表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

91/173

第91話 帰還、濁る水路

 リベル村へ戻る道は、王都へ向かった時よりも短く感じた。


 距離が縮んだわけではない。


 馬車の速度も、特別に速いわけではない。


 ただ、胸の奥が急いていた。


 王都で手に入れた記録箱は、膝の上に重く置かれている。


 安全監視線。

 黒塗り前の原本写し。

 ローゼン侯爵家技術顧問印。

 黒石祠管理印との一致率九十七%。

 リーゼの異議申立書受理証明。

 騎士団医務メモ。


 どれも大事な紙だ。


 けれど、紙は水を止めてはくれない。


 村に黒い濁りが出ている。


 ハルマ村の井戸にも同系統の濁り。

 北沢集落では水温低下と水量減少。

 ミード村では止血草の試験種が乾き気味。


 地域封鎖術式が、また動き始めている。


 馬車の中で、ダリオはずっと黙っていた。


 工具箱を足元に置き、膝の上で指を動かしている。図面を描いているわけではない。だが、頭の中では黒石祠の構造を何度も組み直しているのだろう。


 リーゼは窓の外を見ていた。


 王都を離れてから、彼女の肩から少しずつ力が抜けていくのが分かった。

 それでも、完全に楽になったわけではない。


 胸元には、騎士団の異議申立書受理証明が入っている。


 王都に過去を置いてきたのではない。


 過去を動かし始めたまま、今の場所へ戻っている。


「村が見えたら、まず何をする」


 リーゼが静かに聞いた。


 ダリオが即答する。


「水路を見る」


「祠ではなく?」


「祠へ行く前に、水の状態を見ないと駄目だ。黒石祠そのものを止めたい気持ちはある。でも、今いきなり森へ行くのは危ない」


 彼は工具箱を軽く叩いた。


「セリアたちの判断は正しい。まず井戸、水路、畑、薬草。現場の変化を見て、どこまで術式が伸びているか判断する」


「黒石祠へは」


「準備してからだ。炉の出力、浄化水、封鎖術式根の確認、撤退経路。全部いる」


 リーゼは頷いた。


「焦って踏み込まない、か」


「嫌になるくらいリベル村式だな」


 ダリオは苦笑した。


 俺は記録箱に手を置いたまま言った。


「村へ着いたら、まずセリアたちの記録を確認します。王都の資料と照合して、黒石祠の反応が安全監視線の応用注記とどう繋がるか見る必要があります」


「その後は?」


「中枢室で統合します」


 俺は窓の外を見た。


 王都から遠ざかるほど、空の広さが戻ってくる。


 それでも、遠くの森の方角には重い雲があった。


「ただ、今日はすぐ解除に入らない方がいいでしょう。村も不安定です。人手の配置、周辺村との連絡、証拠物の保全もあります」


 リーゼが言う。


「まず守る」


「はい」


 ダリオが短く笑った。


「王都であれだけ紙を集めて、戻って最初にやるのが“守る”か」


「一番大事です」


「分かってる。分かってるから、今日は文句を言わん」


