第14話 名前を呼ばれました
馬車の音はしなかった。
灰通りは石畳ではないので、車輪が入れば必ず聞こえる。轍の音も、馬の脚が土を掴む音も。ヴィオラのときは、通りの端に止まった時点で分かった。
今夜は、何も聞こえなかった。
つまりこの人は、どこか手前で降りて、歩いてここまで来た。公爵家の次男が、灰通りを歩いて。上着の裾に泥が跳ねていた。膝の高さまで。この通りは川に近いので、日が落ちると土が湿る。
わたしは戸を大きく開けなかった。半分だけ開けて、そのまま立っていた。
「久しぶりだな、リディア」
もう一度、そう言われた。
三年半のあいだ、この人がわたしを呼んだ呼び方は三つある。「おい」と、「お前」と、あとは呼ばずに用件だけを言う言い方だ。三つ目がいちばん多かった。
名前は、一度もなかった。
◇
「お入りになりますか」
「いいのか」
「土間まででしたら」
エルンストは、土間で足を止めた。
顔を見た。頬の骨が高く、目の周りの窪みが深い。彫るなら影の出やすい顔で、これは三年半前から変わらない。変わったのは、その窪みに溜まっている影の量だ。
眠っていない顔だった。
それも、二日や三日ではない。目の下の皮膚が張りを失って、たるみ始めている。この落ち方は、ひと月では出ない。
「元気そうだな」
「はい」
「痩せたか」
「いいえ」
彼は何か言おうとして、やめた。
わたしは作業台へ戻って、続きをはじめた。荒彫りの途中の胴が三つある。ニナがやったものだ。面の出し方が日に日によくなっている。手の付け根のあたりだけ、まだ迷いが出る。
刃を入れた。
「……仕事中か」
「はい」
「そうか」
彼は土間に立ったまま、動かなかった。
三年半、この人は屋敷でもよくこうしていた。廊下で、扉の外で、作業部屋の入口で。入ってこないし、帰りもしない。用があるなら言えばいいのに、言うまでにひどく時間がかかる人だった。
わたしは、その時間をいつも待っていた。
待たなくてよくなったのは、離縁してからだ。
◇
屋敷の作業部屋は、北向きの八畳ほどの部屋だった。
窓が高いところに一つあって、午後の二刻だけ、壁の上のほうに光が入る。その光が壁を伝って下りてくる速さで、わたしは時間を計っていた。梁の継ぎ目まで下りたら、目を彫る。床板の三枚目まで来たら、その日は終わり。
鐘は聞こえた。だが、鐘で仕事をやめると、途中で刃を抜くことになる。木は途中で置くと、置いた形で乾く。
三年半で二十七体。ならすと、ひと月に半分と少しだ。多いほうだと言ったが、これは彫る仕事だけの数で、実際にはそのあいだに直しと手入れがある。他所から戻ってきた人形の反りを取ったり、目を入れ直したり。
それも全部、あの部屋でやった。
部屋を出るのは、食事と、月に一度の教会と、あとは材が届いた日に裏門まで受け取りに行くときだけだった。裏門はグレゴールが開けてくれた。雨の日は、敷石の水が掃いてあった。
三年半のあいだに、わたしが名前で呼ばれたのは、その裏門でだけだ。
——奥さま、材が届いております。
奥さま、は名前ではない。だが、あれがいちばん名前に近かった。
◇
「メルツ家の縁談が、止まっている」
ようやく、彼はそう言った。
「さようでございますか」
「ゼルテンの件のあと、四つの家から預けていた人形を返してほしいと言ってきた。まだ贈っていないものもだ。——検分したい、と」
「はい」
「典礼院が、来月から人形の検分を厳しくすると通達を出した。割れや反りが出た人形は、贈った家の責任になる」
刃の音が、少し高くなった。木の目に当たったからだ。角度を寝かせて、また引いた。
「それは、よい通達かと存じます」
「よくない」
エルンストの声が、初めて強くなった。
「うちは、ひと月に三体は出している家だ。それが止まれば、縁組を待っている家が困る。困った家は、別の工房を探す」
「はい」
「探した先で、うちの人形が割れた話を聞く」
「はい、と申し上げるほかございません」
わたしは手を止めなかった。
