第21話 勝ったあとの静けさ
検分の記録に署名するのに、四半刻かかった。
書類は三枚あって、一枚目が検分の結果、二枚目が立会人の名、三枚目が彫り手の届け出だった。三枚目は、わたしが署名するためだけの紙だ。
係の者が、羽根ペンと、名簿を持ってきた。
名簿は分厚い。革の背に、年が焼き印で押してある。係が開いたのは、いちばん新しい年のところだった。
「こちらへ、工房の名と、当主のお名前を」
わたしは書いた。
——灰通り ヴェルクマイスター工房
——当主 リディア・ヴェルクマイスター
書いてから、少し待った。インクが乾くまで、紙を動かさないほうがいい。
その待っているあいだに、係の者が古いほうの帳簿を持ってきて、隣に開いた。七年前のところだ。
同じ名前が、そこにある。線を引いて消してある。
消し方が丁寧だった。文字が読めなくなるほど塗りつぶしてはいない。定規を当てて、一本、まっすぐに引いてある。
誰が引いたのかは、書いていない。
◇
広間を出ると、まだ人が残っていた。
三十人ほどが、階段のあたりで固まっている。わたしが出ていくと、そちらを向いた。話しかけてくる人はいなかった。ただ、道を空けた。
いちばん下の段に、ヴィオラが立っていた。
侍女がいない。馬車も見えない。
「お義姉さま」
「はい」
彼女は、わたしを見なかった。石の段の、自分の靴の先を見ていた。
「あの人形、どうなりますの」
「本日の二体は、典礼院がお預かりになります。記録と一緒に保管されると」
「……戻ってきませんの」
「三年は戻らないそうです」
ヴィオラは、少しのあいだ黙った。
「では、わたくしの顔、三年間あそこにありますのね」
「そうなります」
「……嫌ですわ」
彼女は、そこで初めて顔を上げた。目のふちが赤い。泣いた跡ではなく、泣くのをこらえている顔だった。
「でも、あちらの、綺麗なほうがあそこにあるより、ましかもしれません」
わたしは何も言わなかった。
言うことが見つからなかったのではない。言えば、この人はたぶん、それを親切だと受け取ってしまう。今日はまだ、そういう日ではない。
「お義姉さま」
「はい」
「わたくし、彫るのをやめますわ」
彼女は、それだけ言って、階段を上がっていった。上の階に公爵家の控えの部屋があるらしい。
わたしは、その背中を見ていた。
やめる、と言われて、引き止める言葉は持っていない。持っていないことが、少しだけ引っかかった。
◇
通りに出ると、ニナが待っていた。
その隣に、ミレナさまと、ハイデマリーさまと、テオドラさまがいた。三人とも、それぞれの人形を持っている。
「なぜ、お持ちなのですか」
ミレナさまが、少し得意そうに答えた。
「見せに来ましたの」
「どなたに」
「みなさまに」
彼女は自分の人形を持ち上げた。
通りの人が何人か、それを見ていた。ハイデマリーさまも、テオドラさまも、同じようにした。三体とも、割れていない。反ってもいない。
「割れないところをお見せするには、持ってくるしかございませんでしょう」
三体は、それぞれ日の当たり方が違っていた。
ミレナさまのものは、半年たって色が落ち着いている。木が油を吸って、はじめより深い茶になった。ハイデマリーさまのものは、まだ新しい。テオドラさまのものは、左の頬の面に、夕日が斜めから入っていた。
わたしは、その影を見た。
彫ったときと、同じ深さで出ている。木が動いていない。動かない木を選べたのは、あのとき床下から出した試し彫りのおかげだ。
「あの」
テオドラさまが、こちらに人形を向けた。
「これ、まだ影が出ます」
「はい」
「出なくなったりしませんか」
「木が痩せますと、浅くなります。ただ、この材でしたら、二十年は持ちます」
「二十年」
「はい」
テオドラさまは、人形を胸のところで抱え直した。
「わたし、そのころ三十七ですね」
「はい」
「そのころには、この影、どうでもよくなってますでしょうか」
わたしは少し考えて、正直に答えた。
「存じません」
彼女は笑った。左側を、隠さずに。
「……はい」
「あら、泣かないでくださいまし」
「泣いておりません」
「泣いていらっしゃるのは、そちらの方ですわ」
ニナが、後ろを向いた。
◇
帰りは歩いた。
典礼院から灰通りまでは、川沿いを行くと半刻ほどある。荷車がよく通る道なので、端を歩く。日が落ちかけて、水面が橙になっていた。
道具箱は行きより重く感じた。中身は同じだ。
「あの」
ニナが、三度目に言いかけて、やめた。
「はい」
「……いえ」
「泣いたことでしたら、お気になさらず」
「泣いてません」
「はい」
「泣いてないです」
「はい」
ニナは、しばらく黙って歩いた。
「あの人、やめるって言ってましたね」
聞こえていたらしい。
「はい」
「引き止めなかったですね」
「はい」
「なんでですか」
わたしは、川のほうを見た。
橋の下で、船が二艘、材木を積んでいた。丸太の端が水に浸かっている。ああやって運ぶと、乾き方が均一になる。
「彫れるようになるまでに、五年はかかります」
「はい」
「五年やっても、彫れない人はおります」
「はい」
「その五年を、やってごらんなさいと言うのは、責任のいることです」
ニナが、隣で足を止めた。
わたしも止まった。
「……わたしには、言いましたけど」
「はい」
「顎を、引けって」
「言いました」
「責任、取れるんですか」
わたしは、その質問について少し考えた。
「取れません」
「うわ」
「ですから、荒彫りから始めていただきました。あれなら、五年やっても損はしません」
「損はしないって、なんですか、その言い方」
「木を扱う手は、どこへ行っても使えますので」
ニナは、また歩き出した。
少し先で、こちらを見ずに言った。
「……顔、彫れるようになったら、どうなるんですか」
「工房が二人になります」
「それだけですか」
「それだけです」
◇
灰通りに着いたのは、暗くなってからだった。
ハウザーさんの店は、戸が半分閉まっていた。いつもどおりだ。中から灯りが漏れていて、あの人が戸口に立っているのが見えた。
こちらに気づくと、帽子に手をやった。
「聞いたぞ」
「早うございますね」
「早いさ。通りじゅうが待ってた」
彼は戸を全部開けて、外へ出てきた。
「勝ったんだって?」
わたしは、少し考えた。
「記録が残りました」
「なんだそりゃ」
「典礼院の名簿に、うちの工房の名前が戻りました。七年ぶりです」
ハウザーさんは、しばらくこちらを見て、それから帽子を取った。
取って、頭を下げた。
わたしは、どうしていいか分からず、同じように下げた。
◇
工房の戸を開けると、床に紙が一枚落ちていた。
戸の下から差し込まれたものだ。封はしていない。折っただけで、蝋も紐もない。
ニナが拾って、渡してきた。
筆跡は知っている。三年半、書き付けを何度も見た。書記のものではない。本人の字だ。
書いてあったのは、二行だけだった。
——話がしたい。
——一度でいい。
【今日の彫りおぼえ】丸太は端を水に浸けて運ぶ。そうすると、乾き方が均一になる。
お読みいただきありがとうございます。
勝ったあとに残るのは、たいてい事務です。書類が三枚あって、名簿があって、インクが乾くのを待つ時間があります。そのあいだに、七年前に引かれた線を見ることになりました。定規を当てて、まっすぐに引いてありました。
次話——工房に、二行だけの手紙が届きました。差出人は、名を書いていません。