「珍しいですね」


「王都で言いすぎた」


 その言葉に、リーゼが少し笑った。


 馬車が丘を越えると、リベル村の水車が見えた。


 胸が少し詰まる。


 水車は回っている。


 止まってはいない。


 それだけで、思っていた以上に安心した。


 だが、村の空気はいつもと違った。


 入口にはトマが立っていた。


 弓を持っている。

 ただし、警戒というより見張りの姿勢だった。


 俺たちの馬車を見つけた瞬間、彼は大きく手を振った。


「帰ってきた!」


 声が村の中へ走る。


 子供たちが顔を出し、村人たちが広場へ集まり始める。


 馬車が止まる前に、トマが駆け寄ってきた。


「先生! ダリオ! リーゼ!」


「水量板は動かしてないか」


 ダリオが馬車から降りるなり言った。


 トマは胸を張った。


「動かしてない!」


「本当か?」


「記録に残ってる!」


 ニコルが広場の机から顔を上げる。


「本当です。水量板操作なし。確認済みです」


 ダリオは真剣な顔で頷いた。


「偉い」


「そこまで言うか?」


「言う。水を勝手に動かさない奴は偉い」


 トマは照れたように顔をそらした。


「まあ、俺も成長してるからな」


 そのすぐ後ろから、セリアが来た。


 少し疲れた顔をしている。


 だが、倒れそうな様子ではない。


 手には採水記録表が抱えられていた。


「おかえりなさい」


 その一言に、俺は深く息を吐いた。


「ただいま戻りました」


 セリアはリーゼの顔を見ると、少しだけ表情を崩した。


「リーゼさん」


「ただいま」


 リーゼが短く言う。


 セリアは何か言いかけ、しかし人前だと思ったのか、一度言葉を飲み込んだ。


 その代わり、胸元に手を当てて言った。


「腕輪原本は無事です。封印も異常ありません」


 リーゼの目が揺れた。


「ありがとう」


「はい」


 たったそれだけだった。


 けれど、二人の間には王都から送った紙よりも濃いものが通った。


 村長が杖をついて現れた。


「よう戻った」


「遅くなりました」


「いや。間に合っておる」


 村長はそう言ってから、村の方を見た。


「まだ、崩れてはおらぬ」


 セリアが書いた文と同じだった。


 村はまだ崩れていない。


 それは、決して軽い言葉ではなかった。


 広場には、臨時の記録所ができていた。


 机の上には透明な瓶が並んでいる。


 札がついている。


『旧水路上流』

『旧水路中流』

『旧水路下流』

『畑側』

『中央井戸』

『東側浅井戸』

『ハルマ村井戸』

『北沢集落井戸』

『ミード村土壌』


 ニコルが緊張した顔で説明を始めた。


「時刻順に並べています。旧水路下流は、昨日の夕方から黒い粒子が増えています。今朝は少し落ち着きましたが、完全には消えていません。中央井戸はまだほぼ正常です。東側浅井戸は微弱濁り。ハルマ村井戸は昨日の昼が一番濃く、今朝は少し薄くなっています。北沢集落は水温低下が続いています」


