第31話 封を切りました
封蝋は、思ったより固かった。
爪を入れると欠けて、粉が指についた。灯りの下で見ると、赤ではなく赤茶に近い。よく練られた蝋は薄く延ばしても割れないものだが、これは厚みがあって、押した型の縁が丸く盛り上がっている。
蝋を落とす手つきというのは、案外そのまま出る。慣れた者は蝋を垂らしてから一呼吸おいて、表面がわずかに曇ってから型を当てる。曇る前に押すと、蝋が型の外へ逃げて縁が盛る。曇りきってから押すと、今度は紙に食いつかずに剥がれる。
これは、逃げているほうだった。
急いだ手か、初めての手か、そのどちらかだ。
「なんて書いてあるんですか」
ニナが階段の途中から言った。降りてはこない。
「まだ読んでおりません」
「読んでくださいよ」
「読みます」
◇
紙を開くと、七行だけ書いてあった。
見合い人形を一体、彫っていただきたい、とある。
日取りは書いていない。報酬も書いていない。木の指定も、寸法も、贈り先の家名も無い。
典礼院を通した依頼なら、こうはならない。あの書式には枠がある。彫り手の名を入れる欄、贈り先を入れる欄、納める日を入れる欄。空のままでも、枠だけは刷ってある。
これは、枠のない紙だ。
字は、細かった。線の太さが最初から最後まで変わらないので、筆を寝かせずに書く人だと分かる。習って書く字だ。それも、褒められるために習った字ではない。整えることだけを教わって、そのまま二十年ぶん続けたような字だった。
六行目に、こうあった。
——あなたのお彫りになったものを、二度、見たことがございます。
わたしは、その行を読み返した。
二度。どこで、とは書いていない。
七行目は、こうだった。
——盛らないでいただきたいのです。
◇
署名は、名前がひとつだけだった。
家名も、称号も、印もない。ただ「アマーリエ」とある。
紙の右下に、押してある紋だけが大きかった。
この国の商いの紋は、たいてい道具の形をしている。天秤、鍵、鋏、桶。何を扱う店かが、見ただけで分かるようにできている。うちの看板にも、母の代までは小刀が一本彫ってあった。
王家の紋には、道具が入っていない。
入っているのは麦の穂と、その上にかぶさる形の線が三本だけだ。何を扱うのかは、書いていない。書かなくてよい家の紋というのは、そういう形になる。
ニナが、いつのまにか降りてきていた。わたしの手元を覗き込んで、少し首をかしげた。
「これ、なんの紋です」
「王家の紋です」
「へえ」
ニナは、そのまま二呼吸ぶん黙った。
「……へえ?」
「はい」
「王家って、あの王家ですか」
「あの王家です」
ニナは紙から一歩下がった。下がってから、また戻ってきた。
◇
「断りましょう」
ニナは、灯りの芯を摘まみながら言った。手つきは落ち着いている。言っていることだけが落ち着いていない。
「まだ、何も承っておりません」
「承らないでください」
「なぜですか」
「王家の縁談ですよ。盛らなきゃ無理ですよ」
ニナは芯切りを置いた。
「うちのやり方だと、たぶん、まずいことになります」
わたしは紙を畳んだ。畳んでから、畳み目が付いてしまったと思った。上等な紙は繊維が詰まっているので、一度折ると戻らない。安い紙のほうが、折っても伸ばせば元に近くなる。丈夫なものほど、跡が残る。
「人形は嘘をつきません」
「はい」
「彫る人が嘘をつくだけです」
ニナは、しばらく何も言わなかった。
それから、灯りを吹き消さずに、二階へ上がっていった。踏板の三段目だけが、いつもより長く鳴った。
◇
朝になると、灰通りはいつもどおりだった。
ハウザーさんが店先で桶を洗っている。水の音が三度して、止まって、また三度する。あの人は、洗い終わってから水を捨てるまでのあいだに、通りかかった人と三言だけ話す。
わたしが戸を開けると、ハウザーさんは桶から手を上げた。
