↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「人形のような妻だ」と離縁されたら、公爵家の縁談が全部壊れました  作者: 風音シエル


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
32/45

第32話 名を伏せたお客さま

 客を土間へ入れるまでの手順は、母のころから変わらない。


 まず腰かけを出す。次に、その人の座る側の窓を半分開ける。人形の顔を見るには光が要るが、正面から当てると影が消えて骨が読めなくなるので、斜めから入れる。夏でも冬でも、開けるのは同じ側だ。


 それから、湯を注ぐ。


「どうぞ」


「頂戴します」


 娘は湯呑みを両手で受け取って、膝の上に置いた。飲まない。


 頭巾も、取らなかった。


    ◇


「お顔を、拝見してもよろしいでしょうか」


「まだです」


「承知しました」


 わたしは、それ以上聞かなかった。


 顔を見せない客というのは、ときどきいる。痕のある人、病の跡が残っている人、そもそも人前に出るのが嫌な人。第一に大事なのは彫ることではなく、その人が座っていられることなので、こちらから急かさない。


 北の男爵家のテオドラさまは、初めの日、顔の左をこちらへ向けられなかった。向けてくださいとは言わなかった。言わずにいたら、その日のうちにご自分で向き直られた。


 ああいう順序を、こちらの都合で縮めてはいけない。縮めると、その縮めたぶんが顔に出る。強張った顔を彫れば、強張った人形になる。人形は、座っていた時間ぶんしか正直にならない。


 母は、それを「待つのも彫るうち」と言っていた。子どものころは、仕事をしない言い訳だと思っていた。


 ただ、見えているところは見える。


 顎の先が出ていた。頭巾の縁から、輪郭が二寸ぶん。


 わたしはそれを見て、少し考えてから口に出した。


「王家の顎でいらっしゃいますね」


    ◇


 ニナが、帳面を落とした。


 娘は、動かなかった。


 驚いたようにも、慌てたようにも見えない。ただ、湯呑みを持つ指の位置が、わずかにずれただけだ。


「どうして、そう思われたのですか」


「顎の先が、横に平らでいらっしゃいます」


 わたしは自分の顎を指でなぞって見せた。


「たいていの方は、ここが丸いか、尖っているかのどちらかです。平らな方は少ない。少ないので、記録に残ります」


「記録」


「典礼院の見合い人形は、贈り先の家ごとに骨の癖が控えてあります。王家の欄には、顎が平らと書いてございます。三代ぶん、同じ字で」


 娘は、湯呑みを膝に戻した。


「よく、覚えておいでですね」


「覚えるものではなく、残るものです」


    ◇


 娘は、それから頭巾を取った。


 わたしは、その顔を見た。


 整っていた。


 整っている、というのは、この仕事では褒め言葉として使わない。左右の差が小さく、眉の高さが揃い、鼻梁の線が途中で折れていない。頬骨の張りと顎の細りの釣り合いがよく、目尻の位置が高すぎも低すぎもしない。彫る側からすると、測る手間が少ない。


 ただ、彫りやすい顔と、彫って似る顔は、同じではない。


 人の顔で似るところは、たいてい釣り合いの外にある。片方の眉だけ高いとか、笑うと右の口角が先に上がるとか、鼻の下が思ったより長いとか、そういうところだ。うちの帳面には、寸法よりもそちらのほうを多く書く。寸法は測れば誰でも同じ数字が出るが、外れているところは見た者が見つけるしかない。


 この方の顔には、外れているところが見当たらなかった。


 わたしは、目のあたりから額へ、それから顎の線へ、順に視線を移した。三度移して、三度とも同じ場所で止まらなかった。止まる場所がない、という顔だった。


 ニナは帳面を拾ったまま、口を半分開けていた。


「……きれいですね」


「はい」


「なんか、絵みたいです」


 娘は、そこで初めて笑った。


 口の端だけが上がった。頬の肉が動かない。目尻の皮も動かない。笑うと、ふつうは目の下に小さな膨らみが出る。出なかった。


 わたしは、それを見た。


    ◇


「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」


「アンナ、と申します」


「アンナさま」


「はい」


 ニナが帳面を開いた。


「家名は」


「ございません」


「無いってことは、ないでしょう」


「ニナ」


 わたしが言うと、ニナは口をとがらせて、それでも書いた。書くときは、名前と、日と、どこから来たかの三つを書くことになっている。三つ目の欄に、ニナは何も書かなかった。


