第12話 三人分の食卓
注文が七件になった週、わたしたちは食事をしなくなった。
しないと決めたわけではない。豆を煮る時間に木を削っていたら、いつのまにか日が暮れていた、という日が四日続いただけだ。四日目の夜に、ニナが台所から声を上げた。
「あの、豆、芽が出てます」
「煮れば同じです」
「同じじゃないですよ。豆から芽が出るまで放っておく家、この通りにうちだけですよ」
ニナは芽の出た豆を一粒つまんで、灯りにかざした。
「見てください、これ。生きてます」
「では、埋めましょう」
「そういう話じゃないです」
◇
その男が来たのは、翌日の夕方だった。
前と同じで、扉が開いた音がしてから、しばらく誰も入ってこない。行ってみると、土間に立って、棚を見上げていた。今日も顎を上げていない。目だけを動かしている。
両手に、布をかけた籠を提げていた。
「先日はどうも」
「いらっしゃいませ」
「注文ではありません」
「存じております」
男は籠を土間の端に置いた。布をめくると、パンが四つと、腸詰めと、卵が六つ入っていた。それから、油紙に包んだ茶葉。
「差し入れです」
「……なぜ」
「灰通りの工房が、四日ぶん食事をしていないと聞きましたので」
「どちらでお聞きに」
「向かいの金物屋の主人が、桶を洗いながら教えてくれました」
わたしは、ハウザーさんの三言について、少し考え直す必要があると思った。
◇
ニナが奥から出てきて、籠を見て、それから男を見た。
「誰ですか」
「存じません」
「え、二回目ですよね、この人」
「二回目です」
「二回来て名乗らない人、この通りだと借金取りですけど」
「ニナ」
「事実です」
男は気を悪くした様子もなく、籠から卵をひとつ取って、ニナに渡した。
「借金取りは、卵を持ってきません」
「持ってくる人もいます」
「そういう通りなのですか」
「そういう通りです」
ニナは卵を受け取って、それから、思い直したように男を睨んだ。睨みながら受け取っていた。
◇
結局、三人で食べることになった。
台を片づけて、木屑を払って、皿を三枚出した。皿は二枚しかなかったので、一枚は板を削って作った。作ったのはニナで、削り面が驚くほど平らだった。
「あなた、これ、どのくらいでやりましたか」
「ちょっとです」
「ちょっとが、どのくらいですか」
「豆が煮えるあいだです」
わたしはその板を持って、光にかざした。刃の跡がそろっている。押していない。引いている。
教えていない。
男が横から覗き込んだ。
「見習いの方ですか」
「はい」
「その方は、いつからこちらに」
「二年です」男より先にニナが答えた。「勝手に住んでました」
「なるほど」
「なるほどって何ですか」
ニナが腸詰めを切り分けながら、男を見た。切り方が乱暴だった。
「あなた、何の人なんですか」
「役人です」
「役人。どこの」
「王都の」
「それ、答えてませんよね」
男は、少し笑った。
この人は、聞かれたことに答えないときだけ、口の端が上がる。
◇
卓は、作業台を片づけて使った。
この台は母が作ったもので、天板が厚く、脚が太い。彫るための台なので、手をついても揺れない。揺れない台で食事をすると、皿の位置がずっと同じところにある。屋敷の食卓は磨いた樫で、美しかったが、少し脚が細かった。
灯りは二つ点けた。普段は一つしか点けない。油がもったいないからだが、三人だと一つでは足りない。
ニナが腸詰めを焼いた。焼きながら、途中で二度、卵の数を数え直していた。この子は食べ物を数える癖がある。二年ぶんの癖だ。
食事のあいだ、男はほとんど食べなかった。
パンをひとつだけ取って、あとは茶を飲んでいた。飲むときに、袖口が少し上がった。
その内側に、留め具が見えた。
小さな銀の輪に、天秤とも鍵とも見える意匠が彫ってある。上部に三本の縦線。三年半、公爵家で書状を見てきたので、家紋と役所の印の違いは分かる。あれは家のものではない。
