第33話 選んでおられます
灰通りを歩いてくる人は、たいてい端を歩く。
道の真ん中は荷車が通るので、朝のうちは特にそうだ。慣れている人ほど、戸口すれすれの一尺を選んで歩く。慣れていない人は真ん中を歩いて、荷車が来るたびに寄る。
その日の男は、真ん中を歩いてきた。
荷車が来ても寄らなかった。荷車のほうが避けた。
ハウザーさんが桶を洗う手を止めた。止めて、そのまま止めていた。あの人が三言を出さないのは、めずらしい。
◇
男は、うちの前で足を止めた。
立ち止まったのは戸口ではなく、看板の真下だ。首を後ろへ倒して、彫ってある文字を、上から下へ一度、下から上へもう一度見た。
それから、こう言った。
「同じことを、書いておられる」
わたしは戸を半分開けたところで、その声を聞いた。
「うちの看板にも、同じ五文字が彫ってあります。堤通りのほうです」
男は首を戻した。
「盛りません、と」
◇
年は四十を一つ二つ過ぎたくらいだ。骨は、悪くなかった。
こめかみから頬骨へ抜ける線が太くて、その下の肉が落ちている。若いころは丸い顔だったはずだ。落ちてから出てきた骨のほうが、たいてい本人に似る。
指が短かった。ただ、短い指の関節が、どれも同じだけ太い。木を握って三十年やった手の形だ。
わたしは戸を開けた。
「どうぞ」
「入れてくれるのか」
「彫り手の方は、お入りいただいております」
男は土間へ入って、まっすぐ作業台のほうへ行った。
行って、何も触らなかった。
◇
これは、めずらしいことだ。
彫り手が他所の工房へ入ると、たいてい木を触る。板の端を撫でるか、削り屑を指で潰すか、刃の置き方を見る。触らずにいられないのは、手のほうが先に動くからだ。
この人は、目だけで済ませていた。
棚の五十体を右から左へ見て、乾かし場の板を見て、竈の火加減を見て、そこで止めた。止めた先には、うちの水甕がある。
「湿気が強いな。川が近い」
「近うございます」
「割れるだろう」
「割れます。ですので、十日いただきます」
「十日か」
男は、初めてこちらを見た。
「うちは六日だ」
◇
「ラウレンツ・キールという」
「存じております」
「知っているのか」
「昨日、伺いました」
その名前を、わたしは昨日まで一度も口に出したことがなかった。聞いたことがある、というだけにしてあった。
堤通りは、王都の東だ。灰通りとは川を挟んで反対側になる。
あちらは水はけがよくて、乾かし場を広く取れる。うちのように十日待たなくてよいのは、腕の差ではなく土地の差だ。人を雇えば、乾かしているあいだにも別の一体を進められる。キール工房は職人が七人いると聞いたことがある。月に十二体を出すとも聞いた。
うちは月に三体だ。彫っているのが一人しかいないので、それ以上は出ない。
「王女殿下の見合い人形は、うちが承った」
「はい」
「典礼院の決裁は昨日下りている。式部の側の承認も済んでいる」
キールさまは、腰かけには座らなかった。立ったまま話す人だ。
「それでも、こちらへ来た。用向きは一つだ」
「伺います」
「下彫りを回す。荒どりまでを、あんたのところで」
「荒どりを」
「面と目は、うちで入れる。人形の名は、キール工房で出す」
荒どりというのは、丸太から人の形までを出す仕事だ。首の傾き、肩の落ち、頭の大きさと胴の釣り合い。ここで骨が決まる。決まったあとに面を彫るのは、決まった骨の上に皮を張る仕事になる。
どちらが重いかは、彫る人によって言うことが違う。わたしは骨のほうだと思っている。だから、この申し出は「重いほうをよこせ」と言われているのと同じだった。
同じなのだが、人形に残るのは面のほうだ。誰が見ても、顔は面の側にある。
三年半、わたしがしていたのは、その逆だった。骨も面も彫って、名だけ渡していた。
◇
ニナが階段の上にいた。降りてこなかった。降りてこないときのニナは、たいてい怒っている。
