第27話 名前のない人形
布は、思ったより軽かった。
埃は上に積もっているだけで、麻そのものは薄い。持ち上げると、埃が先に落ちて、布はそのあとからついてきた。
ニナが灯りを近づけた。
◇
立ち姿だった。
膝から上ほどの高さ。手のひらには乗らない。両腕を体に沿わせて、手は前で組んでいない。裾が床につくほど長く、そこだけ彫りが荒い。仕上げていないのではなく、荒いままにしてある。
顔は、仕上がっていた。
二十歳前後の女の人だ。頬に丸みがある。目尻がわずかに下がっている。左の眉が、右より少し高い。
わたしは、その顔を知っていた。
二つの意味で知っていた。
◇
ひとつ目は、棚だ。
工房の棚に、五十体の彫りかけがある。母が最後の冬に彫ったものだ。ほとんどが目の入っていない下地で、仕上がっているのは一体しかない。
七年ぶりに戻ってきたあの夜、わたしはそれを布で拭いた。
頬に丸みがあり、目尻が下がっていて、左の眉が右より少し高い顔だった。
同じ顔だ。
わたしは棚のほうへ行って、その一体を持ってきた。並べた。同じ人だ。目の彫り方だけが違う。棚のほうは影が浅い。台の上のほうは、深い。
母は、同じ顔を何度も彫っていた。
わたしは、棚の五十体を順に見ていった。
目が入っていないものが四十九ある。目が入っていないと、顔は誰のものとも言えない。だがこうして一体を手に持って見比べると、頬の張り方と眉の位置で、同じ骨のものが選り分けられる。
十一体あった。
十一体、同じ骨だ。彫り方は少しずつ違う。頬の丸みを残したもの、削ったもの、眉の高さの差を強く出したもの、消したもの。
母は迷っていた。九年か十年、迷い続けていた。
迷った形が、そのまま五十体の中に十一体、残っている。
◇
ふたつ目は、公爵家だ。
三年半のあいだに、わたしは王家の縁続きの人形を四体彫った。その四体のときだけ、屋敷は資料を出した。肖像の写しと、身なりの覚え書きと、それから、公式の姿絵だ。
姿絵は、いつも同じ人の名で始まっていた。
当代の王妃陛下。
十九で王太子妃として輿入れなさった。いまは三十を過ぎておいでだ。姿絵の中の顔は、いつも整っている。頬の丸みは無く、目尻は下がっておらず、眉の高さは左右そろっている。
台の上の人形は、その顔ではない。
だが、同じ骨だ。
骨は嘘をつかない。頬の丸みは肉で、いずれ落ちる。目尻の下がりは癖で、年をとれば強くなる。眉の高さの差は生まれつきで、消えない。
姿絵は、そのどれも消していた。
◇
「……誰ですか」
ニナが、灯りを持ったまま聞いた。
「王妃陛下でいらっしゃると思います」
ニナの手が、少し下がった。灯りが揺れて、人形の顔の影が動いた。
「王妃って、あの、王妃ですか」
「はい」
「なんでうちにあるんですか」
「存じません」
わたしは台の下を見た。
台は古い作業台だ。天板の裏に、細い隙間がある。母は書き付けをそこに挟む癖があった。彫っている最中に思いついたことを、紙の切れ端に書いて、そこへ差す。
指を入れると、紙が触れた。
◇
三枚あった。
どれも小さい。手のひらの半分ほどで、母の字だ。角の丸い、崩した字。
一枚目。
——一度、彫った。納めた。
二枚目。
——これは、彫らなかったほう。
三枚目。
——二度目は、断る。
◇
わたしは、三枚を並べて置いた。
順に読んで、それから、もう一度読んだ。
母は、盛った。
命じられて、盛って彫って、納めた。だから王妃陛下の見合い人形は、頬の丸みが無く、目尻が下がっていない顔になった。
そのうえで、盛らないほうも彫った。
彫って、布をかけて、物置に置いた。売らず、贈らず、誰にも見せず、七年——いや、もっと長く。わたしが十五、六の頃にはもうあったのだから、八年か、九年。
