第90話 王都組、帰還判断
緊急連絡が届いた時、行政庁の小会議室では、ローゼン侯爵家への限定調査命令に関する追加書類が作られていた。
黒塗り前の原本確認。
安全監視線。
ローゼン侯爵家技術顧問印。
黒石祠管理印との一致率九十七%。
その事実は、王都側の流れを大きく変えた。
クラウス個人の問題では済まない。
ローゼン侯爵家本体に調査の手が伸びる。
そこまで来て、ようやく王都の紙は重さを持ち始めた。
だが、紙が重くなるほど、遠く離れたリベル村の水が不安定になる。
それは、嫌なほど分かりやすい流れだった。
扉が叩かれ、ギルドの連絡員が駆け込んできた。
「リベル村から緊急文書です」
部屋の空気が変わった。
俺は立ち上がり、封書を受け取った。
封蝋はリベル村。
少し歪んでいる。
急いで押したのだろう。
開く前から、胸の奥が冷たくなった。
セリアたちが、緊急と判断した。
それだけで、軽い話ではない。
俺は文書を開いた。
ニコルの字だった。
いつもより筆圧が強い。
『緊急連絡。
黒石祠反応上昇。地域封鎖術式、微弱再起動。
旧水路下流で黒い濁り検知。上流薄い、中流少量、下流明確。畑側も微量。
中央井戸は現在ほぼ正常。東側浅井戸に微弱濁り。
ハルマ村井戸に同系統濁り。朝より昼に悪化。水量やや低下。
北沢集落は水温低下継続、水量やや低下。
ミード村井戸は大きな異常なし。ただし止血草試験種が乾き気味。
リベル村は黒石祠へ直接接触せず、井戸・水路・薬草予定地・治療所の保全を優先。
低濃度浄化水を用意。強い浄化および水量板操作は行っていません。
現地閲覧準備は継続中。腕輪原本、黒石祠外殻片の封印に異常なし。
王都組の判断を仰ぎます。
村はまだ崩れていません。ですが、黒石祠の反応は確実に強まっています』
読み終えた瞬間、ダリオが椅子を蹴るように立った。
「帰るぞ」
迷いはなかった。
「今すぐだ」
リーゼも立ち上がる。
「同意する。村が先だ」
ラウル査察官が手を上げた。
「待て。感情で動くな」
その声は鋭かったが、止めるためだけのものではなかった。
ダリオが振り返る。
「感情じゃない。現場判断だ。黒石祠が反応して、水路下流に濁りが出て、周辺村の井戸にも影響が出始めてる。これはもう王都の机で待つ段階じゃない」
「分かっている」
ラウルは低く答えた。
「だが、帰るなら帰るための記録と手順がいる。君たちが王都調査から逃げたと侯爵家に言わせる隙を作るな」
その一言で、ダリオは口を閉じた。
怒りより先に、今の言葉の意味が入ったのだろう。
オルブライトがすぐに紙を取り出した。
「帰還理由書を作成します。理由は、リベル村および周辺水脈における黒石祠反応上昇、地域封鎖術式再起動兆候、井戸水異常拡大。王都調査からの離脱ではなく、現地対応のための一時帰還です」
グレン副長も頷いた。
「騎士団側からも一筆出す。リーゼ・ヴァルトの異議申立手続きは、本人不在でも進める。彼女が王都から逃げたという扱いにはさせん」
リーゼの顔がわずかに動いた。
「よろしいのですか」
「当然だ」
グレン副長は即答した。
「君は騎士団に出頭していたわけではない。リベル村防衛役として王都に同行していた。村に危機が迫れば、防衛役として戻るのは自然だ」
リーゼは一度、深く息を吸った。
「感謝します」
「礼はいい。現地で役目を果たせ」
「はい」
ダリオは机に手をついた。
「原本確認は終わった。写しもある。ローゼン家への調査命令も出た。王都側で今すぐ俺たちがいないと止まる作業は?」
オルブライトが答える。
「限定調査命令の初期対応は行政庁と防衛局で進めます。原本写しの保管も完了。クラウス氏の聴取継続もこちらで可能です」
ラウルが続ける。
「ローゼン家がクラウス個人に押しつける動きは監視する。技師組合にも追加保全命令を出す。君たちが戻ること自体は、むしろ妥当だ」
俺は文書を見つめていた。
セリアの一文が目に残る。
『村はまだ崩れていません。ですが、黒石祠の反応は確実に強まっています』