「お断り申し上げます」
「金は出す」
「金の話ではございません」
「ではなんの話だ」
「わたくしは、盛りません」
キールさまは、それを聞いても顔を動かさなかった。
「うちもだ」
「存じております。看板を拝見しました」
「人形に移って十五年、一度も盛っていない。一分も、半分も、盛らずに来た」
この人は、嘘を言っていない。
嘘を言うときの人は、言い終わったあとに一度、相手の顔を確かめる。届いたかどうかを見にくる。この人は見にこなかった。言ったきり、こちらの返事を待つ構えのまま止まっていた。
言っていないのが分かるので、こちらも黙るしかなかった。
盛らないと言い、実際に盛っていない。それでも王家の仕事を取り、月に十二体を出し、去年から御用達になっている。うちは月に三体で、王家の仕事は封筒一通しか来ていない。
同じ言葉を掲げていて、これだけ違う。
違うのなら、どちらかが、その言葉を別の意味で使っている。
◇
キールさまは、抱えていた布包みを台の上に置いた。
解くと、人形が一体出てきた。
見本だ。腰から上だけの、半身のもの。工房の主が客先へ持って歩くのは、たいていこの形になる。
「見ろ」
わたしは見た。
いい仕事だった。目尻の皮の薄さまで彫ってある。鼻梁の途中でわずかに折れているところを、直さずに残してある。盛っていないのは、見れば分かった。
「盛っていないだろう」
「盛っておられません」
「では、何が違う」
わたしは、断ってから、人形を手に取った。
◇
叩くのは三か所と決まっている。
額の上、頬の裏、それから裾の内側だ。同じ強さで叩いて、返る音を聞く。木は乾き方が場所で違うので、三つの音が揃っていれば一本から素直に取れている。
一度目。
二度目。
三度目で、裾の音だけが高かった。
「この木は、外を取っておられますね」
キールさまの喉が、一度上下した。
「一本の欅から、丸のまま二体は取れません。木取りをすれば、外を取ったほうと、内を取ったほうになります。外は締まっていて、音が高い」
わたしは人形を布へ戻した。
「内を取ったほうは、どちらにございますか」
◇
土間が、しばらく静かだった。
外で荷車が通って、通り過ぎた。
「二度、彫っておられますね」
わたしは言った。
「一本の木から二体お取りになって、彫り上げてから、よろしいほうをお持ちになる」
「盛っておりません」
キールさまは、そう言った。
「選んだだけです」
◇
わたしは、人形の裾の内側を、もう一度見た。
窪みがない。
「刻印は、入れておられないのですか」
「入れん」
「代の線は、何本でいらっしゃいます」
「無い」
キールさまは布を結び直した。結び方は速かった。
「わしが一代目だ。継いでおらん。継いでおらん者に、引く線はない」
結び終えてから、こちらを見た。
この人の目は、木を見るときと人を見るときで、動き方が同じだった。
「あんた、名を聞いていなかったな」
「ヴェルクマイスターと申します」
◇
キールさまは、包みを抱え直した。
抱え直してから、動かなかった。土間の光が、その人の靴の先まで届いていた。
「……ヴェルクマイスターの娘か」
【今日の彫りおぼえ】一本の木から二体は取れます。取れますが、外と内で音が違います。木は、どちらを選んだかを覚えております。
お読みいただきありがとうございます。
盛らない、と言い切る人は、そう多くありません。多くないからこそ、同じ言葉を掲げている人と出会ったときに、はじめて「では何が違うのか」を考えることになります。この工房は、その問いを今日はじめて突きつけられました。
★とブックマークは、外を取ったほうにも内を取ったほうにも押せます。押していただけると、こちらからも分かります。
次話——蝋の色が濃かった理由が分かります。ついでに、お茶を一杯ぶん断られます。




