第13話 戸口に立つ人
二度目の馬車は、前より静かに止まった。
御者は切り返しをしなかった。通りの手前で降りて、馬の口を取って歩いて入ってきた。車輪の外側も拭いていない。泥がついたままだ。
ヴィオラは、侍女を連れていなかった。
戸を開けて、入ってきて、そのまま土間の真ん中に立った。前は板の間に上がらなかったが、今日は上がろうともしなかった。上がらないのではなく、そこまでしか歩けなかったように見えた。
髪は結っている。ただ、耳の上の細い編みが崩れていた。朝に結って、そのまま何時間か経った髪だ。
「お義姉さま」
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませ、じゃないでしょう」
声が高い。前に来たときの、笑いながら喋る高さとは違う。喉の上のほうだけで出している声だった。
「王都じゅうが、何を言っているかご存じ?」
「存じません」
「嘘」
ヴィオラは一歩前に出た。板の間の縁に、爪先が当たった。
「三年半のあいだ、あの家の人形を彫っていたのは誰なのか、って。みんなそう言ってるのよ。みんな。お茶会でも、教会でも、道端でも」
わたしは道具の手を止めなかった。止めると、話が長くなる。
「お義姉さまが言って回ったんでしょう」
「いいえ」
「じゃあ誰が」
「割れた人形が、でしょうね」
◇
ヴィオラは、革の巻きを台の上に置いた。
置くというより、落とした。留めの紐がほどけて、中の刃が半分こぼれ出た。四本。前に見たときより、刃先の欠けが広がっている。
「お返しします」
「……」
「こんなもの、要りません」
わたしは巻きを引き寄せて、こぼれた刃を戻した。順番がある。細いものから太いものへ、峰を同じ側に向けて並べる。母がそう並べていたので、そう並べる。
一本ずつ、刃先を見た。
「三本は、研げば戻ります」
「……」
「一本は、戻りません。刃筋が波打っております。研ぐと、波の谷のところまで全部落とすことになりますので、そうすると細身ではなくなります」
「そんなこと聞いておりませんわ」
「はい」
わたしは巻きを閉じて、紐を結んだ。
結び方も、母のやり方をそのままやっている。二重に回して、端を内側へ入れる。ほどけないが、片手ですぐほどける。
「ありがとうございました」
ヴィオラが、そこで初めて言葉に詰まった。
「……お礼を言われる筋合いは」
「刃は、返していただかなければ戻ってきませんので」
◇
「なぜ、割れたんですの」
彼女はそう聞いた。
聞き方が、それまでと違った。責めるためではなく、本当に分からないから聞く人の聞き方だった。
「頬を落とされましたね」
「……ええ」
「どのくらい」
「……分かりません。細く見えるまで」
「厚みは、測られましたか」
「測る?」
ヴィオラの顔が、少し動いた。
「木は、削った側から乾きます。薄いところは早く、厚いところは遅く乾きます。乾く速さが違うと、内側で引っぱり合って、弱いほうから裂けます」
わたしは自分の親指と人差し指を、少しだけ開いて見せた。
「見合い人形の頬は、いちばん薄いところでも、これだけ残します」
「……そんなこと、誰も」
「はい。誰も申し上げなかったと思います」
ヴィオラは自分の手を見た。
右手の親指の付け根に、赤いところがあった。刃を押すときにできる。母の手にはなかった場所だ。
「あなたの手は、悪くありません」
彼女が顔を上げた。
「……は?」
「刃を押しておいでです。押して彫ると、力が要りますので、木に負けます。四本ともこぼれているのは、四本とも同じ持ち方をなさったからです」
「……」
「引けば、こぼれません。ただ、引く彫り方は、教わらないと分かりません」
わたしは巻きを台の端へ寄せた。
「教わる相手が、あのお屋敷にいなかっただけです」
◇
ヴィオラは、しばらく何も言わなかった。
