第34話 濃い蝋
封蝋の欠片は、捨てずに取ってあった。
うちでは、封を切ったあとの蝋を小皿に集めておく。理由は二つある。溶かせばもう一度使えるのが一つ。もう一つは、母がそうしていたからだ。開けた封は捨てずに残す、というのはこの家の癖で、癖には理由が要らない。
小皿には、赤茶の欠片が七つ入っていた。
いちばん大きいものを摘まんで、窓の光に透かしてみた。透けない。よく練った蝋は縁のところだけ光を通すので、厚みがそのまま分かる。これは端まで濁っていた。
◇
「拝見しても」
アーベルさまは、そう言ってから手を出した。
この方は、こちらの物に触るとき、必ず先に言う。三年半のあいだ公爵家の作業部屋にいた人は、誰も言わなかった。入ってきて、見て、置いて、出ていった。
わたしは小皿ごと渡した。
アーベルさまは欠片を指の腹に載せて、窓のほうへ向けた。それから、爪の先で縁を軽く押した。押した跡が残った。
「……これは、院のものではありません」
「と、申しますと」
「典礼院の蝋は、混ぜ物の割合が決まっております。薄く延びて、押した縁が立たない。書状の束を重ねて運ぶので、盛り上がっていると擦れて欠けるのです」
アーベルさまは欠片を小皿へ戻した。
「院の書状には、封蝋を押す係の者がおります。四人。一日に百五十から二百を押しますので、手つきは揃います」
「揃った蝋は、どうなります」
「薄くなります。この半分の厚みです」
◇
わたしは、紙のほうを出した。
枠のない紙に、七行。署名は名前がひとつ。
アーベルさまは紙を受け取って、上から下まで読んだ。読んでから、もう一度上へ戻って、六行目のところで止まった。
——あなたのお彫りになったものを、二度、見たことがございます。
「これは」
「三日前の夜、戸の下に差し込まれておりました」
「三日前」
アーベルさまは紙を膝に置いた。置いて、しばらく膝の上を見ていた。
「院の書式ではありません」
「はい」
「院を通っておりません。式部の側も通っておりません。つまり——」
そこで言葉を切った。切ったところで、外の音が入ってきた。荷車が二台、続けて通っていく音だ。
「これは、ご本人がお書きになって、ご本人がお押しになった」
◇
その言い方は、正しかったのだと思う。
王家の紋の型は、宮の中にいくつもある。書記の手元にも、式部の手元にもある。だが、それらは決まった手つきで押される。手つきが揃うから、揃っていない蝋は「押し慣れていない人が押した」ということになる。
押し慣れていない人が、王家の型を持ち出して押した。
持ち出せる人は、そう多くない。
「ヴェルクマイスターどの」
「はい」
「この依頼を、お受けになりましたか」
「まだでございます」
「お受けにならないほうが」
「なぜでしょう」
アーベルさまは、ようやく顔を上げた。
「筋を通っていない依頼は、あとから筋のほうが追いかけてまいります」
◇
その意味は、こちらにも分かった。
彫り手名簿というのは、腕を保証する帳面ではない。誰が、どこの家の、どの縁組の人形を彫ったかを控えるための帳面だ。載っていない仕事をすると、載っていないこと自体が咎になる。
母の欄に「申し出により」と書かれて消えたのも、その帳面だった。
わたしは、七行の紙を畳まずに、台の上に置いたままにした。
「お断りするとしたら、どこへ申し上げればよろしいでしょう」
「……宛先が、ありませんね」
「ございません」
アーベルさまは、少し黙った。
「では、断れないということです」
◇
午後になって、ニナが客を三人さばいた。
うちの午後は忙しい。朝は彫る時間なので人を入れず、昼を過ぎてから受ける。ニナは戸口で用件を聞いて、その場で三つに分ける。今日中に済むもの、日を改めるもの、うちでは受けないもの。三つ目がいちばん多い。
断り方は、ニナのほうが上手い。
