第32話 名を伏せたお客さま
客を土間へ入れるまでの手順は、母のころから変わらない。
まず腰かけを出す。次に、その人の座る側の窓を半分開ける。人形の顔を見るには光が要るが、正面から当てると影が消えて骨が読めなくなるので、斜めから入れる。夏でも冬でも、開けるのは同じ側だ。
それから、湯を注ぐ。
「どうぞ」
「頂戴します」
娘は湯呑みを両手で受け取って、膝の上に置いた。飲まない。
頭巾も、取らなかった。
◇
「お顔を、拝見してもよろしいでしょうか」
「まだです」
「承知しました」
わたしは、それ以上聞かなかった。
顔を見せない客というのは、ときどきいる。痕のある人、病の跡が残っている人、そもそも人前に出るのが嫌な人。第一に大事なのは彫ることではなく、その人が座っていられることなので、こちらから急かさない。
北の男爵家のテオドラさまは、初めの日、顔の左をこちらへ向けられなかった。向けてくださいとは言わなかった。言わずにいたら、その日のうちにご自分で向き直られた。
ああいう順序を、こちらの都合で縮めてはいけない。縮めると、その縮めたぶんが顔に出る。強張った顔を彫れば、強張った人形になる。人形は、座っていた時間ぶんしか正直にならない。
母は、それを「待つのも彫るうち」と言っていた。子どものころは、仕事をしない言い訳だと思っていた。
ただ、見えているところは見える。
顎の先が出ていた。頭巾の縁から、輪郭が二寸ぶん。
わたしはそれを見て、少し考えてから口に出した。
「王家の顎でいらっしゃいますね」
◇
ニナが、帳面を落とした。
娘は、動かなかった。
驚いたようにも、慌てたようにも見えない。ただ、湯呑みを持つ指の位置が、わずかにずれただけだ。
「どうして、そう思われたのですか」
「顎の先が、横に平らでいらっしゃいます」
わたしは自分の顎を指でなぞって見せた。
「たいていの方は、ここが丸いか、尖っているかのどちらかです。平らな方は少ない。少ないので、記録に残ります」
「記録」
「典礼院の見合い人形は、贈り先の家ごとに骨の癖が控えてあります。王家の欄には、顎が平らと書いてございます。三代ぶん、同じ字で」
娘は、湯呑みを膝に戻した。
「よく、覚えておいでですね」
「覚えるものではなく、残るものです」
◇
娘は、それから頭巾を取った。
わたしは、その顔を見た。
整っていた。
整っている、というのは、この仕事では褒め言葉として使わない。左右の差が小さく、眉の高さが揃い、鼻梁の線が途中で折れていない。頬骨の張りと顎の細りの釣り合いがよく、目尻の位置が高すぎも低すぎもしない。彫る側からすると、測る手間が少ない。
ただ、彫りやすい顔と、彫って似る顔は、同じではない。
人の顔で似るところは、たいてい釣り合いの外にある。片方の眉だけ高いとか、笑うと右の口角が先に上がるとか、鼻の下が思ったより長いとか、そういうところだ。うちの帳面には、寸法よりもそちらのほうを多く書く。寸法は測れば誰でも同じ数字が出るが、外れているところは見た者が見つけるしかない。
この方の顔には、外れているところが見当たらなかった。
わたしは、目のあたりから額へ、それから顎の線へ、順に視線を移した。三度移して、三度とも同じ場所で止まらなかった。止まる場所がない、という顔だった。
ニナは帳面を拾ったまま、口を半分開けていた。
「……きれいですね」
「はい」
「なんか、絵みたいです」
娘は、そこで初めて笑った。
口の端だけが上がった。頬の肉が動かない。目尻の皮も動かない。笑うと、ふつうは目の下に小さな膨らみが出る。出なかった。
わたしは、それを見た。
◇
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「アンナ、と申します」
「アンナさま」
「はい」
ニナが帳面を開いた。
「家名は」
「ございません」
「無いってことは、ないでしょう」
