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「人形のような妻だ」と離縁されたら、公爵家の縁談が全部壊れました  作者: 風音シエル


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第20話 公開彫り

典礼院の広間は、思っていたより天井が低かった。


 高い建物なので、中も高いのだろうと思っていた。実際は梁が低く、その代わり窓が大きい。東と西に三つずつ。日の出から日の入りまで彫るのだから、当然そう作ってある。この部屋は、そのために建てられている。


 卓が二つ、六歩ほど離して置かれていた。あいだに椅子が一脚。


 人は、七十人ほど入っていた。壁ぎわに立っている者もいる。ニナは、いちばん前の右端にいた。約束どおりだ。


    ◇


 木は、典礼院が用意した。


 二本。同じ丸太から挽いたものだという。長さも太さも揃っている。係の者が卓へ置いた。


 わたしは、それを持ち上げた。


 持ち上げて、爪の背で三か所を叩いた。頭にあたるところ、胴、裾。同じ強さで。


 三つとも、高く鳴った。


 広間が、少しざわついた。何をしているのか分からない人のざわめき方だった。壁ぎわで、アーベルさまが動かずに立っていた。


 向かいの卓で、エルンストが木を持ち上げた。


 彼は叩かなかった。持ち上げて、重さを確かめて、そのまま置いた。


    ◇


 ヴィオラが入ってきたのは、日が窓の桟に届いたころだった。


 髪は結っていた。編みは崩れていない。化粧はしていなかった。


 化粧をしていない顔で人前に出るのは、この人には難しいことだったと思う。だが条件書に書いてある。彩色はしない、と。彫るほうがしないなら、彫られるほうもしない。それが典礼院のやり方らしい。


 彼女は椅子に座って、正面を向いた。


 目は合わなかった。合わせないようにしているのではなく、どこを見ればいいのか分からない目だった。


 鐘が鳴った。


    ◇


 最初の一刻で、勝負はついたように見えたと思う。


 エルンストの手が速い。


 速いというより、迷いがない。荒く落とすところを一気に落として、比を出して、すぐ顔に入った。刃を持つ角度がいい。押していない。引いている。


 わたしは、それを見ていた。


 三年半、あの人は入口に立っていた。ひと月ぶんくらいの時間、わたしの手を見ていた。見て、覚えた。覚えたものは、そのまま出ている。


 わたしと同じ順序で、わたしと同じ角度で彫っている。


 昼を過ぎたころ、向かいの卓から、木を削る音の質が変わった。顔に入ったのだ。広間の人が、そちらへ寄った。


 わたしのほうは、まだ肩と首の比を出していた。


    ◇


 顔を見た。


 ヴィオラの頬骨は浅い。それを支える顎が細い。三年半前と同じ骨だが、頬の肉が少し落ちた。落ちたぶん、頬骨の縁が前より出ている。


 目は大きくない。瞼の縁が厚いので、正面から見ると強く見える。


 口角は左が先に上がる。上げる癖がついている。ただ、今日は上がっていない。


 わたしは、上がっていない口角を彫った。


    ◇


 西の窓に日が回ったころ、向かいで拍手が起きた。


 エルンストの人形が、顔まで仕上がっていた。


 美しかった。


 頬に丸みがあり、目が大きく、顎の線が細い。正面から見ても、斜めから見ても崩れない。手が良い。三年半見ていただけの人が彫ったものではない。


 似ているかと言われれば、似ている。


 ヴィオラが十九か二十のころには、たしかにこういう顔だった。


 拍手は長く続いた。誰かが「見事だ」と言った。別の誰かが「あちらはまだ目も入っていない」と言った。


 わたしは目を入れなかった。まだ早い。目は最後だ。


    ◇


 日の入りの鐘が鳴る、四半刻ほど前だった。


 わたしは刃を替えた。


 いちばん細いもの。母の刃で、二十年使われて、三度研ぎ減っている。


 目は彫るのではなく、開ける。木を掘って影を作り、その影の深さで視線の向きを決める。深すぎれば睨む。浅ければ眠る。


 ヴィオラは、人と話すとき顎を少し上げる。上げる人の目は、正面から見ると下がって見える。だから影は浅くする。浅くしすぎると眠るので、下の縁だけ、髪の毛一本ぶん深く落とす。