「あの」


 娘が言った。


「その帳面には、どなたの名も残るのですか」


「残ります」


「残したままに、していただけますか」


 ニナが顔を上げた。


「消してほしい、じゃなくてですか」


「はい」


 ニナは、少し考えてから、名前の下に線を一本引いた。うちの帳面では、それは「取り消し」ではなく「大事な客」の印だ。誰が決めたのでもない。ニナが勝手にそう決めた。


    ◇


 注文の話になった。


 贈り先は、教えていただけなかった。日取りも決まっていないと言われた。木の指定もない。


 こちらから聞いたのは、二つだけだ。


「お顔は、どなたにも見せておられませんか」


「見せております。毎日、大勢に」


「では、そのお顔を彫ってよろしいのですね」


 娘は、少し黙った。


 黙ったのは、考えたからではないと思う。答えを持っている人の黙り方だった。持っていて、出すかどうかを決めているときの間だ。


「盛らないでいただきたいのです」


「盛りません」


「盛らないと、どうなりますか」


「そのお顔になります」


 娘は、湯呑みをもう一度見た。


 それから、初めて口をつけた。


    ◇


 娘が帰ったあと、ニナは帳面を閉じずに立っていた。


「あの人、王家の方ですよね」


「そうかもしれません」


「そうかもって」


「名乗られませんでしたので」


 ニナは帳面を胸に抱えた。


「じゃあ、うちは名乗ってない人の人形を彫るんですか」


「名乗らない方の人形は、前にも彫りました」


「あれはアーベルさまでしょう」


「はい」


「あの人は、いい人だったからいいんです」


 ニナの理屈は、ときどき筋が通る。


    ◇


 午後、ミレナさまが荷を持って寄ってくださった。ケルナー商会は月に二度、灰通りの端まで荷車を回している。


 立ち話のあいだに、ミレナさまが言った。


「メルツのお嬢さま、お見かけしましたのよ」


「どちらで」


「北の門の外の、写しの店ですわ。書き写しの仕事をなさっているとか」


 ミレナさまは、笑うとき右の口角が先に上がる。今日は上がらなかった。


「彫るのは、おやめになったそうです」


「そうですか」


「それだけですの。それだけを、お伝えしたくて」


 わたしは、荷を受け取った。


 彫るのをやめたと聞いて、何かを思うだろうと自分では思っていた。思わなかった。ただ、あの人の指の関節が、彫る人の形にはならないまま終わったのだと考えた。


    ◇


 夕方は、いつも手が空く。


 日が傾くと窓から入る光の角度が変わって、細かいところが見えなくなる。灯りでも彫れないことはないが、影の出方が昼と違うので、昼に彫った面と夜に彫った面では削り具合が変わる。母は日が落ちたら刃を置く人だった。わたしも置く。


 置いてからは、道具を拭いて、木屑を集めて、翌日の板を出しておく。土間を掃くのは最後だ。先に掃くと、拭いた道具の上にまた木屑が落ちる。


 箒を戸口へ立てかけたところで、外に足音がした。


 アーベルさまが来られた。


 湯呑みを両手で受け取って、いつもの椅子に座った。座ってから、書類の束を膝に置いた。置いたまま、開かない。


「先に申し上げます」


「はい」


「王女殿下のお見合い人形は、堤通りのキール工房が承ることに決まりました」


 窓の外で、荷車が通った。


「昨日の午後、典礼院で決裁が下りております」

【今日の彫りおぼえ】笑ったときに目の下が動かない顔は、笑い方を後から習ったお顔でございます。習ったものは、たいてい、よくできております。


お読みいただきありがとうございます。


顔を見せない客は珍しくありません。珍しいのは、顔を見せているのに見せていない客のほうです。この工房は、そちらのほうがずっと苦手でございます。


次話——同じ看板を掲げた工房の主が、通りの向こうから歩いてまいります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。