まだ崩れていない。
それは、村が耐えているという意味だ。
セリア、トマ、ニコル、村長。
彼らは焦って森へ走らなかった。
井戸を守り、水路を記録し、薬草予定地を保全し、周辺村へ照会した。
俺たちがいなくても、村は動いている。
だからこそ、戻らなければならない。
今戻るのは、村が何もできないからではない。
村が踏みとどまっている間に、次の手を打つためだ。
「俺も帰ります」
俺は言った。
「王都側の記録は、写しと引き継ぎを残します。黒石祠と地域封鎖術式の現地対応には、中枢室と修復鑑定が必要です」
「そうなるでしょう」
オルブライトは頷いた。
「ただし、出発前に三点確認します」
彼はいつものように、淡々と指を折った。
「一、王都側で取得した資料写しの保全。二、リベル村へ持ち帰る写しの範囲。三、帰還中に侯爵家側が“証拠持ち逃げ”と主張しないための引き継ぎ記録」
ダリオが顔をしかめる。
「急いでる時でも紙か」
「急いでいる時ほど紙です」
オルブライトは即答した。
「今、雑に動けば、後で村が不利になります」
ダリオは反論しかけて、やめた。
「分かってる。分かってるから嫌なんだ」
リーゼが小さく言う。
「その言葉も、ずいぶん聞いたな」
「俺の持ち台詞になってきたな」
ほんの少しだけ笑いが起きた。
それで十分だった。
すぐに引き継ぎ作業が始まった。
机の上に、王都で得た写しが並べられる。
黒塗り前の施工補助図写し。
安全監視線記載頁。
使用者説明欄の空白。
施工者補助印。
ローゼン侯爵家技術顧問印。
旧水脈補助施設への応用注記。
クラウス聴取記録。
原本保管庫封印記録。
リーゼ異議申立書写し。
医務メモ写し。
受領簿削損記録。
リベル村へ持ち帰る写しは、最小限では済まなかった。
黒石祠の現地対応には、安全監視線と管理印同期の記述が必要になる。
腕輪原本現地閲覧にも、リーゼの異議申立書と医務メモが必要になる。
周辺村への説明には、ローゼン家技術顧問印までは見せない方がいいが、地域封鎖術式の危険性を説明する資料は必要だ。
紙束は厚くなった。
ダリオがそれを見て言う。
「重いな」
「馬車に積めます」
「そういう意味じゃない」
「分かっています」
俺は写しを封印箱へ入れた。
「でも、重くていいんです。軽い記録だと、また飛ばされます」
ダリオは少しだけ笑った。
「そうだな」
グレン副長はリーゼへ、別の封筒を渡した。
「これは、君の異議申立書受理証明だ。騎士団側で手続きを継続する。君がリベル村へ帰還する理由も添えてある」
リーゼは封筒を受け取った。
「ありがとうございます」
「それと、リベル村での腕輪現地閲覧は、日程を改める。今は水脈危機が優先だ」
「はい」
「腕輪原本は、引き続き村で保全してくれ」
「もちろんです」
グレン副長は少しだけ間を置いた。
「リーゼ」
「はい」
「リベル村を守れ」
その言葉は、命令ではなかった。
かつての上官としてではなく、今の彼女の役目を認める言葉だった。
リーゼはまっすぐ頷いた。
「守ります」
ラウルはダリオへ言った。
「現地で黒石祠に触る時は、無茶をするな」
「無理はするかもしれん」
「無茶はするな」
「最近、そればっかり言われる」
「言われる理由がある」
ダリオは肩をすくめた。
「分かった。炉の出力、接続点、術式根、全部見てからだ。焦って切らない」
「それを記録しておけ」
俺はすぐに書いた。
ダリオが嫌そうな顔をする。
「今のもか」
「今のもです」
「自分の発言で縛られるの、嫌だな」
「便利です」
「だろうな」
オルブライトは最後に、俺へ封書を渡した。
「リベル村村長宛の行政庁文書です。王都調査の現時点の進捗、原本確認結果、ローゼン家限定調査命令、そしてあなた方の一時帰還理由をまとめています」
「ありがとうございます」
「それから」
彼は少しだけ声を落とした。
「侯爵家は、リベル村が危機対応に失敗することを望んでいる可能性が高い。無理に完璧な成功を目指さないでください。まず、村を崩さないことです」
