間章-17:皮肉な凪
ブラジリア、大統領府。
大統領・エドゥアルド・アルヴェスは、報告書を前に、複雑な表情を浮かべていた。
「......状況を、もう一度確認させてくれ」
「はい」
治安担当大臣が、慎重に言葉を選びながら答える。
「北部の歪みの一つ、通称『第三区画』ですが。三ヶ月前から、地元の犯罪組織――ファクサォンの一派が、実効支配している状態です」
「政府として、奪還は」
「試みましたが、地形と組織側の武装が、想定以上でした。現在、包囲はしていますが、強行突入はリスクが大きすぎると判断しています」
アルヴェスは、こめかみを押さえた。
自国の領域内に、無法の巣窟が存在する。
本来なら、断じて許容できない事態のはずだった。
「ですが、大統領」
大臣が、意外なことを付け加える。
「一つ、報告しておくべきことがあります」
「なんだ」
「あの区画が実効支配されて以降、サンパウロとリオでのデモが、目に見えて沈静化しています」
「......理由は」
「組織が、あの場所で得た素材や資金を、周辺のコミュニティに還流させているようです。仕事のなかった若者たちの多くが、あの組織の下で、非公式ながら、何らかの役割を得ています」
アルヴェスは、しばらく、言葉を発せなかった。
褒められた話ではない。
むしろ、国家として、恥じるべき状況だ。
だが。
「治安データは」
「殺人事件、強盗事件、双方とも、この三ヶ月で明確に減少しています」
皮肉な話だった。
国家が統制を失った場所が、結果として、社会の圧力弁のような役割を、意図せず果たしている。
「......褒められたものではないな」
「はい」
「だが、今この瞬間、国民の多くが、以前より穏やかに眠れているのも、また事実だ」
アルヴェスは、静かに目を閉じた。
理想論を語るのは簡単だ。
だが、今この国に必要なのは、理想ではなく、現実的な次の一手だった。
「他国の動きは」
「日本、アメリカ、韓国は、既に一般開放へ動き出しています。カナダ、ドイツ、フランス、イタリアも、慎重姿勢から一転、制度整備を急速に進めているとの情報です」
「......我が国だけが、取り残されるわけにはいかんな」
「大統領」
「聞け」
アルヴェスは、資料を閉じた。
「今、我が国に生まれた、この歪んだ凪を、無駄にはしない。この落ち着きがある間に、正式な制度の骨格を作る」
「あの区画については」
「引き続き包囲は継続する。だが、今は強硬な奪還より、対話の糸口を探ることも並行して検討しろ。あの組織の中にも、いずれ制度の枠組みに組み込める者がいるかもしれん」
「......大胆な判断ですね」
「理想的ではない。だが、この国には、理想を選べる余裕が、まだない」
アルヴェスは、窓の外を見た。
以前より、静かな空気が流れている。
それが、本当の平穏ではないことは、誰よりも自分が分かっていた。
だが。
「経済対策チームと、制度設計チームを、正式に統合しろ。この凪を、次の一歩に繋げる」
「かしこまりました」
簡単な道ではない。
綺麗事だけでは、この国は前に進めない。
それでも。
「......一歩ずつだ」
アルヴェスは、静かに呟いた。
窓の外、久しぶりに、穏やかな夕暮れが広がっていた。




