第22話 父の指示でした
返事は書かなかった。
書かなかったのは、意地ではない。書くと、こちらから日を決めることになる。日を決めれば、その日までのあいだ、こちらがそれを考えて過ごすことになる。
仕事があった。注文は九件まで増えていて、そのうち二件は木を選んでいる途中だった。木を選ぶ日というのは、頭の中に他のものを置いておけない日だ。
木を選ぶのは、朝のうちにやる。
材木屋から届いた欅を六本、窓ぎわに立てて、ひとつずつ叩く。爪の背で、上と真ん中と下。高く鳴るものは使える。低く濁るものは、もう中で割れている。
六本のうち、二本が濁った。
濁った二本は返さない。荒彫りの練習に回す。ニナが胴を彫るぶんには、中で割れていても構わない。表に出す顔にしなければいい。
残る四本を、日の当たらない壁ぎわへ移した。ここで十日置く。届いたばかりの木は、運ばれてきた道のぶんだけ乾き方が乱れている。
その十日を数えるのに、指を使う。数えながら、あの二行を思い出した。
——話がしたい。一度でいい。
指が止まった。八日目まで数えて、そこから先が出てこなかった。
もう一度、最初から数え直した。
三日目の夕方に、エルンストが来た。
◇
今度も歩いてきた。
上着の裾に泥はついていない。この三日は雨が降らなかった。ただ、靴の踵が減っている。前に来たときは減っていなかった。
「返事が来ないから」
「申し訳ございません」
「いや。……来ないだろうとは思っていた」
彼は土間で止まった。
わたしは作業台の前に座ったまま、木を置いた。置いてから、布をかけた。彫りかけの顔は、人に見せない。母がそうしていた。
「お茶をお出ししたほうがよろしいですか」
「いい」
「では、そのままで」
彼は少し笑おうとして、失敗した。
顔は前より痩せていた。頬の肉が落ちて、頬骨の下に影が入っている。眠っていない顔のままだ。あれから半月経っているのに、戻っていない。
◇
「うちの人形は、来月から出せない」
彼はそう切り出した。
「典礼院が、当分のあいだ届け出を止めると通達してきた。検分が終わるまでだそうだ」
「はい」
「終わるのは、早くて半年先だと言われた」
半年、と聞いて、わたしは材の勘定をした。
あの家は、月に三体出す。三体ぶんの材を、季節ごとにまとめて仕入れる。仕入れた材は、寝かせている途中で止めると、そのぶん乾きが進む。半年寝かせた材は、彫るには乾きすぎる。
止まるのは仕事だけではない。木も止まる。
「はい」
「そのあいだに、王都の家はよそへ行く。戻ってこない」
わたしは相槌を打たなかった。
打つと、話が進む。今日は進めなくていい。この人が言いたいことは、たぶんこの話ではない。
「ヴィオラが、彫るのをやめた」
「うかがいました」
「部屋から出てこない。飯も、扉の前に置いておくと、しばらくして無くなっている」
「……」
「あれは、自分が下手だと思ったことがなかったんだ。一度も」
彼は、そこで初めてこちらを見た。
「教えたやつがいなかった。誰も」
「はい」
「お前は、あの日、そう言ったそうだな」
わたしは答えなかった。
答える必要のないことだった。彼は聞きたいのではなく、確かめたいだけだ。
◇
「リディア」
「はい」
「あれは、父の指示だった」
わたしは、木にかけた布の端を直した。
まっすぐでないと、木が湿る。湿ると乾き方が変わる。乾き方が変わると、そこから裂ける。
「どれのことでございましょう」
「……全部だ」
「全部、と申しますと」
「お前をうちに入れたのも、父が決めた」
「はい」
「彫らせたのも、父だ。俺は、頼まれて運んでいただけだ。材を注文して、仕上がったものを受け取って、家の名で贈った」
「はい」
「名前を入れないことも、父が決めた。抱えの職人には名を入れないのが決まりだと言われて、俺はそういうものだと思っていた」
彼の声は、だんだん早くなった。
早口になる人は、たいてい、自分の言っていることに追い越されている。
「工房を潰したのが父だと知ったのは、公開彫りの前の日だ。典礼院から名簿の写しが来て、除名の理由の欄を見た」
「そこには、何と」
「——申し出により、と」
わたしは顔を上げた。
「申し出により、でございますか」
「そう書いてある。誰の申し出かは書いていない」
◇
しばらく、どちらも喋らなかった。
外で荷車が通った。灰通りは日が落ちてから荷が増える。昼のあいだは客がいて通れないからだ。
「リディア」
「はい」
「知らなかったんだ」
「はい」
「知っていたら、俺は」
彼はそこで止まった。
止まって、その先を続けなかった。続けられなかったのだと思う。知っていたら何をしたのか、自分でも答えが出ていない。
わたしは、布の上に手を置いた。
「エルンストさま」
「なんだ」
「ひとつだけ、うかがってもよろしいですか」
「ああ」
「三年半のあいだ、わたくしの名をお呼びにならなかったのも、ご指示でしたか」
◇
彼の顔が、止まった。
止まり方が、はっきり見えた。目のあたりの筋が一度動いて、それから、動かなくなった。
答えを探している顔ではない。
答えが、すぐに出てしまった顔だ。
「……」
「ご指示でしたか」
「……いや」
「では、なぜ」
彼は口を開けた。
開けたまま、しばらく何も出てこなかった。前にもこの顔を見た。作業部屋の入口で、何度も。
「わからない」
「はい」
「本当に、わからないんだ。……呼ぼうと思ったことは、何度もある」
「はい」
「呼ばなかった。理由は、ない」
わたしは、それを聞いていた。
理由がない、というのは、たぶん正直な答えだった。
だから、いちばん重かった。
指示なら、指示をした人がいる。決まりなら、決まりを作った人がいる。理由がないなら、そこには誰もいない。三年半、わたしの名前は、誰にも呼ばれないまま、誰のせいでもなかった。
◇
「お帰りください」
わたしは、そう言った。
言ってから、自分の声が思っていたより平らだったことに気づいた。
「リディア」
「今日は、木を選んでおります。夜のうちに決めませんと、明日から彫れません」
「聞いてくれ」
「うかがっております」
「俺は、お前を——」
「お帰りください」
二度目は、少し強くなった。
彼は口を閉じた。
閉じて、それから、土間の隅に置いてあった籠を見た。アーベルさまが置いていった籠だ。空のまま、まだそこにある。
見て、何か言おうとして、やめた。
◇
戸のところで、彼は一度止まった。
「ひとつ、言っておく」
「はい」
「父の部屋に、人形が一体ある」
わたしは手を止めた。
「子どもの頃から、そこにあった。棚の上ではなく、鍵のかかる引き出しの中だ。年に何度か、父が出して見ているのを見たことがある」
「……どのような人形でしょう」
「若い女だ。それしか知らない」
彼は戸に手をかけた。
「見合い人形にしては、大きい。手のひらには乗らない」
「……」
「あれを彫ったのは、お前の母親だと思う」
彼は、そう言って出ていった。
戸は、閉めていった。
【今日の彫りおぼえ】彫りかけの顔には布をかける。まっすぐにかけないと、そこだけ湿って、乾き方が変わる。
お読みいただきありがとうございます。
指示だった、と言われるほうが、まだ楽です。指示なら指示をした人がいます。理由がない、と言われると、そこには誰もいなくなります。三年半ぶんの空白に、責任者がいないことになる。
次話——典礼院で、制度の話をします。盛らない人形は、売れないのだそうです。




