第19話 彫る前の一日
前の日は、仕事を入れなかった。
入れないと決めたのはニナだ。帳面を見せてきて、「明後日以降にしてもらいました」と言った。四件ぶんの日取りを、勝手に動かしていた。
「勝手にすみません」
「いえ。助かります」
「あの、みなさん、知ってましたよ」
「何をでしょう」
「明日のことです。ケルナーの奥さままで知ってました」
王都の話は、いつのまにか灰通りにも戻ってくる。
「なんて言ってましたか」
「油をかけた娘の顔を彫るんですってね、って」
わたしは手を止めた。
そういう伝わり方をしているらしい。
◇
朝のうちに、ニナが掃除を始めた。
やらなくていいと言ったが、聞かなかった。棚を拭き、床を掃き、竈の灰を出し、井戸の縄を替えた。縄は、わたしが替えようと思って半年放っていたものだ。
「これ、切れる寸前でしたよ」
「存じておりました」
「知ってて放っておく人、いちばんたち悪いです」
「はい」
昼前に、戸が鳴った。
アーベルさまだった。上着は着ていない。袖を肘まで上げて、手には縄と、油の缶と、なぜか箒を持っている。
「……なにか」
「非番です」
「典礼院の方が、明日の当事者の工房へいらしてよろしいのですか」
「よろしくありません」
「では」
「ですから、非番です」
彼は箒を土間に立てかけた。
ニナが奥から出てきて、それを見て、鼻から息を吐いた。
「その理屈、通りますか」
「通しに来ました」
「うわ」
◇
結局、三人で片づけをした。
アーベルさまは、意外なほど手が動いた。棚の裏の埃を掻き出し、床下の木屑を掬い、窓の建てつけを直した。直したあと、窓を三度開け閉めして、音を確かめていた。
「お上手ですね」
「典礼院は、書き物だけの役所ではありません」
「そうなのですか」
「借り受けた人形を運びます。梱包も、荷解きも、こちらでやります。落とすと弁償ですので、みな上手になります」
彼は窓から手を離した。
「あと、私は三男です」
「はい」
「三男は、たいてい何かしら自分でやります」
ニナが台所から「その理屈も通ってません」と言った。
◇
午後は、道具の支度をした。
母の刃は七本。三本はヴィオラから戻って研ぎ直した。二本はもともと手元にあった。あと一本は棚にある。
残る一本が、刃筋の波打ったものだ。
わたしは、それを台に出した。光にかざすと、刃の線が細かく上下している。押して彫ったからだ。押した力が横へ逃げて、刃が食い込むたびに角度が変わった。
この波を消すには、いちばん深い谷まで全体を落とすしかない。落とせば、幅が三分の一になる。細身の刃ではなくなる。
「捨てるんですか」
ニナが横から覗いた。
「いいえ」
「直るんですか」
「直りません」
「じゃあどうするんですか」
わたしは砥石を出した。
「別のものにします」
◇
研ぎながら、こんな話をした。
「細身の刃は、線を引くためのものです。これはもう、線が引けません」
「はい」
「ですが、幅を落として厚みを残せば、荒彫りの刃になります。面を落とす仕事は、細さがいりません」
「格下げじゃないですか」
「格の話ではありません」
砥石の上で、刃が黒い水を出した。
「使うところが変わるだけです。線を引けなくなった刃を、線を引く場所で使い続けると、そこでまた欠けます」
ニナは、しばらく黙って見ていた。
「……それ、人にも言いますか」
「言いません」
「なんでですか」
「刃は、置く場所を自分で選べませんので」
◇
夕方近く、ミレナさまとハイデマリーさまが、そろって来た。
二人は工房で顔を合わせたことがない。どこかで話がついたらしい。ミレナさまが豆と手ぬぐいを、ハイデマリーさまが縫い直した前掛けを持ってきた。前掛けは、袖口のところが二重になっていた。
「彫るときに、袖が邪魔になりましょう」
「……お仕立てを、なさるのですか」
「縫い子でしたのよ、若い頃は」
ハイデマリーさまは、前掛けを台に広げた。二重にした袖口の、縫い目が細かい。針の運びに迷いがない。
