4-19:予兆なき氾濫
「総理! 至急のご報告です!」
深夜、執務室に、慌ただしい足音と共に、職員が駆け込んできた。
九条恒一は、その声色だけで、事態の深刻さを悟った。
「なんだ」
「北海道の観測地点にて、多数の個体が、ダンジョン外――封鎖区域の境界を突破しました!」
「......なに」
九条は、思わず、立ち上がっていた。
「予兆は」
「ありませんでした。出現率の上昇、交戦報告の増加、いずれの兆候も、直前まで、一切観測されておりません」
職員の声は、震えていた。
「前回のような、段階的な予兆が、今回は、完全に欠如していました」
「規模は」
「現時点で、確認できているだけで、四十体以上。しかも、まだ増え続けています」
その数字に、会議室の空気が、凍りついた。
前回とは、規模が違う。
「現地の状況は」
「モニターに」
映像が、切り替わる。
夜の闇の中、封鎖区域の外周に設置された監視カメラの映像。
大小様々な影が、次から次へと、フェンスを突き破り、外へと躍り出ていた。
まるで、堰を切ったように。
「......これは」
九条の声が、掠れた。
「よし。緊急対応マニュアルを、直ちに、最大規模で発動しろ」
九条は、迷わず、命じた。
この一年半、幾度も見直し、改訂を重ねてきた、あのマニュアル。
「現地待機の探索者部隊は」
「相馬隊長率いる緊急対応班、既に出動しています。加えて、周辺地域及び全国から、招集可能な限りの民間探索者に、緊急動員をかけています」
「自衛隊は」
「近隣駐屯地から、可能な限りの部隊を、投入しています。それでも」
「それでも?」
「数が、多すぎます」
防衛担当の職員が、険しい表情で報告する。
「現状、投入できる全戦力を、外周の防衛線維持に、費やしている状況です」
「民間人への被害は」
「今のところ、ありません。避難誘導は、順調に進んでいます」
九条は、小さく、息を吐いた。
それだけが、唯一の救いだった。
「南くん、黒沢くん、見解は」
急遽招集された二人が、モニター越しに、映像を見つめていた。
「......今回の淀みが、前回とは比較にならないほど、濃密な魔素を、抱え込んでいたのだと思われます」
南が、険しい表情で言う。
「なぜ、予兆が現れなかったのか。そこに、何か、これまでとは違う要因があるはずです」
黒沢が、資料をめくりながら、続ける。
「あくまで仮説ですが。もし、淀みの中心にいる個体が、周囲の魔素を、独占するように吸収し続けていたとしたら」
「周囲への染み出しが、抑えられる、ということか」
「はい。予兆が現れないまま、内部で、限界を超えるまで、圧力が高まり続けた可能性があります」
九条は、目を閉じた。
もし、それが事実なら。
今、外に出てきている、この規模の個体たちでさえ、氾濫の、ほんの一部にすぎないのかもしれない。
夜通し、防衛線での戦闘が続いた。
相馬から、断続的に、状況報告が届く。
『こちら相馬。防衛線、なんとか維持しています。ですが、個体は、まだ、途切れなく出現しています』
「損耗は」
『負傷者、多数。ですが、後退は、していません』
東の空が、白み始める頃には、投入された探索者、自衛隊員のほぼ全てが、休みなく、戦闘を続けていた。
誰も、余力を持っていなかった。
「総理」
防衛担当の職員が、疲労の滲む声で、報告する。
「現時点で、外部への流出は、なんとか、防衛線内に、抑え込めています。ですが」
「ですが?」
「ダンジョン内部の状況調査、及び、原因となっている個体の討伐に、割ける戦力が、一切ありません」
その報告に、九条は、拳を強く握りしめた。
防衛には、成功している。
だが、根本の原因は、今も、あの門の奥で、静かに、力を蓄え続けている。
「投入可能な、追加戦力は」
「これ以上の招集は、現実的ではありません。既に、全国から、動かせる限りの人員を、投入しています」
九条は、資料を、強く見つめた。
防衛線を維持するだけで、精一杯。
誰一人として、あの門の奥へ、踏み込む余裕がない。
(このままでは)
防衛線は、いつまで持つのか。
根本を絶たない限り、この氾濫は、終わらない。
だが、それに立ち向かえる者が、今、この国には、誰もいない。
「総理、続報です」
職員の声に、九条は、顔を上げた。
「なんだ」
「防衛線周辺に、複数の民間探索者が、独自に駆けつけているとの報告があります。その中に――」
職員が、一瞬、言葉を切った。
「神崎錬司氏も、現地に到着した模様です」
九条の脳裏に、あの青年の顔が、浮かんだ。
そして、同時に、もう一つの顔も。
二十層の、あの謎めいた女性。
(彼女は、今――)
その先を、九条は、あえて、考えないようにした。
今は、ただ、目の前の、この国の防衛戦に、集中しなければならない。
「引き続き、防衛線の維持を、最優先とする。夜が明けても、警戒を、緩めるな」
「かしこまりました」
窓の外、東の空が、ゆっくりと、明るさを増していく。
だが、その光は、これまでの、どの朝とも違っていた。
この国にとって、最大の試練が、今、始まろうとしていた。




