第30話 灰通りの工房です
人が来なくなるまでに、九日かかった。
並べた日の翌日から、灰通りには人が来た。注文ではない。見に来る人だ。工房の前で立ち止まって、看板を見上げて、それから中を覗く。
ニナが最初の三日で三十七人を数えた。四日目からは数えるのをやめた。
「あの人たち、何しに来るんですか」
「たぶん、確かめに来ておられます」
「何をですか」
「実際にあるかどうかです」
話は先に届く。届いた話の中の工房は、たいてい実際より大きい。来てみると、間口三間の煤けた家がある。
人は、それを見て帰る。
九日目に、来なくなった。
◇
注文は、七件になった。
多すぎず、少なすぎない。ニナが日取りを組んで、木の乾く十日ぶんを間に挟んで、三月先まで埋めた。
「これ以上は取りません」
「はい」
「取ると、割れます」
「はい」
「わたしが言うことじゃないですけど」
「よく分かっておられます」
ニナは帳面を閉じて、少し得意そうな顔をした。
◇
典礼院からは、二度、書状が来た。
一度目は記録の写し。二度目は、上申が受理されたという通知だった。三十年ぶんの突き合わせが始まる。終わるのがいつになるかは、書いていない。
メルツ公爵家の名は、そのどちらにも出てこなかった。
ただ、王都の話としては伝わってきた。あの家は、王家の縁組の仲介から外れたそうだ。三十年、続いていた役目だという。
処分ではない。外れただけだ。
外れた家に、次の縁組の話は来ない。
◇
エルンストからは、手紙が一通来た。
封は正式なもので、字は本人のものだった。四行あった。
三行までは、詫びだった。
最後の一行だけ、違うことが書いてあった。
——ヴィオラが、部屋から出た。
わたしは、その一行を二度読んで、封に戻した。
返事は書かなかった。
書かないことにしたのではない。書くことが見つからなかった。三年半ぶんのことを四行で受け取って、四行で返すことは、たぶんできない。
封は、糸で括って棚に置いた。母がそうしていた。開けた封は捨てずに残す。
◇
母の人形は、工房に置いた。
物置には戻さなかった。棚の五十体の前、いちばん光の入るところに台を出して、そこに立てた。布はかけていない。
典礼院から、預かりたいという申し出があった。断った。
「あれは、納めていないものです」
アーベルさまは、それで引き下がった。
「では、当院の記録には『所在、灰通り』とだけ書いておきます」
「所在、でございますか」
「はい。人形は、どこかに在ることになっておりますので」
彼は書類に書き込んで、それから、人形のほうを見た。
「……よい顔ですね」
「はい」
「盛られていないほうが、私は好きです」
「盛られていないほうは、たいてい、そう言われます。贈られる前には」
彼は、少し笑った。
◇
その日の夕方、わたしは真鍮の板を出した。
小指の先ほどの大きさに切って、片側を平らにする。平らにするのに、半刻かかった。真鍮は木より硬い。刃は使えないので、鑢で削る。
削ったところに、線を引いた。
一本。二本。三本。
そこで手を止めた。
母のものは三本だ。祖母のものは二本だったと聞いている。
四本目を引くと、この工房は、母の工房ではなくなる。
◇
「引かないんですか」
ニナが、いつのまにか隣にいた。
「引きます」
「じゃあ、なんで止まってるんですか」
「引くと、母のものではなくなりますので」
「なりますね」
ニナは、あっさりそう言った。
「なりますけど、いま、あなたのですよね。ここ」
「……」
「名簿にも、そう書きましたよね。当主、リディア・ヴェルクマイスターって」
わたしは、鑢を持ち直した。
四本目を引いた。
三本目より、少し太くなった。手が震えたのではない。力の入れ方が違った。母の三本は等間隔で、太さも揃っている。わたしのは、四本目だけ太い。
直そうかと思って、やめた。
「歪んでますよ」
「はい」
「直さないんですか」
「直しません」
「なんでですか」