 ダリオが瓶を一本ずつ見る。


 蓋を開けず、外から光に透かす。


「よく分けたな」


 ニコルの顔が少し赤くなる。


「セリアさんと村長に確認してもらいました」


「いや、これはいい仕事だ」


 ダリオは本気で言った。


「時刻も採取場所も採取者もある。比較できる」


 ニコルは嬉しそうに口を引き結んだ。


「ありがとうございます」


 俺は瓶を鑑定する。


《旧水路下流採水》

《状態:微細黒粒子混入》

《反応:封鎖術式残滓微弱》

《危険度:低〜中》

《推奨:水量操作禁止/濁り推移記録》


《ハルマ村井戸水》

《状態:濁り変動》

《反応:黒石祠由来残滓と一部一致》

《危険度:低〜中》

《推奨:飲用前煮沸/継続記録》


《北沢集落井戸水》

《状態:低温化継続》

《反応:水脈停滞影響》

《危険度:低》

《推奨:水量記録/水温記録》


「セリアたちの判断で正解です」


 俺は言った。


「旧水路下流とハルマ村井戸に、黒石祠由来と思われる残滓があります。ただし、まだ広範囲に危険というほどではありません。水量操作をしなかったのが良かった」


 トマが胸を張る。


「動かしてない!」


 ダリオが頷く。


「だから偉いと言った」


 セリアが小さく笑った。


 だが、すぐに顔を引き締める。


「黒石祠へは、まだ行っていません」


「それでいいです」


 俺は答えた。


「直接触れていたら、反動があったかもしれません」


 セリアは少しだけ肩の力を抜いた。


「よかった……」


 その言葉には、本音が滲んでいた。


 怖かったのだ。


 判断が正しいか分からないまま、村を守っていた。


 俺たちが王都で証拠を集めている間、彼女たちはここで判断を積み重ねていた。


「セリア」


 リーゼが言った。


「よく守ってくれた」


 セリアの目が潤んだ。


「まだ、何も解決していません」


「それでもだ」


 リーゼは静かに続けた。


「村は崩れていない。腕輪も、外殻片も、薬草の芽も、水路の記録も守られている。それは何もしていないのとは違う」


 セリアは俯きかけ、しかし踏みとどまった。


「はい」


 その返事は小さかったが、しっかりしていた。


 俺たちは、まず村長宅へ移動した。


 王都から持ち帰った記録箱を机の上に置く。


 村長、セリア、トマ、ニコルが集まる。


 王都で得た写しを、一枚ずつ広げた。


 安全監視線。

 管理補助盤との紐付け可能。

 使用者説明欄の空白。

 施工者補助印。

 ローゼン侯爵家技術顧問印。

 旧水脈補助施設への応用注記。


 ダリオが黒石祠の拓本と、原本の施工者補助印を並べた。


 トマが覗き込み、顔をしかめる。


「ほぼ同じじゃん」


「一致率九十七%です」


 俺が言うと、ニコルが息を呑んだ。


「九十七……」


 村長は静かに目を細めた。


「では、黒石祠はローゼン家関連の施工体系と見てよいのか」


「強い疑い、と記録する段階です」


 俺は慎重に言った。


「ただし、実務上は同一管理体系と見て対策した方がいいでしょう」


 ダリオが応用注記を指した。


「ここだ。旧水脈補助施設への応用可能性。地域結界補助線との接続。管理印同期。黒石祠の反応は、この系統で説明できる」


 セリアが聞く。


「つまり、安全監視線と黒石祠は別々ではなく、似た仕組みで水脈や結界を管理しようとしている、ということですか」


「そうだ」


 ダリオは頷いた。


「安全監視線は炉の出力を見る。黒石祠は水脈と結界補助線を見る。対象は違うが、思想は同じ。反応値を取り、外に繋げ、後から管理に紐付ける」


 リーゼが低く言う。


「腕輪も、同じ思想か」


 部屋が静かになった。


 ダリオは少し間を置いてから答えた。


「可能性はある。腕輪は人の剣技回路を見る。反応を止める。管理する。対象が人になっただけかもしれん」


 セリアの顔が険しくなる。


「ひどいです」


 その一言は、静かだった。


 けれど、強かった。


 ニコルは必死に記録する。


「安全監視線、黒石祠、腕輪。対象は違うが、思想は共通……」


 トマが机に手を置いた。


「で、どうする?」


 その問いは単純だった。


 けれど、今必要な問いだった。


「黒石祠を止めるのか?」


 ダリオはすぐに首を横に振った。


「いきなり止めない。まず安定化だ」


「安定化?」


「祠を完全に解除しようとすると、水脈が逆流する危険がある。今は反応が上がってる。まず、それ以上広がらないようにする。術式根の外側を抑えて、水路下流への残滓流入を減らす」


