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「人形のような妻だ」と離縁されたら、公爵家の縁談が全部壊れました  作者: 風音シエル


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第17話 七年前の帳面

帳面は二十冊ある、と思っていた。


 正しくは、十九冊と、一冊だ。


 いちばん上の一冊だけ、他と揃っていない。厚みが半分しかなく、背が黒い。棚に寝かせるとき、母はそれだけ一番奥に押し込んでいた。子どもの頃のわたしは、それを古いから傷んでいるのだと思っていた。


 古いのではない。焼けているのだ。


    ◇


 脚立に乗って下ろすとき、表紙の角が指で崩れた。


 炭になった紙は、触るとそこで終わる。力を入れずに、下から手のひらで受けて、そのまま台へ運んだ。運ぶあいだに、細かい黒が床へ落ちた。


 ニナが箒を持ってきて、それを掃かずに、周りを囲うように木片を並べた。


「踏まないように」


「ありがとうございます」


「……開けるんですか」


「はい」


 わたしは、両手を膝で拭いた。汗をかいていた。


    ◇


 表紙をめくると、最初の十枚ほどは無事だった。


 母の字だ。角の丸い、人の名前だけ楷書の字。


 ——三月。ラウエ子爵家、ご次女。目尻に泣きぼくろ。人形に入れるかどうか三日迷う。入れた。

 ——四月。灰通り東、鍛冶のヨーゼフさんの姪。歯並びが良い。笑わせて彫る。

 ——五月。ケルナー商会。ご長女。まだ十二。早い。断る。


 断ったものまで書いてある。


 わたしは指を止めた。ケルナー商会。ミレナさまの家だ。十二のときに一度、断られている。


 紙をめくった。


 六月のところから、下半分が黒くなった。


    ◇


 七月の紙は、右の三分の一しか残っていない。


 左側は炭で、触れば崩れる。残った右端に、母の字の終わりだけが並んでいた。


 ——……を、彫るように。

 ——……の顔は、あのままでは。

 ——……と、仰せである。


 仰せである、という言い方を、母はしない。


 母が誰かの言葉をそのまま書き写すときだけ、この形になる。屋敷の使いが読み上げた文言を、その場で書き取ったのだ。


 次の紙は、ほとんど残っていなかった。


 その次が、半分残っていた。


    ◇


 わたしは、それを三度読んだ。


 一度目は文字を追い、二度目は行の間隔を見て、三度目に、書いた人の手の速さを見た。


 字が、大きい。


 母の字は小さい。二十年ぶん見てきたので、大きさは覚えている。この行だけ、他の倍ある。


 ——盛れと命ぜられた。断った。


 その下に、もう一行。


 ——名を消すと言われた。消してよい。顔は消えぬ。


 顔は消えぬ、という言い方を、母は工房でしたことがない。これは、誰かに向けて書いた言葉だ。名簿から名を消すと告げた相手に、その場では言わなかったことを、帰ってきてから紙に書いている。


 消えるのは名前で、消えないのは顔だ。


 そのとおりになった。母の名は名簿から消え、母の彫った顔だけが、王都のあちこちに残っている。棚の上に、布の中に、嫁いだ先の簞笥の奥に。ニナの母の顔も、そのひとつだ。


 残っているのに、誰が彫ったのかは分からない。七年経って、それがこうなっている。


    ◇


 ニナは、木片の囲いの外に立っていた。


 覗き込まずに、こちらを見ていた。


「読めましたか」


「はい」


「なんて書いてありました」


 わたしは、読み上げた。


 読み上げてから、自分の声が普段と違うことに気づいた。低い。低くなるまいとすると、余計に低くなる。


「……名を消すって、なんですか」


「典礼院に、彫り手の名簿がございます。届け出をした工房が載ります」


「そこから消されたんですか」


「はい。廃業ではなく、除名だそうです」


「誰にですか」


 わたしは答えなかった。


 答えるには、まだ足りない。半分焼けた帳面に「命ぜられた」とあるだけで、誰が、とは書いていない。


 母は、その名を書かなかった。


 書けなかったのではないと思う。書かないと決めたのだ。書けば、この帳面を見つけた者が——たとえば十七のわたしが——その名を知ってしまう。


    ◇


 残りの紙も、順に見た。


 八月から先は、ほとんど字が残っていない。焼け方が均一ではなく、綴じ側から扇形に広がっている。開いた状態で火にかけたのではない。閉じたまま、背のほうから火が入っている。


