第24話 戻ってくれ、と言われました
その日は、朝から雨だった。
灰通りの土は、雨が降ると重くなる。川が近いので水が抜けない。荷車が通ると轍が深くなり、次の日まで残る。轍の水に空が映って、通り全体が二重に見える。
客は来なかった。
ニナは荒彫りを三体ぶん進めて、昼過ぎに「材を見てきます」と言って出ていった。雨の日に材は見ない。出ていく口実だった。
この子は、そういうところが早い。
◇
エルンストは、傘を持っていなかった。
戸を開けたとき、髪から水が落ちていた。上着は色が変わって、肩のところだけ黒くなっている。歩いてきたのは、もう三度目だ。
「お入りください」
「いい」
「風邪をお召しになります」
「いい」
彼は土間に立った。
水が、足元に落ちて溜まった。
わたしは布を取ってきて、土間の端に置いた。使うかどうかは本人が決めればいい。彼は使わなかった。
「今日は、頼みに来た」
「はい」
「戻ってくれ」
◇
彼は、そこで頭を下げた。
深く下げた。腰から折る形で、しばらくそのままだった。
三年半、この人が誰かに頭を下げるのを、わたしは見たことがない。公爵家の次男は、下げなくていい立場だ。下げなくていい人が下げるときは、たいてい下げ方を知らない。この人も知らなかった。角度が深すぎた。
「頭を、お上げください」
「上げない」
「上げてくださいませんと、お話しできません」
彼は、ゆっくり上げた。
髪から落ちた水が、目に入ったらしい。片手で拭った。
「条件は、こちらが全部のむ。名前を入れていい。工房はこのままでいい。彫るのはお前が決めた数だけでいい。うちの家名は使わなくていい」
「はい」
「金額も、言い値でいい」
「はい」
「……昔のように、とは言わない。言えないのは分かっている」
わたしは、作業台の布を直した。
直しながら、この人がここまで来るのに何を通ってきたかを考えた。父に言ったのだろうか。言わずに来たのだろうか。たぶん、言わずに来た。言えば止められる。
傘を持たずに歩いてきたのも、そういうことだ。馬車を出せば、誰かに知られる。
◇
「エルンストさま」
「なんだ」
「わたくしは、盛りません」
「知っている」
「盛らない人形を、お家の名で贈ることはできません。割れない代わりに、似ております。似ている人形は、ときどき縁談を壊します」
「壊れてもいい」
「お家が、もちません」
「もたなくていい」
彼は一歩前に出た。土間の縁まで来て、そこで止まった。
「もたなくていいんだ」
声が、少し高くなった。
「うちの人形は、三十年、盛って贈ってきた。それで縁組がまとまってきた。まとまった先で、どうなったかは誰も見ていない」
「……」
「俺は、見ていた。うちがまとめた縁組の家に、何度も使いで行った。……何度も見た」
彼は、そこで言葉を切った。
「思っていた人と違う、と言われた妻が、どういう顔で三年目を迎えるか」
わたしは、手を止めた。
「見ていて、何もしなかった」
◇
「エルンストさま」
「なんだ」
「先日、うかがったことに、もう一度お答えいただけますか」
「……」
「三年半、わたくしの名をお呼びにならなかった理由です」
雨の音が、少し強くなった。屋根の板の一枚が緩んでいて、そこだけ音が違う。直そうと思って半年放ってある。
「理由はない、と仰いました」
「……ああ」
「本当は、おありでしたね」
彼は、答えなかった。
答えないまま、土間の水を見ていた。
「呼べば」
ようやく、そう言った。
「呼べば、お前が人になると思った」
◇
わたしは、その言葉を聞いた。
聞いて、しばらく、何も考えられなかった。
「……人形だと思っていれば、父の言うとおりにできた。彫らせて、名を入れずに、家の名で贈る。相手が人形なら、それができる」
彼の声は、平らだった。平らにしようとして、失敗している声だった。
「名前を呼んだら、できなくなる」
「……」
「だから、呼ばなかった。三年半、一度も」