母は、それを持っていた。
誇りとして持っていたのではないと思う。
誇りなら、棚に置く。この工房の棚には、仕上げていない顔が五十体ある。母は仕上がる前のものを人に見せない人だったが、隠しはしなかった。
布をかけて物置に置くのは、隠すためだ。
◇
「あの」
「はい」
「これ、悪いことしたってことですか。お母さん」
ニナが、灯りを台に置いた。
わたしは、しばらく答えられなかった。
「……盛りました」
「はい」
「一度、盛りました」
「じゃあ」
「そのあとで、断りました。断ったので、名簿から名を消されました」
わたしは、三枚目の紙を指で押さえた。
——二度目は、断る。
書いたのは、たぶん一度目を納めたあとだ。次に来ることが分かっていて、来る前に決めておいた。決めておかないと、二度目も彫ってしまうと思ったからだ。
自分でそう思う人は、一度目に彫ったときのことを、忘れていない。
◇
「わたくしは」
声が、掠れた。
「わたくしは、母は盛らない人だと習いました」
「はい」
「三年半、そのとおりにいたしました。名前を入れずに、誰にも見えないところに印を押して、盛らずに彫りました」
「はい」
「守っていたつもりでした」
わたしは、人形の顔を見た。
頬の丸み。下がった目尻。左が少し高い眉。
母は、この顔を九年か十年、布の下に置いていた。
「守っていたのではなく、母のやり直しをしていたのだと思います」
◇
ニナが、隣に来た。
来て、人形の裾のほうを見た。荒いままの裾だ。
「あの」
「はい」
「これ、裏、見ました?」
わたしは、人形を持ち上げた。
重い。この大きさだと、手のひらに乗る人形の十倍はある。裾の裏側を、灯りに向けた。
印は、無かった。
線が三本と、点がひとつ。あの窪みが、どこにもない。
わたしは、指で確かめた。裾の裏、腰の内側、背中の下のほう。母が押しそうな場所を全部。
無い。
「……押しておりません」
「なんでですか」
「分かりません」
わたしは人形を台に戻した。
戻してから、思い当たった。
印は、彫ったものに押す。母がわたしに言ったのは、「彫った人形には、必ず自分の印を入れなさい」だ。
これは、彫ったものではない。
納めなかったものだ。
◇
その夜、わたしは物置の扉を閉めなかった。
人形は台の上に出したままにした。布はかけ直さなかった。かけ直すと、また七年になる気がした。
ニナは早くに上がった。上がる前に、階段の途中で止まって、こう言った。
「あの、ひとつ聞いていいですか」
「はい」
「その人、いまも生きてるんですよね」
「王妃陛下は、ご存命です」
「じゃあ、その人は」
ニナは、人形のほうを見た。
「自分の顔じゃない顔で、お嫁に行ったんですね」
わたしは、答えなかった。
答えられなかったのではない。答えは分かっていた。
十九で輿入れなさって、いま三十を過ぎておいでだ。そのあいだずっと、姿絵は整った顔で描かれている。頬の丸みは無く、目尻は下がらず、眉の高さはそろっている。
誰も、直していない。
直していないのではなく、直せないのだと思う。最初に贈った顔が正しいことになっている以上、あとから本当の顔を出すことは、誰にもできない。
二十日後に、三十六体が並ぶ。
その中に、王家のものはあるだろうか。
【今日の彫りおぼえ】印は、彫ったものに押す。納めなかったものには、押さない。
お読みいただきありがとうございます。
盛らない人だと習った人が、一度だけ盛っていた。その一度を、八年か九年、布をかけて手元に置いていた。誇りなら棚に置きますので、あれは隠していたのだと思います。
次話——三年半で彫った二十七体が、いまどこにあるのかを数えます。