「これが、わたくしの手ですので」
◇
試しに、端切れの木に押してみた。
軽く叩く。三度。
窪みがついた。線が四本と、点がひとつ。母のものより、少しだけ大きい。
ニナが覗き込んで、指でなぞった。
「……分かんないですね、これ」
「分かりません」
「誰も見ないですよね、裾の裏なんて」
「見ません」
わたしは、その窪みを見ていた。
「見ないから、入れるのです」
◇
九日目に人が来なくなってから、灰通りはもとに戻った。
朝はハウザーさんが桶を洗い、昼に荷車が三度通り、夕方にパン屋の娘さんが焼きすぎたパンを置いていく。雨が降れば板が渡され、上がれば片づけられる。
変わったことがひとつある。
通りの奥の研ぎ屋に、細身の彫刻刀が来なくなった。刃こぼれしたものが四本まとめて持ち込まれることも、もう無い。
代わりに、うちの刃が月に一度、そこへ行くようになった。母の七本のうち、線を引くほうの三本。研ぎ減ってはいるが、こぼれてはいない。
研ぎ屋の主人は、初めて持っていった日にこう言った。
——こういう減り方をした刃は、久しぶりだ。
看板は、ニナが彫った。
言い出したのは本人だ。油の染みは落ちない。文字も戻らない。だったら彫り直すしかない、と言った。
「顔じゃないので、彫れます」
「はい」
「文字なら彫れます」
「はい」
彼女は三日かけた。
一日目に板を削り直し、二日目に下書きをして、三日目に彫った。彫っているあいだ、わたしは口を出さなかった。出すと、次から自分でやらなくなる。
夕方に、脚立を出した。
二人で掛けた。ニナが下から見上げて、「曲がってます」と言った。直した。「まだ曲がってます」と言った。もう一度直した。三度目で、「いいです」と言った。
◇
看板には、こう彫ってあった。
——灰通り ヴェルクマイスター工房
その下に、もう一行。
——リディア・ヴェルクマイスター
わたしは、それを下から見上げていた。
名前が外に出ているのを見るのは、初めてだった。三年半、名前は木の内側にあった。誰にも見えないところに、指の腹で押していた。
いま、通りから見える。
「あの」
「はい」
「泣いてます?」
「泣いておりません」
「泣いてますよ」
「泣いておりません」
ニナは、それ以上言わなかった。
言わずに、脚立を片づけた。片づけながら、こっちを見ないで、こう言った。
「その顔で来る客は、だいたい嘘つきです」
◇
ハウザーさんが、桶を持って出てきた。
看板を見上げて、帽子を取った。
「読めるようになったな」
「はい」
「前は読めんかった」
「読める看板を出すと、読んだ人が来ると申し上げました」
「言ったな」
彼は帽子をかぶり直した。
「で、来てほしくなったのか」
わたしは、少し考えた。
「はい」
ハウザーさんは笑って、店へ戻っていった。戸を半分閉めて、そこにしばらく立っていた。
◇
その夜、戸の下に、紙が差し込まれていた。
封がしてある。
蝋の色が濃い。押してある印は、天秤でも鍵でもない。
王家の紋だった。
わたしは、それを拾って、灯りの下へ持っていった。ニナが階段の途中で止まって、こちらを見ている。
封は切らなかった。
切る前に、道具箱の底板を外して、真鍮の刻印を入れた。線が四本と、点がひとつ。四本目だけ太い。
板を戻して、留め金をかけた。
それから、封に指をかけた。
【今日の彫りおぼえ】四本目だけ太い。直そうかと思って、やめた。これがこちらの手なので。
お読みいただきありがとうございます。
見ないから入れる、というのは母の言い方でした。十四の見習いには、まだ通じていません。通じなくていいと思います。あと五年もすれば、たぶん自分で四本目を引くことになるので。
ここからは、封の中の話になります。
★とブックマークだけは、裾の裏ではなく、見えるところに入ります。押していただけると、こちらからも分かります。
次話——封を切ります。差出人は、この国でいちばん整った顔をお持ちの方です。