「うち、盛らないので。よそのほうが早いです」
そう言うと、たいていの人は納得して帰る。納得しないで食い下がる人には、日取りの詰まった帳面を見せる。それでも食い下がる人は、月に一人か二人いる。
その日は、いなかった。
三人のうち二人は、日を改めることになった。日を改める客には、木の名前を一つ渡すのがうちのやり方だ。欅か、朴か、桂か。次に来るまでに考えてきてもらう。考えてきた人は、たいてい話が早い。考えてこなかった人は、そもそも来ない。
残りの一人は、寸法だけ取って帰った。寸法は紐で取る。紐を額に一周させて、耳の上で印をつける。同じことを顎でもする。二本の紐の長さの差が、その人の顔の縦の癖になる。数字は書かない。紐のまま帳面に挟む。
母のやり方だ。紐なら、目盛りを読み違えない。
◇
夕方、アーベルさまが書類の束を開いた。
この方が書類を開くのは、話が仕事の側へ移るときだ。
「三十年ぶんの突き合わせが、二十年前まで戻りました」
「早うございますね」
「人を増やしました。院の外から六人」
紙をめくる音がした。
「途中の話ですが、届け出の漏れが出ております。工房ごとに数えて、多いところで二件」
「多いところ、とは」
「堤通りです」
わたしは、湯を注ぐ手を止めなかった。
止めなかったが、注ぎ終わってから、湯呑みを置く先を間違えた。いつもの位置より、指二本ぶん手前に置いた。
「二件は、どういう漏れでしょう」
「贈った先が控えてある。彫った日も控えてある。彫り手の欄だけが空です」
◇
湯呑みは、そのまま置かれていた。
アーベルさまは、手を伸ばさなかった。
「いただけません」
「冷めます」
「冷めます」
この方は、湯呑みを両手で持つ人だ。持ってから、しばらく口をつけずに温める。それを一年近く見てきたので、手を伸ばさない夕方は、こちらのほうが落ち着かない。
「王女殿下のお見合い人形は、キール工房が承りました」
「伺いました」
「私は、その人形を検分いたします」
アーベルさまは、書類の束を膝の上で揃えた。角を三度、台に当てて揃える。この方の癖だ。
「もし、あなたがこの依頼をお受けになれば、私は、あなたの人形も検分することになります」
「はい」
「同じ日に、二体を並べて」
◇
「ですから、それまでは」
アーベルさまは立ち上がった。
「お茶も、いただけません」
戸口まで行って、そこで一度だけ振り返った。
「……冷めたぶんは、私のぶんではありませんので」
言い方が、少しだけ皮肉になっていた。この方は、決まりの話をするときにだけ、そういう言い方をする。
戸が閉まってから、ニナが階段の途中に立っているのに気づいた。
「あの人、変ですよ」
「そうでしょうか」
「ぜんぜん帰りたくなさそうに帰りました」
ニナは湯呑みを片づけながら、中を覗いた。
「あ、これ、一口も飲んでない」
◇
その夜、わたしは七行の紙をもう一度読んだ。
二度、見たことがございます、とある。
どこで見たのか。三年半のあいだに彫った二十七体は、王家に近い家へも渡っている。あの二十七のうちに「名を伏せられた方」が一人あったことを、わたしは思い出していた。
紙の右下の紋は、押し慣れていない手が押していた。
押した人は、押しながら、たぶん誰にも見られていなかった。
【今日の彫りおぼえ】揃った手は薄く押します。揃っていない手は厚く押します。厚い蝋を見て「丁寧だ」と思うのは、押したことのない人でございます。
お読みいただきありがとうございます。
断り方の話をしました。断るには宛先が要ります。宛先を書かない手紙というのは、そこまで考えて書かれている手紙のことです。書いた人は、たぶんそれを何日か考えてから、蝋を垂らしております。
次話——工房に、湯も沸かせない人が三日ばかり居座ります。皿は割れます。




