第16話 典礼官のお仕事
名前が分かった人は、扱いが変わる。
わたしはそれを、翌日いちにちかけて確かめた。
名乗る前のあの人は、土間に立って棚を見上げている人だった。名乗ったあとのあの人は、王室典礼院検分方のアーベル・グラーフになった。同じ人が同じ場所に立っているのに、こちらの背筋の伸び方が違う。
ニナも同じらしく、朝からひとことも喋らない。
「あの人、また来ますかね」
昼過ぎに、ようやくそれだけ言った。
「来ると思います」
「なんでですか」
「籠を置いていかれましたので」
籠は土間の隅に置いたままだ。中身は空になったが、返す先がある人の持ち物になった。
◇
その日の夕方、アーベルさまは来た。
やはり土間で止まった。今度は棚を見上げなかった。まっすぐこちらを見て、頭を下げた。
「昨日は、失礼をいたしました」
「いえ」
「名乗るのが遅くなったぶん、こちらの話を先にいたします」
彼は懐から、折りたたんだ紙を出した。名簿だ。家名が並んでいて、横に日付が入っている。
「借り受けの進みぐあいです。五年ぶんで、贈り先は四十一家。うち、いまお預かりしているのが十九」
「早うございますね」
「みなさま、進んでお出しになります」
彼は名簿を台に置いた。
「割れた人形の話が出てから、ご自分の家のものが不安になっておられる。検分してほしいというお申し出のほうが多いくらいです」
「……さようでございますか」
「ええ。仕事がしやすくて助かっております」
彼は、そう言いながら、こちらの顔を見なかった。
助かっている、という言い方をする人が、目を合わせないときがある。
◇
「ひとつ、うかがってもよろしいですか」
「はい」
「検分では、どこをご覧になりますか」
「表面の割れ、反り、寸法。それから、木の詰まり方を叩いて聞きます」
「叩き方は、どのように」
「爪の背で、頭と胴と裾の三か所を。同じ強さで」
わたしは、少し驚いた。
「三か所も、でございますか」
「一か所では分かりません。詰まっている木でも、細いところは高く鳴ります。三つ鳴らして、そのうち一つだけ濁っていれば、そこが割れかけております」
「……検分方の方は、皆さまそうなさいますか」
「いえ。私だけです」
彼は、湯呑みを両手で持ち直した。
「決まりでは、目で見るだけでよいことになっております。目で見て割れがなければ通す。ですから、たいていの人形は、贈られた先で割れてから初めて不良と分かります」
「それでは遅うございます」
「遅いのです。ですから叩いております」
彼はそこで、初めてこちらを見た。
「叩き方は、七年前に灰通りで教わりました」
わたしは湯を注ぐ手を止めた。
「……どなたに」
「工房の前で、女の方が材を叩いておられました。通りかかって、何をしているのかとうかがったら、割れているかどうかを聞いていると」
「……」
「あのとき私は二十二で、典礼院に入ったばかりでした。よく分からないまま真似をして、いまも真似をしております」
「裏は」
「裏、と申しますと」
「裾の裏側です」
アーベルさまは、少しのあいだ黙った。
「……見ません」
「はい」
「見る決まりがありません。誰も見ないところですので」
わたしは湯を沸かしに立った。
立ったのは、顔を見られたくなかったからだ。
二十七体。四十一家のうち、いくつがそれにあたるのかは、数えれば分かる。数えたが、言わなかった。
言えば、この人は仕事として動く。動けば、それは典礼院の手柄になる。
わたしは、まだそこを決めていない。
◇
湯を注いで、二つ湯呑みを台に置いた。ニナは奥にいる。出てこないので、そのままにした。
「グラーフさま」
「アーベルで結構です。典礼院では名で呼びます。家の名を呼ぶと、その家の話になりますので」
「では、アーベルさま」
「はい」
「なぜ、灰通りへいらしたのですか」
彼は湯呑みを両手で持った。前もそうしていた。手が冷える人らしい。
「ヴァイラント家の人形を見たからです」
「はい」
「頬に、影が入っておりました。彫り忘れではないかと先方が言うので、検分いたしました。彫り忘れではありませんでした。あれは、入れたものです」