この人の指の付け根が硬かったのは、そういうことだったのだと、いまさら分かった。
「明日は、大勢いらっしゃるのでしょう」
「そのようです」
「では、余計に手が冷えます。始める前に、湯で温めておしまいなさい」
「はい」
「わたくしは、縫う前に必ずそうしておりました」
ミレナさまが横で「わたくしは何も持っていないので、ただ応援いたします」と言った。ニナが「豆を持ってきたじゃないですか」と言うと、「豆は母が持たせたのです」と返した。
二人は四半刻ほどで帰っていった。
帰ったあと、ニナが前掛けを畳みながら言った。
「みんな、来ますね」
「はい」
「なんでですかね」
「盛らずに彫った人形を、お持ちだからだと思います」
◇
日が傾いてから、道具箱の底板を外した。
真鍮の刻印。線が三本と、点がひとつ。母のものだ。
わたしはそれを取り出して、掌に載せた。七年ぶんの黒ずみは、布で拭いても取れない。取れないままでいい。
「持っていくんですか」
ニナが、いつのまにか隣に来ていた。
「迷っております」
「なんでですか」
「明日は、うちの工房として彫ります。母の印を押すのは、母の工房として出すことになります」
「同じじゃないんですか」
「同じではありません」
わたしは刻印を指で挟んで、光に当てた。
「これは、母の代のものです。祖母のものは線が二本だったと聞いております」
「じゃあ、あなたのは」
「四本になります」
「持ってるんですか」
「作っておりません」
ニナが、こちらを見た。
「……なんで」
わたしは答えなかった。
作らなかった理由は、いくつも思いつく。母が死んで、その次の年に嫁いだ。屋敷では道具を持ち込めなかったので、指で押した。指で押すと、母の形になる。母の形で押していれば、自分の形はいらない。
全部本当だが、全部後付けだ。
本当のところは、たぶんこうだ。四本目の線を彫った瞬間に、この工房は母のものではなくなる。
「明日は、押しません」
わたしは刻印を布に包んで、道具箱に戻した。
「明日は、名前を書いてまいります」
◇
夜、アーベルさまが帰るとき、戸口で一度止まった。
「ひとつだけ、申し上げてよろしいですか」
「非番のお話でしたら」
「非番の話です」
彼は、外の暗いほうを見ていた。
「明日、あちらの人形のほうが、先に人を驚かせます」
「でしょうね」
「お分かりですか」
「はい。速い方の手は、見ていて気持ちがよいものですので」
彼は、そこでこちらを向いた。
「私は検分方ですので、明日は口を出しません。出せません」
「はい」
「ですから、いま申し上げます」
彼は一度、言葉を選ぶように黙った。
「——叩いてください」
「……」
「双方の人形を、同じ強さで、三か所。あの場で誰も叩かないなら、あなたが叩いてください。私の仕事は、その音を聞くことです」
彼は頭を下げて、帰っていった。
◇
戸を閉めてから、ニナが言った。
「あの人、非番でしたっけ」
「非番だそうです」
「めちゃくちゃ仕事の話してましたけど」
「そうですね」
「……いい人ですね」
「そうですね」
ニナは灯りを消しに行って、途中で振り返った。
「あの、明日」
「はい」
「わたし、いちばん前で見ます」
「はい」
「負けたら、たぶん泣きます」
「そうですか」
「泣いたら、あとで恥ずかしいので、負けないでください」
わたしは、道具箱の留め金を確かめた。
三度確かめた。三度目で、確かめるのをやめた。
【今日の彫りおぼえ】線が引けなくなった刃は、面を落とす刃にする。使うところを変えれば、欠けない。
お読みいただきありがとうございます。
道具は置く場所を自分で選べません。選べる人が、選んでやらないといけない。うちの主人公は道具にはそれをしますが、自分の名前の話になると、七年ぶん先延ばしにしています。
次話——典礼院の広間です。同じ木を二人に渡して、同じ人を、同時に彫ります。




