第18話 公開で彫れ、と言われまして
一通目の返事は、三日かけて書いた。
三日かかったのは、迷ったからではない。書くことが一行しかないのに、一行だけ書くと、こちらが怒っていると読まれると思ったからだ。怒っていると読まれると、向こうは次の手を打ちやすくなる。怒っている人間は、たいてい次に何をするか読める。
結局、わたしはこう書いた。
——お申し出、ありがとうございます。名の要らぬ仕事は、母から教わっておりません。
封をして、グレゴールに渡した。
彼は封を受け取るとき、初めて土間へ足を入れた。入れて、すぐに出た。出るときに、こちらを見ずにこう言った。
「……材が、届いております」
「え」
「いえ。癖でございます」
彼は帽子を深くかぶって、帰っていった。
◇
二通目が来るまでに、六日かかった。
その六日のあいだに、灰通りには客が七人来た。四人が注文、二人が問い合わせ、一人は割れた人形を持ってきた人だった。三年前にどこかの工房で作らせたもので、肩のところに線が入っている。
「直りますか」
「割れは、直りません」
「そうですか」
「ただ、割れたところに埋め木をして、上から彫り直すことはできます。同じ顔にはなりません」
その人は、しばらく考えて、そのまま持ち帰った。
わたしは、それでいいと思った。割れた人形をそのまま持っている人は、たいてい、直したいのではなく、誰かにひとこと言ってほしいだけだ。
◇
二通目は、公爵家の封ではなかった。
典礼院の封だった。
銀の輪に、天秤とも鍵ともつかない意匠。上部に三本の縦線。アーベルさまの袖の内側で見たものと同じだ。
ニナが、それを見て一歩下がった。
「うわ」
「はい」
「お役所じゃないですか」
「そうですね」
「うち、なんかしましたか」
「何もしていないと思います」
封を切った。紙は三枚。一枚目が典礼院の文面で、二枚目が条件、三枚目に日付と場所が入っていた。
一枚目を読むのに、時間はかからなかった。
——見合い人形の彫り手について、公開の検分を行う。灰通りヴェルクマイスター工房と、メルツ公爵家の彫り手が、同一の人物を同時に彫る。典礼院がこれを検分し、結果を記録に残す。
◇
「……なんですか、これ」
ニナが二枚目を覗き込んだ。
「公開で彫れ、ということのようです」
「なんでですか」
「うちの人形と、あちらの人形を、並べてご覧になりたいのだと思います」
「誰がですか」
わたしは三枚目を見た。
場所は典礼院の広間。日付は十六日後。立会人の欄に、典礼院長ヴァイスの名がある。その下に、申立人の欄があった。
——申立人 ヘルマン・メルツ
「……あの家からですか」
「はい」
「なんで自分から言い出すんですか。負けたら終わりじゃないですか」
わたしは紙を台に置いた。
「負けないと思っておられるのでしょう」
「なんでそう思えるんですか」
「うちの人形を、ご覧になったことがないからです」
◇
申立人の欄を、わたしはもう一度見た。
ヘルマン・メルツ。字は書記のものだ。あの人は、こういう書面に自分では書かない。ただ、書かせる文言は自分で決める。三年半、屋敷でその癖を見てきた。
この申し立てをする理由は、ひとつしか思いつかない。
典礼院の借り受けが、進んでいる。五年ぶん、四十一家。いま十九まで来ていると、アーベルさまは言った。あれが最後まで進めば、裾の裏側までは見なくても、割れと反りの数だけであの家の人形の質は出る。
出る前に、噂のほうを止めたい。
噂は「三年半のあいだ、あそこの人形を彫っていたのは誰か」だ。止めるには、灰通りの女が大したことのない彫り手だと、大勢の前で見せるのがいちばん早い。
早いし、たぶん、あの人にとっては安全な手でもある。負けても失うものが少ない。灰通りの工房が勝ったところで、あの家の名は傷つかない。傷つくのは、彫り手として名前の出ている者だけだ。
わたしは条件書の下のほうを、指でなぞった。
◇
二枚目の条件書は、細かかった。
彫るのは同一の人物。木は典礼院が用意し、双方に同じものを渡す。刃は各自の持ち込み。制限は日の出から日の入りまでの一日。