 閉じた帳面は、そう簡単には燃えない。紙が詰まっているので、外側だけが炭になって、中まで届かないうちに火が落ちる。だから、これは燃やそうとして燃やしきれなかったものだ。


 竈で燃やしたのだと思う。この家の竈は小さい。母は帳面を入れて、たぶんしばらく見ていて、それから引き出した。


 引き出した理由は、書いていない。


 わたしは、紙の縁を指でなぞった。黒くなったところと、残ったところの境が、まっすぐではなく波打っている。水をかけたのかもしれない。


 最後の紙は、十一月のところだった。


 字は三行しかない。


 ——欅、六本。窓ぎわに立てる。

 ——毎朝ひとつずつ叩く。高く鳴るものだけ使う。

 ——今年は、割れが多い。


 顔のことは、もう書いていない。


 注文が来なくなった年の帳面に、母は木のことだけを書いた。


    ◇


 その夜、わたしは七年前のことを順に並べ直した。


 あの年の初夏、屋敷の使いが二度来た。二度とも、母は工房の外で応対した。中へ入れなかった。わたしは中にいて、窓から見ていた。


 二度目の使いが帰ったあと、母は工房に戻ってきて、しばらく何もしなかった。


 わたしが「何のお話だったの」と聞いたら、母はこう言った。


 ——お顔の話。


 それだけだった。


 その年の秋に、注文が減った。冬に、ほとんど来なくなった。母は毎日、彫りかけの人形を彫っていた。誰の注文でもないものを。


 いま棚に並んでいる五十体の顔は、たぶんその冬のものだ。


 そして、その冬に母は倒れた。


    ◇


 もうひとつ、思い出したことがある。


 母が死んだあと、わたしのところに縁談が来た。


 相手はメルツ公爵家の次男で、話は驚くほど早く進んだ。うちは工房で、貴族ではない。爵位のない家の娘が公爵家に入るのは、普通ではない。


 周りは幸運だと言った。工房を畳んだ娘が拾われたのだ、と。


 わたしもそう思っていた。


 三年半、屋敷の奥で人形を彫りながら、一度もそれを疑わなかった。彫らされているとは思わなかった。役に立てるのが嬉しかった。名前が入らないのは、抱えの職人とはそういうものだと聞いていたからだ。


 いま、順に並べ直すと、別の形が見える。


 顔を盛れと命じて、断られた工房がある。その工房の当主が死ぬ。残った娘は、当主の技を全部受け継いでいる。


 その娘を家に入れれば、断られた仕事は、断った人のいないところで済む。


    ◇


「ニナ」


「はい」


「明日、パン屋のマルタさまの人形を仕上げます。目を入れますので、見ていてください」


「……はい」


「それから、灯りを一つ増やしましょう。油はわたしが買います」


「はい」


 ニナは、それ以上何も聞かなかった。


 聞かないでいてくれたのだと思う。


 わたしは焼けた帳面を布で包んで、道具箱の隣に置いた。棚には戻さなかった。戻すと、また七年、そこにあることになる。


 包みながら、わたしは声に出した。


 誰に言うつもりもなかった。ただ、口に出さないと、明日から手が動かない気がした。


「ヘルマン・メルツさま」


    ◇


 言ってから、そのまま座っていた。


 名前というのは妙なもので、口に出すと、その人がひとまわり小さくなる。三年半、この家の当主だった人。離縁状に署名した人。声を荒らげたことのない人。


 その人が、七年前に母へ何を言ったのかを、わたしはまだ知らない。


 知らないまま、名前だけを知っている。


 窓の外で、風が出ていた。

【今日の彫りおぼえ】炭になった紙は、力を入れずに下から受ける。押さえると、そこで終わる。


お読みいただきありがとうございます。


母親が名前を書かなかったのは、書けなかったからではないと思います。書けば、いつか読む人がそれを知ってしまう。知らせないために書かない、というやり方は、たいてい、知らせたほうが早かったと後から言われます。


次話——公爵家から、二通目が届きます。今度は、書き方が違います。

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