止めると、彼はまた黙る。黙られると、話が終わらない。
◇
「リディア」
「はい」
「戻ってきてくれとは、言わない」
わたしは刃を置いた。
置いたのは、驚いたからではない。この人が「言わない」と前置きするときは、たいていそのあとで言うからだ。
「言わないが、うちの人形を、月に三体だけ見てほしい」
「見る、と申しますと」
「彫らなくていい。仕上がったものを見て、割れそうなところを教えてくれるだけでいい。それなら、外の工房に頼んだことにはならない」
「なりません、とお思いですか」
「……」
「わたくしの名は、婚姻簿から抹消されております。抹消された者が見た人形は、どなたが彫ったことになりますか」
エルンストは答えなかった。
彼は答えられないことを聞かれると、少しだけ顎を引く。三年半、何度も見た。
「金は払う」
「はい」
「言い値でいい」
「はい」
「……何だ、その返事は」
わたしは布を取って、刃を拭いた。
母の刃だ。三本は研いで戻した。一本は、まだ戻していない。刃筋の波を落とすと細身でなくなるので、どうするか決めかねている。
「お客様ですか」
エルンストが顔を上げた。
「なに」
「ご注文でいらしたのなら、うかがいます。灰通りの工房は、どなたのご注文でもお受けいたします」
「……客じゃない」
「では、どのようなご用件でしょう」
彼は口を開けた。
その形のまま、しばらく何も出てこなかった。
◇
わたしは、そのあいだに三つ目の胴の面を出し終えた。
ニナが迷った手の付け根を、上から二回だけ引いて直した。この直し方は教えていない。教えると、次から自分でやらなくなる。
「昔から、そうだった」
エルンストがそう言った。
「何がでございましょう」
「お前は、俺が黙っているあいだ、ずっと何かしていた」
「はい」
「俺は、それを見ていた」
「はい」
「……見ていたんだ」
わたしは顔を上げた。
この人は、いま初めて、自分にとって都合の悪いことを言った気がする。見ていた、というのは、声をかけなかったという意味だ。
三年半、同じ屋敷にいて、同じ廊下を通って、同じ作業部屋の前で立ち止まって、それで一度も名前を呼ばなかった。
呼ばなかったのではない。呼ばずにいられたのだ。
「エルンストさま」
「なんだ」
「先ほど、わたくしの名を二度お呼びになりました」
彼の肩が、動いた。
「今日で三度目になります。三年半と、今日を合わせて」
◇
彼はしばらく立っていた。
それから、上着の内側から封を出して、台の端に置いた。公爵家の封蝋だ。中身は見なくても分かる。あの家は、口で頼めなかったことを必ず書面にする。
「返事は、いつでもいい」
「はい」
「……父が」
彼はそこで止まって、言い直した。
「父が、お前を呼び戻せと言っている」
わたしは封を見た。
蝋の押し方が浅い。急いで押したか、押した人の手が弱い。ヘルマン・メルツの押す封蝋は、いつも縁まで均一に潰れている。あの人は、こういうところを他人に任せない。
「かしこまりました」
「読むのか」
「読みます」
「……そうか」
エルンストは戸のところで一度止まって、こちらを見た。
言いかけて、やめた。
やめたあと、彼は泥のついた裾のまま、歩いて帰っていった。馬車の音は、やはり聞こえなかった。
◇
封を切ったのは、朝になってからだった。
中の紙は一枚きりで、文面は四行しかない。
当家の人形を、以前のとおり彫ること。工房はこのままでよい。報酬は望みのままとする。
最後の一行だけ、わたしは二度読んだ。
——名は、要らぬな。
【今日の彫りおぼえ】弟子の迷いは、上から二回引いて直す。三回引くと、次から自分で直さなくなる。
お読みいただきありがとうございます。
黙っている人を待っているあいだ、こちらは何かしています。待っている側は待っているつもりですが、見ている側からは「いつも何かしていた人」に見えるようです。同じ三年半でも、二人で数え方が違います。
次話——うちの見習いが、初めて人の顔に刃を入れます。