 二度、手を止めた。


 二度目に止まったとき、正面のヴィオラと目が合った。


 初めて合った。彼女は、逸らさなかった。


 わたしは刃を入れた。


 鐘が鳴った。


    ◇


 検分は、典礼院長のヴァイスさまが行った。


 六十がらみの、痩せた方だ。両方の人形を卓の中央へ運ばせて、順に持ち上げ、目で見て、寸法を当てた。


 叩かなかった。


 わたしは前に出た。


「恐れながら」


「なにか」


「叩いてもよろしいでしょうか」


 後ろのほうで、椅子の脚が鳴った。ヴァイスさまは、少し眉を上げた。


「叩く」


「木の詰まりを見ます。三か所を同じ強さで。表面に出ていない割れは、音でしか分かりません」


「……検分の項目には無いが」


「では、わたくしが自分の人形を叩きます。それはご覧になっても差し支えないかと」


 ヴァイスさまは、しばらくわたしを見た。


 それから、「両方やりなさい」と言った。


 わたしは自分のものを三か所叩いた。三つとも高い。


 次に、エルンストのものを叩いた。頭は高い。胴も高い。


 裾のところで、音が濁った。


    ◇


 広間がざわめいた。


 エルンストが、自分の卓から動かなかった。動かずに、こちらを見ていた。彼は、自分で分かっていたと思う。頬を細くするために、裾のほうまで薄く落としていた。


 それでも割れてはいない。今日はまだ、割れていない。


「割れるのか」


 ヴァイスさまが聞いた。


「いつかは。この乾き方ですと、冬までは持たないかと存じます」


「根拠は」


「音が濁っております。それだけです」


 わたしは頭を下げた。


「本日の検分は、今日の姿を見るものと存じます。ですから、これは記録に残していただくだけで結構です」


    ◇


「では、本人に見せよう」


 ヴァイスさまがそう言った。


 ヴィオラが立ち上がって、卓の前まで来た。


 二体は並べて置いてあった。片方は美しい。片方は地味だ。片方は口角が上がっていて、片方は上がっていない。


 彼女は、長いこと見ていた。


 誰も何も言わなかった。七十人が黙っているのは、思っていたより静かではない。布の擦れる音や、息の音がする。


 ヴィオラは、二度、右のものと左のものを見比べた。


 それから、右を指した。


 わたしのほうだった。


「……こちらが、わたくしです」


 広間が動いた。


「お嬢さま」誰かが言った。「よくご覧になって。あちらのほうが」


「見ました」


 ヴィオラの声は、震えていなかった。


「あちらは、三年前のわたくしです」


 彼女は、もう一度、わたしの彫ったほうを見た。


「こちらは、今日のわたくしです。……口角が、上がっておりません。今日、わたくし、一度も笑っておりませんでしたから」


    ◇


「好みの話であろう」


 声がした。


 広間の奥、いちばん後ろの席から、ヘルマン・メルツが立ち上がっていた。


「本人が気に入るかどうかは、検分ではない。典礼院が見るのは、技であろう」


「仰せのとおりです」


 ヴァイスさまが答えた。


「では、技の話をいたしましょう」


 そう言ったのは、壁ぎわのアーベルさまだった。


 彼は書類を持って前へ出た。それから、係の者が運んできた包みを卓に置いた。


 包みを開けると、割れた人形が出てきた。


 左の頬に、髪の生え際から顎まで、線が入っている。


「ゼルテン伯爵家より借り受けたものです。当院で検分いたしました」


 アーベルさまは、割れた人形を横に倒して、断面を見せた。


「割れ口から中を見ますと、この人形は一度、頬を削り直されております。表面と内側で木の詰まりが違う。彫り直しです」


 誰も何も言わなかった。


「そして」


 彼は人形を裏返した。


「裾の裏側に、印がございます」


    ◇


 小さな窪みだった。


 線が三本と、点がひとつ。指の腹でしか分からない大きさで、木目の流れに紛れている。


「当院が借り受けた十九体のうち、十六体に、同じ印がございました」


 アーベルさまは書類をめくった。


「いずれもメルツ公爵家より贈られたもので、年は五年前から一年半前まで。彫り直しの痕があるのは、この一体だけです」


 ヴァイスさまが、印を覗き込んだ。


「これは、どこの印か」


 わたしは、道具箱から布包みを出した。


 開いて、真鍮の刻印を卓に置いた。線が三本と、点がひとつ。


「母のものです」


「母上とは」


「ヴェルクマイスター工房の、先代でございます」


 ヴァイスさまは、係の者に何か言った。係が奥へ行って、名簿を持って戻ってきた。


 彼はそれを開いて、読み上げた。


「ヴェルクマイスター工房。当主、七年前に死去。同年、当院の彫り手名簿より除名」


 誰も、次を言わなかった。


 七十人いる部屋で、布の擦れる音だけが残った。


 誰かが小さく言った。「では、五年前と一年半前のものは」


    ◇


 わたしは、今日彫った人形を持ち上げた。


 彫っているあいだ、この裾のところだけは、最後まで手をつけずに残しておいた。理由は、朝の時点では自分でも決めていなかった。ただ、いつも押している場所を、今日は空けておこうと思った。


 日が西の窓に回ったころ、目を入れる前に、そこへ二度、細い刃を入れた。二度で足りず、三度目でようやく線が通った。文字を彫るのは、顔を彫るのとは別の仕事で、わたしは慣れていない。母も、たぶん慣れていなかった。二十年、一度も名前を書かなかったのだから。


 裏返して、裾の裏側を上に向けた。


 そこには、印は押していない。


 代わりに、彫ってある。細い刃で、二度引いて、三度目で通した線。


 文字だ。


 ——リディア・ヴェルクマイスター


 わたしはそれを、ヴァイスさまの前に置いた。


「人形は嘘をつきません。彫る人が嘘をつくだけです」


 同じことを、三年半前に一度だけ申し上げたことがある。あのときは、広間に四人しかいなかった。


「本日のこれは、わたくしが彫りました」


 それだけを言った。


 言うことは、それだけでよかった。あとは全部、卓の上に並んでいる。


    ◇


 ヘルマン・メルツは、何も言わなかった。


 立ち上がったまま、しばらくそこにいた。それから、席の列を横に抜けて、広間の扉のほうへ歩いていった。


 誰も止めなかった。彼も、誰にも何も言わなかった。


 扉が閉まる音がした。


 わたしは、その音を聞いていた。


 卓の向こうで、エルンストが自分の人形を見下ろしていた。美しい人形だ。裾のところで、音が濁る人形だ。


 彼は顔を上げなかった。

【今日の彫りおぼえ】目は最後に入れる。最後に入れるので、日が暮れる前に、それまでを全部終わらせておく。


お読みいただきありがとうございます。


三年半、この人は名前を書かせてもらえませんでした。今日、初めて書きました。書くのに使ったのは母の刃で、書いた名前は自分のものです。


名前が、初めて木の外に出た回です。★でその名前を押していただけますと、彫り手はたいへん喜びます。


次話——広間の外に、まだ人が残っています。

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