彼は顔を上げた。
「理由はない、と言ったのは、嘘だ。理由はあった。言いたくなかっただけだ」
◇
三年半のあいだに、この人がわたしを見ていた回数を、数えたことはない。
数えられるはずもない。作業部屋の入口に立っていた時間を、わたしは待っている時間として数えていた。同じ時間を、この人は見ている時間として数えていた。同じ長さのものを、二人で別の名前で呼んでいた。
いま分かったのは、その時間に名前があったということだ。
——呼べば、人になる。
人にしないために、見ていた。見ていれば、人形のままでいる。だから入口から先へは入ってこなかった。入ってきて何か言えば、そこで終わってしまうから。
三年半、この人はずっと、終わらせないようにしていた。
わたしは、椅子から立った。
立って、土間のほうへ二歩だけ歩いた。近づいたのではない。座ったまま言うことではないと思っただけだ。
「ありがとうございます」
「……なにが」
「お答えいただいたことです」
彼が、何か言おうとした。
わたしは、その前に続けた。
「エルンストさま。人形は、その人を一番よく知る者が彫るのが習わしです」
「知っている」
「三年半、わたくしはあのお屋敷の縁続きの方々を彫りました。彫れたのは、存じ上げていたからです。お顔も、癖も、どういうときに笑われるかも」
「……」
「いまは、存じ上げません」
彼の目が、動いた。
「半年です。半年で、人の顔は変わります。ヴィオラさまのお顔は、あの日、三年前とは違っておりました。あなたさまのお顔も、いま、半月前と違います」
「リディア」
「わたくしはもう、あのお家の顔を知りません」
わたしは、頭を下げた。
「知らない顔は、彫れません」
◇
彼は、動かなかった。
雨の音だけがしていた。屋根の緩んだ板が、一定の間隔で違う音を立てる。
「……そうか」
「はい」
「そう、か」
彼は二度言った。二度目のほうが短かった。
それから、土間の端に置いてあった布を、初めて取った。取って、髪を拭いた。拭き方が乱暴だった。
「布は」
「お持ちください」
「……ああ」
彼は布を手に持ったまま、戸のところへ行った。
開けると、雨の音が大きくなった。
◇
「リディア」
「はい」
「ひとつだけ、伝えに来たことがある」
彼は、外を向いたまま言った。
「父が、こちらへ行くと言っている」
わたしは、土間の水を見ていた。
「いつ、でしょう」
「知らない。日を言わなかった。……あの人は、日を言わないときは、もう決めている」
「はい」
「止めなかった。止められなかった、というほうが正しい」
彼は、そこで一度だけこちらを見た。
「気をつけろ、とは言えない。俺には、何が危ないのかも分かっていない」
「はい」
「ただ、父がひとりで出かけるのは、七年ぶりだ」
彼は、雨の中へ出ていった。
傘は、持っていかなかった。
板の上を渡らずに、轍のほうを歩いていった。膝まで泥が跳ねた。跳ねても、拭かなかった。
通りの角で、一度だけ立ち止まった。振り返らなかった。立ち止まって、それから、また歩き出した。
わたしは、それを戸の隙間から見ていた。
見ていたのは、たぶん、この人が三年半やっていたことと同じだ。入口から先へ入らずに、見ている。呼べば止まる距離にいて、呼ばない。
呼ばなかった。
◇
戸を閉めてから、しばらくそこに立っていた。
七年ぶり。
その七年前に、あの人がひとりで出かけた先が、どこだったのかは聞かなかった。
聞かなくても、たぶん、この通りだ。
【今日の彫りおぼえ】人形は、その人を一番よく知る者が彫る。知らなくなったら、彫れない。それだけのこと。
お読みいただきありがとうございます。
理由はない、と言われるより、理由を言われるほうが重いことがあります。今日の答えは、三年半ぶんの説明としては十分すぎるものでした。十分すぎるものは、たいてい遅れて届きます。
次話——雨が上がった日に、公爵家の当主が、自分で工房の戸を開けます。




