから、それをどうすればいいのか分からずに、そのまま持っていた。


「そちらへ」


 わたしは、木屑の入っていない空の桶を出した。


 アンナさまは、欠片を入れた。


「……申し訳ありません」


「二枚目です」


「はい」


「うちは、六枚ございます」


    ◇


 夕方、ニナが四人分を作った。


 うちの夕食は、たいてい一つ鍋で済ませる。芋と豆と、あれば肉の切れ端。皿に取り分けて、パンを添える。ニナは取り分けるのが上手い。人数を先に決めて、鍋の中身を目分量で割る。


 その日、ニナは四つに割った。


 卓には三人しかいない。


 アンナさまが、余った皿を見た。


「どなたの分ですか」


 ニナは、パンを切りながら答えた。


「余ったんです」


「四つに割られました」


「割ってません」


「割っておられました」


 ニナはパンを置いた。


「……たまに来る人がいるんです。最近、来ないだけです」


 アンナさまは、それ以上聞かなかった。


 わたしも、聞かなかった。


    ◇


 食べているあいだに、ハウザーさんが戸を叩かずに開けた。


 あの人は鍋を持ってくると長い。取っ手のはずれた鍋で、直すのは自分でできるのに、直すあいだの立ち話をしに来る。


「聞いたか」


「何をでしょう」


「ゼルテンが突き返したとよ」


 ハウザーさんは、卓の四つ目の皿を一度見て、何も言わなかった。


「堤通りのだ。娘さんの人形をこしらえて、贈った先で開けたら、当人と並べて誰も声を出さなかったと」


「似ておられなかったのですか」


「逆さまだ。似すぎとった」


 ハウザーさんは鍋の取っ手をはめ直した。


「よその娘さんに、な」


 ハウザーさんが帰ったあと、わたしはその話を考えていた。


 似すぎる、というのは彫り手の褒め言葉ではない。人の顔は日ごとに違う。朝と夜で目の下の張りが変わり、季節で頬の厚みが変わる。人形が似るのは、その幅の真ん中に当てたときだけだ。真ん中を外して、たまたまその日の顔に当てると、当たりすぎたぶんだけ他の日と合わなくなる。


 よその娘に似た、というのは、そういう話ではない。


 誰か別の人の顔を見て彫れば、そうなる。


    ◇


 夜、二階から音がした。


 軋む音ではない。物を動かしている音だ。しばらく続いて、止まって、また続いた。


 わたしが階段の下まで行くと、ニナが降りてきた。


「あの人、探してます」


「何をでしょう」


「鏡です」


 ニナは、あくびをしながら言った。


「物置に無いって言うから、ここには一枚しかないですって答えたんです。井戸端のやつ。そしたら、井戸端まで行きました」


「暗うございましょう」


「灯り持ってきました」


 ニナは、階段に腰を下ろした。


「あの人、鏡がないと落ち着かないんですよ」


 わたしは、井戸端のほうを見た。


 戸の隙間から、灯りの色が細く入ってきていた。

【今日の彫りおぼえ】木の粉は掃いても取れません。乾いた布でも取れません。絞った布で、一方向に拭きます。往復させると、また散ります。


お読みいただきありがとうございます。


皿は二枚割れました。うちの皿は六枚あって、そのうち二枚は前から欠けております。人数より多く割ってあるくらいでちょうどよい、というのが母の考えでした。ちょうどよくない日もありますが。


次話——木を選びます。三枚出して、三枚とも音が低い日というのがございます。

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