「ニナ」
わたしが言うと、ニナは口をとがらせて、それでも書いた。書くときは、名前と、日と、どこから来たかの三つを書くことになっている。三つ目の欄に、ニナは何も書かなかった。
「あの」
娘が言った。
「その帳面には、どなたの名も残るのですか」
「残ります」
「残したままに、していただけますか」
ニナが顔を上げた。
「消してほしい、じゃなくてですか」
「はい」
ニナは、少し考えてから、名前の下に線を一本引いた。うちの帳面では、それは「取り消し」ではなく「大事な客」の印だ。誰が決めたのでもない。ニナが勝手にそう決めた。
◇
注文の話になった。
贈り先は、教えていただけなかった。日取りも決まっていないと言われた。木の指定もない。
こちらから聞いたのは、二つだけだ。
「お顔は、どなたにも見せておられませんか」
「見せております。毎日、大勢に」
「では、そのお顔を彫ってよろしいのですね」
娘は、少し黙った。
黙ったのは、考えたからではないと思う。答えを持っている人の黙り方だった。持っていて、出すかどうかを決めているときの間だ。
「盛らないでいただきたいのです」
「盛りません」
「盛らないと、どうなりますか」
「そのお顔になります」
娘は、湯呑みをもう一度見た。
それから、初めて口をつけた。
◇
娘が帰ったあと、ニナは帳面を閉じずに立っていた。
「あの人、王家の方ですよね」
「そうかもしれません」
「そうかもって」
「名乗られませんでしたので」
ニナは帳面を胸に抱えた。
「じゃあ、うちは名乗ってない人の人形を彫るんですか」
「名乗らない方の人形は、前にも彫りました」
「あれはアーベルさまでしょう」
「はい」
「あの人は、いい人だったからいいんです」
ニナの理屈は、ときどき筋が通る。
◇
午後、ミレナさまが荷を持って寄ってくださった。ケルナー商会は月に二度、灰通りの端まで荷車を回している。
立ち話のあいだに、ミレナさまが言った。
「メルツのお嬢さま、お見かけしましたのよ」
「どちらで」
「北の門の外の、写しの店ですわ。書き写しの仕事をなさっているとか」
ミレナさまは、笑うとき右の口角が先に上がる。今日は上がらなかった。
「彫るのは、おやめになったそうです」
「そうですか」
「それだけですの。それだけを、お伝えしたくて」
わたしは、荷を受け取った。
彫るのをやめたと聞いて、何かを思うだろうと自分では思っていた。思わなかった。ただ、あの人の指の関節が、彫る人の形にはならないまま終わったのだと考えた。
◇
夕方は、いつも手が空く。
日が傾くと窓から入る光の角度が変わって、細かいところが見えなくなる。灯りでも彫れないことはないが、影の出方が昼と違うので、昼に彫った面と夜に彫った面では削り具合が変わる。母は日が落ちたら刃を置く人だった。わたしも置く。
置いてからは、道具を拭いて、木屑を集めて、翌日の板を出しておく。土間を掃くのは最後だ。先に掃くと、拭いた道具の上にまた木屑が落ちる。
箒を戸口へ立てかけたところで、外に足音がした。
アーベルさまが来られた。
湯呑みを両手で受け取って、いつもの椅子に座った。座ってから、書類の束を膝に置いた。置いたまま、開かない。
「先に申し上げます」
「はい」
「王女殿下のお見合い人形は、堤通りのキール工房が承ることに決まりました」
窓の外で、荷車が通った。
「昨日の午後、典礼院で決裁が下りております」
【今日の彫りおぼえ】笑ったときに目の下が動かない顔は、笑い方を後から習ったお顔でございます。習ったものは、たいてい、よくできております。
お読みいただきありがとうございます。
顔を見せない客は珍しくありません。珍しいのは、顔を見せているのに見せていない客のほうです。この工房は、そちらのほうがずっと苦手でございます。
次話——同じ看板を掲げた工房の主が、通りの向こうから歩いてまいります。