「はい」
「彫った者に会ってみたいと思いました。——それだけです」
「それだけ、でございますか」
彼は湯呑みを置いた。
「いえ」
◇
「私の見合い人形も、盛られていました」
わたしは顔を上げた。
「二十四のときです。相手は北の伯爵家のご息女で、話はほとんど決まっておりました」
彼の口調は変わらなかった。事務の報告をする調子のまま続けた。
「贈った人形は、私の乳母が手配したものです。乳母は私を可愛がってくれた人で、彫り手にこう言ったそうです。——この子は、痩せて見えると気の弱そうに見えるから、少し肩を厚く」
「……」
「実際の私は、その頃、いまより痩せておりました」
彼は自分の肩を、片手で軽く押さえた。
「先方は人形を見て、承知なさいました。会って、それから、断ってこられました」
「なんと」
「思っていた方と違う、と」
湯気が、二つの湯呑みから上がっていた。
「乳母は、私のためにやったのです。それは間違いありません。あの人は、私が断られると思ったから厚くした。厚くしたから断られた。——そういう順番でした」
「……」
「盛るのは、たいてい善意です。悪意で盛る者は、そう多くありません」
わたしは、その言葉を聞いていた。
ヴィオラも、ケルナー夫人も、ハイデマリーさまも、ブラントさんも、そうだった。全員、誰かのためにやっていた。
「その乳母の方は」
「三年前に亡くなりました。最後まで、自分のしたことは知りません。私が言わなかったので」
彼は湯呑みを取って、一口だけ飲んだ。
「これが、私が制度の話をするときに、いつも思い出すものです」
◇
わたしは彼の顔を見ていた。
眉の骨が高く、目の位置が深い。今日は西日が横から入っているので、影が片側に寄っている。二十四の頃は、これでもっと痩せていたという。
そうすると、この骨は、そのとき相当はっきり出ていたはずだ。
「痩せておいでのほうが、たぶん良い顔でした」
言ってから、また言ってしまったと思った。
アーベルさまは湯呑みを持ったまま、動きを止めた。
「……そういうことを、いつも仰るのですか」
「いいえ。あなたさまにだけです」
「それは、どういう」
「骨のことばかり考えておりますと、たいていの方はお困りになります。困らない方には、言ってしまいます」
彼は湯呑みを置いて、口元を手で覆った。
覆った手の隙間から、息が漏れた。笑っている。
「困っておりますよ」
「そうは見えません」
「見えないように、訓練を受けております」
◇
帰りぎわ、彼は籠を持ち上げた。
持ち上げてから、思い出したようにこちらを向いた。
「ひとつ、申し上げておくことがありました」
「はい」
「典礼院には、婚姻簿のほかに、彫り手の名簿がございます」
わたしは戸に手をかけたまま、止まった。
「見合い人形を扱う工房は、届け出をいたします。届け出があった工房の名と、当主の名が載っております。……古いものも残っております」
「……」
「ヴェルクマイスターの名を、私は見たことがあります」
彼は籠を持ち直した。
「七年前で切れておりました。ただ、切れ方が普通ではありません。ふつう、廃業は届け出で消えます。あの名は、届け出ではなく——除名で消えております」
「除名」
「はい。理由の欄がございます」
わたしは、その先を聞かなかった。
聞かなかったのは、聞きたくなかったからではない。聞いてしまうと、今日ここで、それを聞いた顔をしなければならなくなるからだ。
アーベルさまも、それ以上は言わなかった。
彼は籠を提げて、灰通りを歩いて帰っていった。今日も馬車の音はしなかった。
【今日の彫りおぼえ】盛るのは、たいてい善意である。悪意で盛る者は、そう多くない。
お読みいただきありがとうございます。
盛ってくれた人が悪人だったことは、この話の中では一度もありません。母親も、乳母も、姉も、みんな誰かを守ろうとして寸法を変えています。それでも、変えた寸法は必ずどこかで見つかります。
次話——七年前の帳面を、開けます。焼け残ったぶんだけ。