その言葉は、セリアが村で決めた方針と同じだった。
何を直すかではなく、何を守るか。
俺は頷いた。
「分かりました」
出発準備は慌ただしかった。
行政庁指定宿へ戻り、最低限の荷物をまとめる。
ダリオは工具箱を開き、中身を選び直した。
水脈棒。
測量針。
魔力遮断手袋。
石粉瓶。
封鎖術式根の観察具。
そして、何度も名前を書いた道具札。
「よく分からん棒は?」
俺が聞くと、ダリオは鼻で笑った。
「もう水脈棒だ」
「成長しましたね」
「棒がな」
リーゼは剣と防具を確認していた。
王都へ来る時より、動きが迷いなく見えた。
彼女は封筒を胸元に収める。
異議申立書受理証明。
過去を王都に置き去りにするのではなく、王都で動かし続けたまま、今の役目へ戻る。
それが、今回の帰還だった。
俺は書類箱を確認した。
王都で得た記録。
リベル村へ持ち帰る写し。
村長宛文書。
行政庁引き継ぎ証明。
ギルド経由の周辺村連絡案。
書類箱は重い。
だが、その重さが今は頼もしかった。
宿を出る前、ダリオが王都の窓を見た。
「まさか、こんな形で技師組合に戻って、こんな形で出ていくとはな」
「どういう気持ちですか」
俺が聞くと、彼は少し考えた。
「まだ、ぐちゃぐちゃだ」
「記録しますか」
「いや、今はいい。帰って豆の煮込みを食ってから考える」
リーゼが言う。
「豆の煮込みに頼りすぎではないか」
「リベル村の豆には、王都の紙より効くものがある」
「それは少し分かる」
馬車は行政庁前に用意されていた。
出発を見送りに、オルブライト、ラウル、グレン副長、ギルド記録官が来ていた。
王都へ来た時には、こんな見送りはなかった。
帰る時には、こちらに引き継ぐ者たちがいる。
それは少し不思議だった。
ラウルが言った。
「王都側は任せろ。侯爵家の調査、クラウスの処理、技師組合原本保全は継続する」
オルブライトも頷く。
「追加情報はギルド便で送ります。リベル村からの状況報告も、同じ経路で受けます」
グレン副長はリーゼを見た。
「記録修正手続きは止めない」
「お願いします」
「君も、村の記録を止めるな」
「はい」
ギルド記録官は俺へ小さな包みを渡した。
「セリアさん宛に、薬草用の乾燥布と小瓶です。少量ですが、役に立つかもしれません」
「ありがとうございます。喜ぶと思います」
ダリオが横から言う。
「豆は?」
「豆はありません」
「そうか……」
なぜか少し残念そうだった。
馬車が動き出す。
王都の石畳を車輪が叩く。
行政庁が遠ざかる。
技師組合の煙突が横へ流れる。
騎士団本部の塔が見える。
そして、城壁が近づく。
門を出る時、俺は振り返った。
王都は相変わらず大きい。
高い壁、白い石、眠らない灯り。
ここで得たものは多かった。
ダリオの原本。
リーゼの医務メモ。
安全監視線。
ローゼン家への調査命令。
だが、俺たちの帰る場所は、あの高い壁の中ではない。
水車の音がする村。
旧水路が畑へ細く流れる村。
傷洗い草の小さな芽が守られている村。
馬車の中で、ダリオが言った。
「証拠は取った」
リーゼが続ける。
「次は現場だ」
俺は書類箱に手を置いた。
中には、取り戻した記録が入っている。
だが、記録は持っているだけでは足りない。
流れを戻すために使わなければならない。
「記録は取り戻しました」
俺は言った。
「次は、流れを取り戻します」
馬車は王都を離れ、リベル村へ向かう街道へ入った。
空は曇っている。
遠くの森の方角に、重い雲がかかっていた。
黒石祠が眠りから浮かび上がっている。
水脈が停滞し始めている。
村はまだ崩れていない。
なら、間に合う。
間に合わせる。
王都の壁が背後へ遠ざかり、街道の土の匂いが濃くなる。
俺たちは、記録を抱えて帰っていく。
壊されたものが、壊されたまま終わらないことを証明するために。
そして、守ってくれている者たちのもとへ戻るために。




