4-22:継がれた銘
霧の向こうから、ゆっくりと、人影が現れた。
「......夜桜さん」
声が、震えた。
見慣れた着物姿。
だが、額には、これまで見たことのない、二本の角が、はっきりと生えていた。
瞳の色も、いつもの穏やかな色ではなく、赤黒く、濁っている。
「......錬司、か」
声は、確かに、夜桜のものだった。
だが、その奥に、これまで聞いたことのない、獣のような唸りが、絶えず混じっている。
「その角......」
「見た通りじゃ」
夜桜は、苦しげに、笑おうとした。
「もう、隠しても、意味がなかろう」
配信のコメント欄が、静まり返っていた。
誰も、言葉を発せずにいる。
「わらわは」
夜桜が、ゆっくりと、口を開く。
一言、一言、絞り出すように。
「鬼族、じゃ。前に言うたであろう」
「......はい」
「わらわの、鬼族としての名は」
一拍。
その表情に、何か、耐えるような色が浮かんだ。
「酒呑童子、という」
その名前に、心臓が、大きく跳ねた。
昔話や、伝承の中で、何度も聞いたことのある名前だった。
「わらわは、モンスターじゃ」
「モンスター......」
「魔素によって、形作られた者。お主の刀と、根っこは同じ」
夜桜は、額の角に、そっと手を添えた。
「本来なら、隠しておるべきものであった。じゃが、今は、もう、抑えきれぬ」
「無理に、話さなくても」
「聞け」
夜桜の声が、鋭くなる。
「時間が、ない。わらわが、まともに話せるうちに、全て、伝えねばならぬ」
その気迫に、言葉を、呑み込んだ。
「わらわには、記憶がある。......平安の頃の、記憶じゃ」
「平安時代......」
「その頃、わらわは、既に、理性を失いかけておった。今のように、な」
夜桜は、遠くを見るような目で、続けた。
「そして、斬られた。童子切安綱、という刀でな」
その名前にも、覚えがあった。
日本刀の歴史の中で、最も有名な一振りの一つ。
天下五剣の一つに数えられる、あの、伝説の名刀。
「......斬られた、あなたが、なぜ、ここに」
「分からぬ」
夜桜は、静かに、首を振った。
「気づけば、この場所に、おった。それから、ずっと。何百年、何千年か、もはや、数えることすら、していなかった」
その言葉の重みに、言葉を失う。
あまりに、長すぎる、孤独な時間。
「じゃが」
夜桜の声が、少しだけ、和らいだ。
「その、童子切安綱には、話の続きがある」
「続き......」
「わらわを斬ったのは、刀そのものではない。それを振るった、一人の男じゃ」
夜桜は、目を閉じ、何かを、懐かしむように、微笑んだ。
「昔、桜の下で、共に酒を酌み交わした男がおった。刀を打つことに、全てを捧げておった、鍛冶師じゃ」
「その人が」
「うむ。わらわに、夜桜、という名を、くれたのも、その男じゃ」
胸の奥が、締め付けられるようだった。
「そして、わらわが理性を失った時。誰よりも、辛い顔をしながら、その男が、わらわを、斬った」
「......そんな」
「恨んではおらぬ」
夜桜は、はっきりと、言い切った。
「あれは、正しい選択じゃった。理性を失うたわらわを、止められるのは、あの男しか、おらなんだ」
声が、また、少し、獣のものに揺らぐ。
だが、夜桜は、必死に、それを、抑え込んでいた。
「その男の名は、大原安綱」
息が、止まった。
「童子切安綱を打った、刀匠、じゃ」
「......大原、安綱」
どこかで、聞いたことのある名前だった。
いや、聞いたことがあるどころではない。
日本刀の歴史を学ぶ者なら、誰もが知る、伝説的な刀匠の名前だった。
「そして、これが、最後に、伝えねばならぬことじゃ」
夜桜は、震える手を、こちらへ、まっすぐに、伸ばした。