 俺は中枢室の表示を思い出しながら言った。


「中枢室で王都資料を統合すれば、安定化手順が出るかもしれません」


 セリアが立ち上がる。


「では、すぐに地下へ」


 村長が杖を鳴らした。


「その前に、食べよ」


 全員が一瞬止まった。


 トマが驚いた顔をする。


「村長、この状況で?」


「この状況だからじゃ」


 村長は静かに言った。


「王都から戻った者は疲れておる。村で動いていた者も疲れておる。腹が空いたまま祠へ向かえば、判断を誤る」


 ダリオが小さく笑った。


「正論すぎる」


「豆の煮込みもある」


 その一言で、ダリオの顔が少しだけ変わった。


「……あるのか」


「ある」


 村長は真顔で頷いた。


「なら食う」


 リーゼが呆れたように見る。


「本当に豆で戻るのだな」


「王都の豆では駄目なんだ」


 トマが笑った。


「言うと思った」


 食事は、広場近くで簡単に取った。


 豆の煮込み。

 黒パン。

 薄い野菜スープ。


 豪華ではない。


 だが、王都の料理よりずっと胃に落ち着いた。


 ダリオは一口食べて、深く息を吐いた。


「これだ」


 トマが得意げに言う。


「王都の豆よりいいだろ」


「比べるな。リベル村の豆に失礼だ」


「そこまでかよ」


 セリアは少しだけ笑っていた。


 リーゼも静かに食べている。


 俺も、ようやく帰ってきたのだと実感した。


 水路は濁っている。

 祠は反応している。

 危機は続いている。


 それでも、この食事の時間は必要だった。


 守るためには、立っていなければならない。


 立つためには、食べなければならない。


 食後、地下工房へ降りた。


 中枢室の結晶柱は、まだ黒紫の光を弱く帯びている。


 俺は王都から持ち帰った写しを一枚ずつ登録した。


《王都原本写し:登録》

《安全監視線:登録》

《管理補助盤紐付け記述:登録》

《施工者補助印:登録》

《旧水脈補助施設応用注記:登録》

《ローゼン侯爵家技術顧問印:登録》


 結晶柱の光が強まる。


 表示が更新された。


《黒石祠反応解析:進行》

《地域封鎖術式:安全監視線応用型》

《管理印同期:確認》

《水脈停滞:術式根外縁部より拡散》

《推奨:完全解除不可》

《推奨:外縁安定化》

《必要:低濃度浄化水/水脈棒/修復針/三点同時記録》


「出ました」


 俺は表示を読み上げる。


「地域封鎖術式は、安全監視線応用型。完全解除不可。まず外縁安定化が推奨されています」


 ダリオが水脈棒を握る。


「やっぱりな。切るんじゃなく、外から押さえる」


 セリアが確認する。


「低濃度浄化水なら用意できます」


「強すぎると反発する」


「分かっています。確認用より少し濃い程度にします」


 リーゼが言う。


「三点同時記録とは?」


 中枢室が表示を更新する。


《三点:黒石祠外縁/旧水路下流/中央井戸》

《目的:安定化時の反動確認》

《担当推奨:祠班/水路班/井戸班》


 村長が頷いた。


「班を分ける必要があるな」


「祠班は俺、ダリオさん、リーゼさん」


 俺は言った。


「セリアは?」


 リーゼが聞く。


 セリアは少し考えた。


「私は水路班に入ります。低濃度浄化水の反応を見る必要があります。祠へ行きたい気持ちはありますが……水路を守る人も必要です」


 リーゼは頷く。


「いい判断だ」


 セリアは少しだけ照れた。


「ありがとうございます」


 トマが手を上げる。


「俺は?」


 ダリオが即答する。


「水路班。水量板を見張れ。動かすな」


「はいはい、動かさない!」


 ニコルが言う。


「僕は井戸班で記録します」


 村長が頷く。


「儂は中央で全体を受ける。子供たちと村人には、井戸と薬草予定地へ近づきすぎぬよう伝える」


 役割が決まっていく。


 焦りではなく、手順として。


 その流れを見て、俺は少しだけ胸が熱くなった。


 王都で得た記録が、村の判断に変わっていく。


 紙の上の線が、水路を守る手順になる。


 夜になる前に、最初の安定化準備を終えた。


 本格作業は翌朝。


 森の中で暗くなれば危険が増す。


 黒石祠は待ってはくれないかもしれないが、焦って踏み込めば相手の思う壺だ。


 その夜、俺は久しぶりにリベル村の地下工房で個人記録を書いた。


『王都より帰還。

村は崩れていなかった。

セリア、トマ、ニコル、村長が井戸、水路、薬草、証拠物を守っていた。

旧水路下流、ハルマ村井戸に黒石祠由来残滓あり。

王都原本写しを中枢室へ登録。

黒石祠の地域封鎖術式は、安全監視線応用型と判明。

完全解除ではなく、外縁安定化を推奨。

明朝、祠班・水路班・井戸班に分かれて安定化作業開始予定。』


 最後に書いた。


『記録は取り戻した。

だが、記録は終着点ではない。

水へ戻し、土へ戻し、人の判断へ戻して、初めて修復になる。』


 地上では、水車が回っている。


 少し濁った水路が、夜の中を細く流れている。


 森の奥では、黒石祠がまだ眠れずにいる。


 そしてリベル村は、明日、その祠へ向かう準備を整えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