第26話 布を取る前に
公爵が帰ったあと、三日ほど、わたしは物置の前を通らなかった。
通る必要がないわけではない。井戸へ出るには、物置の前を横切るのがいちばん近い。わたしは表の戸から回った。回ると、二十歩ばかり余計に歩く。
三日目の夕方に、ニナが言った。
「遠回りしてますよね」
「井戸の縄を替えましたので、水が重くなりました」
「縄と重さ、関係ありますか」
「ございません」
「ですよね」
◇
注文は、増えていた。
公開彫りのあと、十日で十二件。半分は断った。断り方も覚えた。日取りを先に言って、待てるかどうかを相手に決めてもらう。待てない方は、他所へ行く。
そのうち三件は、王都の外からだった。
馬車で二日かかる領地の家が、わざわざ人をよこす。人形は木でできているので、二日運べば、そのあいだに乾きが変わる。
「うちで彫って、そちらへお送りするのは、あまりよろしくありません」
「では、どうすれば」
「こちらへおいでいただくか、その土地の工房でお彫らせになるか、どちらかかと」
使いの人は、困った顔をして帰っていった。
ニナが、そのあとで言った。
「あれ、断らなくてもよかったんじゃないですか」
「運んだ先で割れます」
「割れたら直せばいいじゃないですか」
「割れは、直りません」
「……そうでした」
◇
ニナは、その十日で荒彫りを六体進めた。
六体のうち、四体は面の出し方に迷いがなくなっている。残る二体は、肩の落とし方で止まっていた。肩は、彫りすぎると胴が細く見え、残しすぎると首が埋まる。加減が難しいところなので、迷って当然だ。
わたしは、その二体を横に置かせた。迷ったまま進めると、迷った形で乾く。
「置いとくんですか」
「置いておきます。三日経つと、どこで迷ったか自分で見えます」
「見えますかね」
「見えます。手が忘れて、目だけが残りますので」
ニナは納得しない顔をしたが、置いた。
置いたあと、代わりに新しい木を出してきて、また面を落としはじめた。手が止まると気持ちが悪いらしい。この子は、そういうところが職人だ。
その夜、アーベルさまが来た。
今度は籠を持っていない。書類を一束持っている。
「典礼院が、並べることに決めました」
わたしは手を止めた。
「院長が、でございますか」
「はい。三日前に決裁が下りました」
「……お止めになると思っておりました」
「私もそう思っておりました」
彼は書類を台に置いた。
「メルツ公爵が、届け出の返上を申し出ました。院長はそれを受け取って、そのうえで、並べると決めました」
「なぜでしょう」
「分かりません。院長は理由を書く人ではありませんので」
彼は、少し考えるように黙った。
「ひとつだけ、心当たりがあります」
「はい」
「先日、あなたが顎の下の筋の話をなさったでしょう」
「……申し訳ございません」
「いえ。あのあと院長が、こう仰いました。——三年、誰にも言わずにいたものが、初めて会った者に三十秒で見つかった、と」
わたしは、湯呑みを持つ手を止めた。
「隠していたつもりのものが、隠せていなかった。それを、あの方は初めて知ったのだと思います」
◇
「日取りは」
「二十日後です。典礼院の広間」
「借り受けた人形は」
「三十六体まで来ております。四十一家のうち五家が、まだ出しておりません」
彼は書類をめくった。
「五家のうち三家は、遠方で間に合わないだけです。残る二家は——」
「メルツ公爵家の、縁続きでございますね」
「はい」
彼は書類を閉じた。
「ヴェルクマイスターどの」
「はい」
「並べる日に、あなたは何をなさるおつもりですか」
わたしは答えなかった。
答えを持っていないわけではない。持っているものが、まだ形になっていない。
「並べるのはご当院のお仕事です。わたくしは呼ばれれば行きます」
「呼ばれます」
「では、行きます」
「それだけですか」
「それだけです」
アーベルさまは、しばらくこちらを見ていた。
それから、書類を抱えて立ち上がった。
「では、あと二十日ございます」
彼は、出ていくときに、物置のほうを見た。
見て、何も言わなかった。
◇
その夜、ニナが階段の途中で止まった。
いつもの場所だ。
「あの」
「はい」
「二十日後、行くんですよね」
「はい」
「あれ、持っていかないんですか」
わたしは灯りの芯を切っていた。切ると火が小さくなって、油が長くもつ。
「あれ、と申しますと」
「布のやつです」
「持っていきません」
「なんでですか」
「中身を存じませんので」
「見ればいいじゃないですか」
「はい」
「見ないんですか」
「……」
わたしは芯を切り終えて、鋏を置いた。
「取れません」
◇
ニナは、階段を三段下りてきた。
三段下りて、そこに座った。
「なんでですか」
「母がかけたものです」
「それ、前も聞きました」
「はい」
「ほかにないんですか」
わたしは、灯りのほうを見ていた。
ほかにある。ずっとある。ただ、口に出したことがない。
「取ったら、母が何をしたか分かります」
ニナが、黙った。
「七年前、母は盛れと命じられました。断ったと帳面にございます。ですが、あの布は、それより前からかかっておりました」
「……前から?」
「はい。わたくしが十五、十六の頃には、もうあったと思います」
わたしは自分の手を見た。
「断る前に彫ったものが、あそこにあります」
◇
「断ったのは、二度目だったのではないかと思っております」
「二度目」
「一度目は、彫ったのではないかと」
ニナは、階段に座ったまま、こちらを見ていた。
「母は、盛らない人でした。わたくしはそう習いました。そう習って、三年半、そのとおりにいたしました」
「はい」
「ですが、あの布を取って、中に盛った顔がございましたら」
わたしは、そこで止まった。
「わたくしが三年半守っていたものは、母がやらなかったことではなく、母がやったことになります」
◇
ニナは、しばらく何も言わなかった。
それから、立ち上がった。
立ち上がって、階段を下りきって、物置のほうへ歩いていった。
「ニナ」
「はい」
彼女は物置の前で止まった。振り返らずに、こう言った。
「取らないなら、わたしが取ります」
「……」
「取って、中身がなんであっても、わたしが彫り直します」
わたしは、椅子から立った。
「顔は、彫らないと」
「彫ります」
ニナが振り返った。
顔が白い。前に公爵が来たときと同じ白さだ。それでも、目は逸らさなかった。
「あなたが、あの顎を引かせたんですよ」
「……はい」
「引かせておいて、自分が引かないのは、ずるいです」
◇
わたしは、物置の前まで歩いた。
二十歩ぶんの遠回りを、三日していた。実際に歩くと、七歩だった。
台の上の布は、麻だ。埃をかぶっているが、破れてはいない。膝から上ほどの高さで、上のほうがすぼまっている。肩がある。なで肩だ。腕を体に沿わせて立っている姿勢で、手は前で組んでいない。
七年、それを見てきた。
見てきたのに、一度も、上から順に見ようとしなかった。
わたしは手を伸ばした。
布の端は、思ったより冷たかった。
【今日の彫りおぼえ】灯りの芯は切る。切ると火は小さくなるが、油が長くもつ。
お読みいただきありがとうございます。
見ないでおくというのは、たいてい、見たあとの自分を守るためにやっています。守っているものが何なのかは、見るまで自分でも分かりません。
次話——布を、取ります。