「あの刀――童子切安綱には、本来の、銘があった。安綱が、自ら、打った時に、つけた名じゃ」
「......」
その名を、彼女の口から聞かなければ、信じなかっただろう。
「継刃」
その一言が、広間に、静かに、響いた。
「お主の刀と、同じ、銘じゃ」
全身が、震えた。
偶然だとは、到底、思えなかった。
だが、狙ってできることでも、ない。
佐伯と二人、あの時、視聴者と一緒に選んだ、あの名前。
それが、遥か昔、自分と同じように、理性を失った鬼を、斬るために打たれた刀の、本当の銘と、同じだったなんて。
「......偶然、なんですかね」
「さて、な」
夜桜は、苦しげに、それでも、優しく、微笑んだ。
「あるいは、これも、何かの、巡り合わせ、なのやもしれぬ」
その笑顔が、次の瞬間、大きく歪んだ。
「――っ、時間が」
夜桜が、頭を抱える。
「錬司」
「はい」
「聞け、これが、最後の、まともな頼みじゃ」
夜桜は、必死に、目に、理性の光を、留めようとしていた。
「今回の氾濫、その元凶は、わらわじゃ。淀んだ魔素を、この身に、溜め込みすぎた」
「......そんなの」
「言い訳は、聞かぬ」
夜桜は、はっきりと、遮った。
「わらわは、もう、まともに、己を、律しきれぬ。このまま、理性を失えば、あの日のように、多くの命を、脅かすことになる」
「でも」
「これは、命令ではない。頼みじゃ」
夜桜の目に、涙のようなものが、光った。
「錬司。お主の、修行の、卒業試験じゃ。わらわを、斬れ」
「......そんなこと、できるわけ」
「できる」
夜桜は、断言した。
「お主なら、できる。この二ヶ月、わらわが、見てきた。お主の、まっすぐな想いを」
「夜桜さん......」
「安綱の時と、同じじゃ」
夜桜の声が、震えながらも、確かな響きを、持っていた。
「あの男も、辛そうじゃった。じゃが、それでも、刀を、振るった。それが、正しいことだと、信じて」
「......できません。俺には、あなたを斬れない」
「時間は、もう、ない」
夜桜の瞳から、赤黒い色が、一気に、広がっていく。
「――わらわを、止めよ、錬司」
最後の、はっきりとした言葉。
その直後。
「ア、アアアアアアッ......!」
夜桜の体から、爆発的な、魔素の奔流が、噴き上がった。
優雅だった佇まいが、獣のような、荒々しい姿へと、変貌していく。
瞳から、完全に、理性の光が、消えていた。
『な、何が起きてるんだ......』
『夜桜さん、あの夜桜さんが......』
『刀オタクさん、どうする気だ』
コメント欄が、絶望的な、悲鳴に、埋め尽くされていく。
だが、自分は、それを、見る余裕すら、なかった。
目の前に、立つ。
かつて、優しく、時に厳しく、剣を、教えてくれた師匠。
平安の昔から、たった一人で、この場所に、囚われ続けてきた、孤独な存在。
そして、今、完全に、理性を失った、圧倒的な脅威。
頭が、追いつかなかった。
鬼族。
酒呑童子。
平安の昔から、この場所に囚われ続けてきた、途方もない時間。
そして、彼女自身が、今回の氾濫の元凶であるという事実。
その全てが、一度に押し寄せてきて、何から受け止めればいいのかさえ、分からなかった。
「斬れ、って言われても」
声が、掠れる。
継刃と結刃の柄に、手はかけていた。
だが、握る力は、入らない。
斬る覚悟なんて、まだ、どこにもなかった。
この二ヶ月、共に過ごしてきた時間が、頭の中を、ぐるぐると巡る。
毒舌に、酒に、悔しさに、笑い合った日々。
あれが、全部、今、目の前にいる、この獣のような姿と、同じ存在だったなんて。
「......っ」
考えがまとまらないまま、完全に理性を失った酒呑童子が、咆哮と共に、地を蹴った。
二十層に、これまでとは、比べ物にならない、激しい戦いの、幕が上がろうとしていた。