言い返す言葉を探している顔ではなかった。探しても出てこないことに、自分で気づいていく顔だった。
わたしは、その顔を見ていた。
三年半、この人はわたしを人形みたいだと言った。気味が悪いとも言った。母の刃を家財だと言って持っていった。そのどれも、悪意でやったことではないのだと思う。悪意には準備がいる。この人には準備がない。
「……お義姉さまは」
ヴィオラが、床を見たまま言った。
「わたくしが、下手だと思っていらしたの」
「いいえ」
「嘘」
「知らないだけだと思っておりました。それは、下手とは違います」
「同じことでしょう」
「違います」
わたしは台を拭いた。
「下手は、直りません。知らないのは、直ります」
ヴィオラは、そこで顔を上げた。
何か言いかけて、口を閉じた。
この人が今日ここへ来るまでに、何を言われたのかは想像がつく。あの家は、失敗した者を責めない。責める代わりに、次から任せない。三年半、わたしがそうされていたのと同じやり方だ。誰も声を荒らげず、ただ、仕事の話が回ってこなくなる。
彼女は、たぶん昨日から誰とも口をきいていない。髪が崩れているのは、朝に結ってから鏡を見ていないからだ。
それでも、この人は馬車の車輪を拭かせずに、灰通りまで来た。
「……失礼いたします」
ヴィオラはそう言って、来たときと同じ足取りで、出ていった。
最後の一言は、ここへ来て初めて出た敬語だった。
戸は、閉めなかった。
◇
しばらく、誰も何も言わなかった。
ニナが奥から出てきて、開いたままの戸を閉めた。閉めて、そこにもたれた。
「……あの人、次は泣きますよ」
「そうでしょうか」
「泣きます。ああいう人は、家に帰ってから泣きます」
ニナは戸にもたれたまま、天井を見た。
「あの、わたし、言ってないことがあるんですけど」
「はい」
「初日に、ここの人形を見たことがあるって言ったの、覚えてますか」
「覚えております」
「あれ、近所の人じゃないです」
ニナは、天井を見たままだった。
「うちの母です」
わたしは手を止めた。
「母の見合い人形、ここで彫ってもらったんです。二十年くらい前に。……ぜんぜん綺麗じゃなくて、変な人形だなって、子どもの頃ずっと思ってました」
「……」
「母は、その人形の顔で嫁に行って、いまも同じ顔で笑ってます」
ニナは、そこで初めてこちらを見た。
「けど、うちは貧しくて、わたしは十二のときに家を出ました。出るとき、母が『あの店の人が、あんたの顔も彫ってくれるといい』って言ったんです」
「そうですか」
「だから、雨の日にここに入ったの、たまたまじゃないです」
わたしは布を置いた。
二年、この子はここにいた。誰も来ない工房で、床を直し、薪を割り、水甕を満たしていた。
「ニナ」
「なんですか」
「お母さまのお名前を、うかがってもよろしいですか」
「……なんでですか」
「帳面が残っております。二十年ぶんの」
ニナの口が、開いた。
◇
そのとき、戸が鳴った。
ニナがまだ何か言おうとしていたので、わたしが行った。
開けると、外はもう暗くなっていた。
立っていたのは、女ではなかった。背の高い男が一人、灯りを背にして立っている。顔は影になっていて、輪郭だけが見えた。
頬の骨が高く、目の周りの窪みが深い。
彫るなら影の出やすい、いい顔だ。
「久しぶりだな、リディア」
【今日の彫りおぼえ】刃筋の波は研いで消せない。谷まで落とすと、それはもう別の刃になる。
お読みいただきありがとうございます。
下手と、知らないは違います。前者は本人の問題ですが、後者は教える人がいなかったという話になるので、責める先が変わります。うちの主人公は、いちばん残酷な言い方を選んだわけではありません。ただ、いちばん正確な言い方を選ぶ人ではあります。
次話——三年半のあいだ、この人はわたしを一度も名前で呼びませんでした。




