第15話 はじめての顔
帳面は、棚のいちばん上に横に寝かせてあった。
二十冊ある。一冊が一年ぶんではない。母は紙が尽きるまで書き続ける人だったので、厚い年と薄い年が混ざっている。表紙に年は書いていない。書いてあるのは、最初の客の名前だけだ。
わたしは脚立に乗って、上から順に下ろした。紙は湿気を吸って波打っている。開くと、古い糊の匂いがした。
母の字は、わたしより角が丸い。人の名前だけは楷書で書いて、あとは崩す。崩した部分には、顔のことが書いてある。
——右の眉、外側だけ濃い。
——笑うと下の歯が先に見える。
——鼻の下、短い。子どもの頃の写しがそのまま残っている。
注文の記録ではない。顔の記録だ。
母は、彫った顔を全部ここに書いていた。
◇
二十年前ぶんは、下から三冊目にあった。
ニナの母の名は、聞いていない。だから、その年ぶんの女の名前を全部見た。四十七人いた。
そのうち、一人だけ、書き込みが長かった。
——ヨハンナ。灰通り西の縫い子。左の頬に浅いえくぼ。ただし笑ったときだけ出る。出さずに彫ると別人になる。えくぼを彫ると、正面から見て顔が歪む。三度彫り直した。四度目で、えくぼの底を浅くして、縁を深くしたら通った。
その下に、もう一行あった。
——本人は「地味に彫ってくれ」と言った。断った。
◇
「ニナ」
「はい」
「お母さまのお名前は、ヨハンナさまですか」
ニナは、豆を選っていた手を止めた。
止めたまま、こちらを見なかった。
「……なんで」
「帳面に、ございました」
わたしは帳面を台の上に開いて置いた。ニナは近づいてこない。二歩ぶんだけ離れたところから、首を伸ばして見た。
それから、近づいた。
字を追う目の動きが遅い。読み書きは覚えているが、崩した字は読み慣れていない。わたしは声に出して読んだ。えくぼのことも、三度彫り直したことも、四度目で通ったことも。
最後の一行のところで、ニナが「もう一回」と言った。
「本人は『地味に彫ってくれ』と言った。断った」
ニナは、帳面の紙を指で押さえた。
押さえた指が、白くなっていた。
◇
「あの」
「はい」
「わたし、十二のときに家を出たって言いましたよね」
「うかがいました」
「あれ、家を出たんじゃないです」
ニナは帳面から手を離さなかった。
「口入れ屋に、預けられたんです」
わたしは何も言わなかった。
「それ自体は、そんなに珍しくないです。この通りでも、何人かいます。……ただ、その口入れ屋が、人形を作ったんですよ」
「人形を」
「はい。売り先に見せるやつです。見合い人形の真似ごとみたいなの」
ニナの声は、平らだった。平らにしようとしている声だった。
「わたしの顔で作ったやつなんですけど、ぜんぜん似てなくて。目が大きくて、顎が細くて、綺麗でした。すごく」
「……」
「見たとき、わかったんです。あ、わたしの顔は要らないんだなって。要るのは、この人形の顔のほうなんだって」
彼女は、そこで初めてこちらを見た。
「だから、顔だけは彫らないんです。木は好きです。でも、顔は、彫ったら、その人の顔を要らないものにできちゃうので」
◇
わたしは、しばらく何も言わなかった。
言えることが、二つあった。ひとつは「それは彫った人が悪い」で、もうひとつは「あなたが彫れば違う」だ。どちらも正しいが、どちらも、いま言えば嘘になる。
わたしは棚から荒彫りの一体を取って、台に置いた。
ニナが胴を彫ったものだ。面がそろっていて、迷いがない。首から上だけが、まだ四角い塊のまま残っている。
「ニナ」
「なんですか」
「この方は、パン屋のマルタさまです」
「……知ってます。並んでた人ですよね」
「はい。左の目のほうが、右より少しだけ下にあります。生まれつきです」
わたしは自分の目の下を指で押さえて見せた。
「そのままにすると、人形が傾いて見えます。そろえると、別人になります」
「……どうするんですか」
「そろえません。傾いて見えないように、髪の分け目を左へ寄せます」
ニナは、四角い塊を見た。
「わたしは、目を彫りません。目は最後です」
