第25話 公爵が来ました
雨は夜のうちに上がった。
朝、戸を開けると、通りの轍に水が残っていた。空が映って、二重になっている。ハウザーさんが板を渡して、その上を人が通れるようにしていた。毎年、雨のあとにあの人がやることだ。
その板の上を、公爵家の当主が歩いてきた。
◇
馬車はなかった。
供もいない。上着は地味なもので、家紋も入っていない。もし通りの誰かが見ても、たぶん役所の年配の人だと思う。
だが、歩き方が違った。
この通りの人は、板の上を渡るとき、少し前かがみになる。落ちないためだ。あの人は、まっすぐ立ったまま渡ってきた。落ちるかどうかを考えていない歩き方だった。
工房の前で止まって、看板を見上げた。
油の染みは、まだ残っている。
それから、自分で戸を開けた。
◇
「久しいな」
「はい」
わたしは作業台の前に立った。座ったままでいるか迷って、立った。
ヘルマン・メルツは、土間に立って、中を見回した。
見回し方が、他の客と違った。棚を見て、床を見て、天井の梁を見た。梁を見る人は少ない。
この人は、ここへ来たことがある。
「変わっておらんな」
「七年、誰も入っておりませんでしたので」
「そうか」
彼は、それだけ言った。
わたしは湯を沸かさなかった。沸かすと、座っていただくことになる。
◇
「本題から入る」
「はい」
「典礼院が、人形を並べると言い出した」
「うかがっております」
「あれは、お前の案だそうだな」
「申し上げました」
「並べて、どうする」
わたしは答えた。
「ご当人に、ご覧いただきます」
「それだけか」
「はい」
彼は、少し黙った。
「では、こちらの話をする」
彼は上着の内側から、紙を出した。折り目のない、新しい紙だ。
「当家は、来月をもって見合い人形の扱いをやめる。届け出を返上し、以後は他所の工房に頼む」
「……」
「やめる家の人形を、並べる必要はあるまい」
◇
わたしは、その紙を見なかった。
見なくても分かる。あの家は、こういうときに必ず書面を作る。作って、こちらに読ませて、読んだことにする。
「並べるのは、当院がお決めになることです」
「決めるのは院長だ。院長は、届け出の数を見て決める」
彼は紙を卓の上に置いた。
「今月、縁組の届け出が三分の二になった。来月は半分になる。あの男は、それを止めたい」
「はい」
「当家がやめれば、届け出は戻る。当家の名で贈っていた家が、他所へ回るからだ。院長は、それで手を打つ」
合っている、とわたしは思った。
ヴァイスさまは、数字を見て話す人だった。数字が戻るなら、たぶん、そちらを取る。
「それで、わたくしに何を」
「取り下げろ」
「はい」
「並べる話を、お前から取り下げろと言っている」
◇
「なぜ、わたくしに仰るのですか」
わたしは、そう聞いた。
「院長にお話しになれば、済むことかと存じます」
「済まん」
彼は初めて、こちらをまっすぐ見た。
「あの男は、お前が言い出したことだと言う。言い出した者が取り下げなければ、記録に残ると」
「……」
「記録に残ると、三十年ぶんが残る」
三十年。
ヴァイスさまが言った数字と同じだった。
わたしは、その数字の意味を考えた。三十年、この人は王家の縁組に関わっている。関わってきたということは、贈られた人形も、そのぶんある。
「公爵さま」
「なんだ」
「お引き受けできません」
彼は、表情を変えなかった。
「理由を聞こう」
「取り下げたところで、割れる人形は割れます」
「それは工房の話だ。制度の話ではない」
「制度の話をしているのは、公爵さまのほうかと存じます」
◇
そのとき、奥でニナが立ち上がった。
物音がしたので、わたしは振り返った。
ニナは、階段の下に立っていた。手に荒彫りの木を持ったまま、動かなくなっている。顔が白い。
ヘルマンが、そちらを見た。
「弟子か」
「はい」
「いくつだ」
「十四です」
ニナは答えなかった。答えたのはわたしだ。
彼は、ニナを二秒ほど見て、それから視線を戻した。それだけだった。ニナのことは、たぶん何も知らない。知らないまま、見た。
それでも、ニナは動けなかった。
◇
ヘルマンは、卓の紙を指で押さえた。
「もう一度言う。取り下げろ」