「聞いたか」
「何をでしょう」
「王家の人形の仕事が、散った」
わたしは戸の前に立ったまま聞いた。
「散った、とは」
「メルツが外れたろう。三十年やってた役目だ。あれが一軒ぶん、宙に浮いた」
ハウザーさんは水を捨てた。捨てる先はいつも同じ、敷石の継ぎ目のところだ。そこだけ苔が生えない。
「十九ある。届け出のある工房が十九だ。そこへ、ばらまいて配った」
「どなたが配られたのです」
「典礼院だろうよ」
三言を過ぎたので、ハウザーさんは店へ戻った。戻りぎわに、もうひと言だけ足した。
「堤通りのキールってとこが、去年から御用達だとさ」
◇
その名前は、聞いたことがあった。
聞いたことがある、というだけだ。わたしは戸を閉めて、土間へ戻った。
朝にすることは決まっている。
まず竈に火を入れて、湯を沸かす。沸くまでのあいだに刃を出す。母の七本のうち、線を引くほうの三本を布の上に並べて、根元から先へ指を滑らせる。夜のあいだに湿気を吸っていれば、指の腹が引っかかる。引っかかったら、その日は使わない。無理に使うと、刃のほうが木の目に負けて筋が波打つ。
次に灰を出す。灰で油を落とすのは、木を触る前に手の脂を抜くためだ。脂のついた指で削ったところは、あとで色が変わる。彫っている最中は分からない。乾いてから出てくる。だから、彫り上がった人形を見れば、その職人が朝に手を洗ったかどうかまで分かる。
それから、木を見る。
棚の五十体は母の彫りかけで、そちらは触らない。触るのは手前の板だ。厚みの違うものを三枚出して、順に指で弾く。低い音がしたものは、まだ水が抜けていない。
その日は、三枚とも低かった。
◇
湯が沸いたころ、ニナが降りてきた。帳面を抱えている。
「今日は二件です。午前に彫り出し、午後に下絵の直し」
「はい」
「明後日から三日、木の乾く日を入れてあります」
いまうちが受けているのは七件で、三月先まで埋まっている。それ以上は取らない。取ると割れる。日取りを組んでいるのはニナで、わたしは組まれたとおりに彫るだけだ。
ニナは帳面を開いたまま、視線を作業台の端へ動かした。
「まだ持ってるんですか、それ」
わたしは畳んだ紙を、そこに置いていた。
「持っております」
「返せばいいのに」
「返す先が書いてありません」
ニナが口を開けて、閉じた。
差出人の家名も、宮の役所の名も、届け先の名も無い。返そうにも、どこへ返せばいいのか分からない紙だった。
書いた人は、それを分かっていて書いたのだと思う。
◇
戸を叩く音がしたのは、湯を注いだあとだった。
三度。間が空いて、また三度。
うちの戸を叩く人は、たいてい二度で待たない。ハウザーさんは叩かずに開ける。ミレナさまは叩く前に名乗る。荷車の人は叩かずに声だけ出す。
三度、間、三度は、待つ人の叩き方だ。
わたしは手を拭いて、戸を開けた。
外に、頭巾をかぶった娘が立っていた。
顔は見えない。見えているのは顎の先と、首の付け根と、頭巾の縁を押さえている指だけだ。
その指が、上等だった。爪の際に汚れが無い。指の腹に、物を握った跡も無い。この手は、湯を汲んだことも、桶を持ったこともない。
「ヴェルクマイスター工房で、よろしいでしょうか」
「はい」
娘は、頭巾の縁から手を離さなかった。
「昨夜、紙を差し上げました」
【今日の彫りおぼえ】厚い蝋は、慣れていない手が押した蝋。急いだ手か、初めての手か、そのどちらかでございます。
お読みいただきありがとうございます。
第一部を読んでくださった方も、完結の棚から来てくださった方も、ありがとうございます。ここからは第二部でございます。工房は間口三間のままで、行き先も灰通りから動きません。動くのは、入ってくる人のほうです。
次話——名前を伏せたお客さまに、お茶をお出しします。骨のほうは、伏せていただけませんでした。