わたしは刃を一本、台の上に置いた。母の刃ではない。ニナが二週間使っている、細身の安いほうだ。
「顎の下の、この線だけ、引いてくださいますか」
「……顔じゃないですか」
「顎です」
「顔ですよ」
「顎です」
ニナは刃を見た。
それから、わたしを見た。
「……ずるくないですか、その言い方」
「はい」
◇
彼女が刃を持つまでに、四半刻かかった。
持ってから、木に当てるまでに、もう四半刻かかった。
当ててからは、早かった。
顎の下の線は、指の腹ひとつぶんもない。刃を寝かせて、木の目に沿って、重さだけで引く。押さない。ニナは押さなかった。教えていないのに、押さなかった。
一度引いて、止まって、木を回して、また引いた。
三度目で、線が通った。
顎の角が落ちて、そこに影が入った。四角い塊が、そこだけ人の形になった。
ニナは刃を置いて、両手を膝に置いた。
それから、木のほうを見ないで、こう言った。
「……この人、笑いますかね」
「マルタさまですか」
「はい」
「笑います。よく笑う方です」
「そうですか」
ニナは、まだ木を見なかった。
わたしは木を回して、影の入り方を確かめた。
顎の角が落ちたことで、首との境ができた。境ができると、顔は顔として立ち上がる。それまでは塊の上のほうでしかなかったものが、こちらを向く。
線は、まっすぐではなかった。三度に分けて引いたので、二か所にわずかな段がある。段は、あとで砥いで均せる。均さないほうがいい場合もある。
わたしは均さないことにした。
「ニナ」
「はい」
「この線、少し段があります」
「……直しますか」
「直しません」
「なんでですか」
「マルタさまの顎は、まっすぐではありませんので」
ニナが、ようやく木のほうを見た。
見て、それから、また目をそらした。そらし方が、恥ずかしいときのそらし方だった。
◇
戸が鳴ったのは、そのときだった。
開けると、あの人が立っていた。今日は籠を持っていない。上着も違う。仕立てはやはり細かいが、色が濃い。
「先日は、ごちそうさまでした」
「持っていらしたのは、あなたさまです」
「そう言われると弱いですね」
彼は土間に入った。奥のニナのほうを、ちらりと見た。
ニナが立ち上がった。台を回って、こちらへ来た。目が赤い。赤いまま、彼の前に立った。
「あの」
「はい」
「あなた、典礼院の方ですよね」
彼の目が、わずかに動いた。
「袖の内側の留め具、見ました。皿を洗って戻ってきたときに」
「……よく見ていらっしゃる」
「見てます。この通りで二年暮らしたので」
彼は、わたしのほうを見た。
わたしは何も言わなかった。言うことがなかった。
彼は上着の袖を、初めて自分で少し上げた。銀の輪に、天秤とも鍵ともつかない意匠。上部に三本の縦線。
「アーベル・グラーフと申します。王室典礼院、検分方」
◇
「名乗らなかったのは、非礼でした」
「いえ」
「名乗ると、こちらへ来た理由を説明しなければならなくなりますので」
「では、いま説明なさいますか」
「はい」
アーベルさまは、上着の袖を戻した。
「典礼院は、来月から見合い人形の検分を厳しくいたします。割れ・反り・寸法違いが出た人形は、贈った家の責めとする。これはもう通達を出しました」
「うかがっております」
「そのうえで、いま、ひとつの家の人形を遡って調べております」
彼は、そこで一度言葉を切った。
「メルツ公爵家です。過去五年ぶん、贈られた先の家から人形を借り受けて、検分いたします」
わたしは、手を膝の上に置いた。
置いた指が、少しだけ冷たかった。
五年ぶん。三年半は、その中に入る。
「借り受けは、もう始まっております」
【今日の彫りおぼえ】そろえない。そろえると別人になる。傾いて見えないほうを、別のところで作る。
お読みいただきありがとうございます。
彫れない理由を持っている人に「彫ってごらん」と言うのは、たいてい乱暴なことです。うちの主人公は顎だと言い張りましたが、あれは顔です。本人もわかっていて言っています。
次話——典礼院の検分方が、ご自分の見合い人形の話をなさいます。