「お引き受けできません」
「では、条件を出せ」
「ございません」
「無いはずがない」
彼は、初めて声の調子を変えた。
高くなったのではない。低くなった。低くなると、この人の声はよく通る。
「七年前、わたしはお前の母に同じことを言った。条件を出せと」
わたしは、動かなかった。
「あれも、無いと言った」
「……」
「無いと言う者は、二度目に来たときに言う。必ず言う」
「母は、申しましたか」
「言わなかった」
彼は、そこで初めて、視線を工房の奥へ向けた。
◇
物置の扉は、開けたままにしてある。
中はほとんど空だ。片づけたあと、台がひとつと、その上の布だけが残っている。空になったぶん、遠くからでも見える。
ヘルマンの目が、そこで止まった。
止まって、動かなくなった。
わたしは、その顔を見ていた。
この人は、三年半、一度も表情を崩さなかった。離縁状に署名するときも、義妹が母の刃を持ち出すときも、公開彫りの広間で席を立つときも。
いま、頬の筋が動いた。
左の口角の下、顎の骨に沿って走る筋だ。強く歯を噛んだときにだけ浮く。
「……あれは」
声が、少し掠れた。
「母のものです」
「中身を見たか」
「いいえ」
「本当か」
「はい」
◇
彼は、物置のほうへ一歩、足を向けた。
板の間に上がる形になる。上がるには、履物を脱がなければならない。彼は脱がなかった。脱がずに、そこで止まった。
止まったまま、しばらく布を見ていた。
わたしは動かなかった。動けば、この人がどちらへ動くか分からない。
「公爵さま」
「……」
「あれは、母が置いていったものです。七年、そのままにしてございます」
「なぜ、取らん」
「母がかけたものですので」
彼は、こちらを見なかった。
「取れ、と言えば取るか」
「取りません」
「では、なぜ聞く」
「聞いておりません。お答えしただけです」
◇
ヘルマンは、足を戻した。
板の間に背を向けて、土間に立ち直した。それから、上着の襟を直した。直す必要のない襟だった。
「リディア・ヴェルクマイスター」
「はい」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
三年半、この人はわたしを「あれ」と呼んだ。義理の娘とも、次男の妻とも呼ばなかった。
「その布を、取るな」
彼は、そう言った。
「取るなと申されますと」
「言葉のとおりだ」
「理由をうかがっても」
「無い」
彼は、卓の紙を置いたまま、戸のほうへ歩いた。
戸を開けて、外の光が入った。板の上を、また、まっすぐ立ったまま渡っていった。
◇
姿が見えなくなってから、ニナが座り込んだ。
荒彫りの木を膝に置いて、両手でそれを持っている。指が白い。
「ニナ」
「……はい」
「お茶を淹れます」
「はい」
湯が沸くまでのあいだ、ニナは何も言わなかった。
湯呑みを渡すと、両手で受け取って、それを見ていた。
「あの、さっきの話ですけど」
「はい」
「わたし、前に、口入れ屋が人形作ったって言いましたよね」
「うかがいました」
「あれ、まだ続きがあって」
ニナは、湯呑みから目を上げなかった。
「買いに来た人、わたしの顔、最後まで見なかったんです」
◇
「人形は見ました。ずっと見てました。持ち上げて、回して、光に当てて」
「……」
「で、決めて、帰りました。わたし、隣の部屋にいたんですけど、一回も呼ばれませんでした」
湯気が上がっていた。
「顔が要らないんだと思ってたんですけど、たぶん違います」
ニナは、そこで初めてこちらを見た。
「見られないんです。人形があると、そっちを見るので」
わたしは、何も言わなかった。
「だから、顔は彫らないんです。わたしが顔を彫ったら、その人の顔、誰も見なくなるので」
【今日の彫りおぼえ】布は、かけた人が取る。かけた人がいなくなったら、しばらくそのままにしておく。
お読みいただきありがとうございます。
人形があると、人はそちらを見ます。よくできているほど、そちらを見ます。うちの見習いが顔を彫らない理由は、腕の話でも、怖さの話でもありませんでした。
次話——布に、手をかけます。取るかどうかは、まだ決めていません。