典礼院の印だった。
この国の縁組を記録し、婚姻簿を管理し、見合い人形の検分を行う役所。わたしの名が婚姻簿から消されたのも、そこだ。
わたしは茶を注ぎ足した。何も言わなかった。
男も、袖を直さなかった。見られたことに気づいていて、直さなかったのだと思う。
◇
ニナが皿を下げに立ったとき、彼女がふと奥のほうを見た。
物置の扉は、片づけたあとも開けたままにしてある。中の物を出したので、いまはほとんど空だ。台がひとつと、その上に布のかかったものが残っているだけになった。
空になったぶん、それは前より目立つ。
「ねえ」
ニナが皿を持ったまま言った。
「あの布、まだ取らないんですか」
わたしは茶を飲んだ。
男が、こちらを見た。それから、ニナの視線の先を追って、物置のほうを見た。見て、すぐに目を戻した。見なかったふりの上手な人だ。
「ニナ」
「はい」
「お皿、二枚は井戸で洗ってください。ここでやると木屑が入ります」
ニナは口を開けて、閉じた。
それから、皿を持って出ていった。出ていく背中が、少し怒っていた。
◇
「よろしいのですか」
男が言った。
「何がでしょう」
「あの方、二度目でしょう。あれを聞くのは」
「三度目です」
「では、次は四度目ですね」
わたしは湯呑みを置いた。
「お答えになりたくないことは、答えなくてよいと思います」
男はそう言って、自分の湯呑みを両手で持った。
「ただ、答えないと決めた理由のほうは、いずれご自分で聞かれることになります」
「……」
「たいてい、いちばん都合の悪いときに」
わたしは彼を見た。
眉の骨が高く、目の位置が深い。鼻梁がまっすぐで、顎の角が張っていない。前に見たときと同じ顔だ。ただ、今日は灯りが下から当たっているので、影の落ち方が違う。目の下に、前は見えなかった線があった。
疲れている人の顔だ。それも、最近ではなく、何年か続いている。
「骨が、良いですね」
言ってから、しまったと思った。
男は湯呑みを持ったまま、動かなくなった。
「……失礼いたしました。職業柄でございます」
「いえ」
「彫りたくなる顔だと申し上げたかったのです。いま申し上げてもっと悪くなりました」
「いえ」
男はそこで初めて、笑ったというより、笑いをこらえる形の顔をした。こらえきれずに、少しだけ息が漏れた。
「そのように言われたのは、初めてです」
「たいていの方は言われないと思います」
「でしょうね」
彼は湯呑みを置いて、立ち上がった。
「ごちそうさまでした。——といっても、持ってきたのは私ですが」
「ありがとうございました」
男は籠を残して、出ていった。
籠は、土間に置いたままになっていた。
中には、まだパンが二つと、卵が五つと、茶葉の包みが残っている。持ち帰るつもりのない置き方だ。返しに行こうにも、名も所も知らない。
知らないことになっている、と言ったほうが正しい。袖の下の印は見た。あの印を持つ役所は、王都に一つしかない。
戸が閉まったあと、井戸のほうからニナが戻ってきた。皿を三枚とも洗って、拭いてある。
「行きました?」
「はい」
「あの人、何なんですか」
「役人だそうです」
「どこのですか」
わたしは籠に残っていた卵を数えた。六つのうち、五つ残っている。
「王都の、だそうです」
【今日の彫りおぼえ】板を平らに削れる者は、たいてい刃を押していない。教えなくても引いている手は、そう多くない。
お読みいただきありがとうございます。
差し入れを持ってくる人は、たいてい何かを見に来ています。今日のお客も、パンと腸詰めと卵を置いていきましたが、たぶん見ていったのは食卓ではありません。
次話——工房の戸口に、公爵家の馬車がもう一度止まります。今度は、二人乗っています。