仕上げは顔まで。彩色はしない。
そして、下から三行目に、こう書いてあった。
——彫る対象は、ヴィオラ・メルツとする。
わたしは、その行を二度読んだ。
ニナが横から読んで、口を開けた。
「……あの人ですか」
「はい」
「あの、油かけてった人ですよね」
「はい」
「なんでその人なんですか」
「ご縁談が、必要だからだと思います」
ゼルテン家との話は流れた。流れたあと、あの家は次を探さなければならない。次を探すには人形がいる。人形を作るなら、その場で作らせて、ついでに灰通りの工房を潰せば、二つ片づく。
合理的だ。あの人はいつも合理的だった。
「じゃあ、相手は誰が彫るんですか」
わたしは条件書のいちばん下を見た。
メルツ公爵家の彫り手の欄には、名前がひとつ書いてあった。
——エルンスト・メルツ
◇
「……え」
ニナが二度目に声を上げた。
「その人って、あなたの」
「元の夫です」
「彫れるんですか」
わたしは、答えるまでに少し時間がかかった。
「彫れると思います」
「なんでですか。彫ってるところ、見たことあるんですか」
「いいえ」
一度もない。
三年半、あの人は作業部屋の入口に立っていた。用があるのに言い出せないのだと、わたしはずっと思っていた。何度も、待っていた。
立っていた時間は、たぶん全部合わせると、ひと月ぶんくらいになる。
その時間、あの人は何をしていたか。
——俺は、それを見ていた。
先日、そう言った。
「見ておられました」
「見てただけでしょ」
「三年半です」
わたしは条件書を畳んだ。
「見ているだけで覚える人は、います。手先の器用な方なら、なおさらです」
◇
ニナは、しばらく黙っていた。
それから、台の縁を指で叩いた。爪の背で。三か所。癖がうつっている。
「断れないんですか、これ」
「断れます」
「じゃあ」
「断りますと、記録に残ります。灰通りの工房は、検分に応じなかった、と」
「……それ、まずいですか」
「まずくはありません。ただ、そう書かれた工房に、次の客は来ません」
ニナが黙った。
「受けます」
「……即答ですね」
「はい」
「勝てるんですか」
わたしは、条件書を封に戻した。
封蝋は割れているので、糸で括った。母がそうしていた。開けた封は、括って残す。捨てると、あとで何を言われたか分からなくなる。
「勝ち負けの話では、ないと思います」
「そこは勝つって言うところですよ」
「わたしは、盛りません」
ニナが顔を上げた。
「向こうが盛れば、あちらのほうが美しくなります。美しいほうが良いと言われれば、負けます」
「……じゃあ」
「ですが、あの場でわたしが盛りましたら、うちの工房は、その日で終わります」
わたしは封を棚に置いた。
「彫るものは、いつもと同じです。場所が広いだけです」
◇
その夜、ニナは寝る前に、階段の途中で止まった。
いつもの場所だ。この子は、言いにくいことを言うとき、必ずそこで止まる。
「あの」
「はい」
「わたし、見に行っていいですか」
「典礼院の広間ですので、どなたでも入れると思います」
「そうじゃなくて」
ニナは、手すりを握った。
「……あなたが負けるところ、見たくないんですけど」
わたしは灯りを消す手を止めた。
「では、勝つところをご覧ください」
「勝ち負けの話じゃないって言いましたよね、さっき」
「言いました」
「どっちですか」
「どちらでもです」
ニナは何か言いかけて、やめた。
やめて、階段を上がっていった。上がりきる前に、こう言った。
「……油、多めに買っときます。遅くなるでしょうから」
【今日の彫りおぼえ】開けた封は捨てずに括って残す。何を言われたかは、あとで必ず要る。
お読みいただきありがとうございます。
見ているだけで覚える人は、実際にいます。ただ、見て覚えたものには、手を動かして覚えたものにあるはずのものが、ひとつだけ足りません。それが何なのかは、たぶん十六日後に分かります。
次話——彫る前の一日です。工房に、二人ばかり掃除に来ます。




