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第89話 リベル村に迫る祠の反応

 中枢室の光が、黒紫に瞬いていた。


 いつもの柔らかな青白い光ではない。


 森の奥で見た黒石祠の脈動に似た、嫌な色だった。


《黒石祠:反応上昇》

《地域封鎖術式:微弱再起動》

《旧水路下流:濁り検知》

《周辺水脈:停滞増加》

《推奨:王都組への緊急連絡》


 セリアは、表示を見つめたまま一度だけ目を閉じた。


 怖い。


 胸の奥が冷える。


 レオンも、リーゼも、ダリオもいない。

 ここにいるのは、村長と、トマと、ニコルと、自分だけ。


 もちろん村人たちもいる。

 だが、黒石祠や地域封鎖術式に直接対応してきた三人が不在であることは、どうしても大きかった。


 トマが隣で唾を飲み込む。


「黒石祠って……森の奥のやつだよな」


「はい」


 ニコルの声は少し震えていた。


「地域封鎖術式、微弱再起動……旧水路下流、濁り検知……」


「読むな。いや、読んでいいけど、怖くなるだろ」


「読まないと記録できません」


「そうだけどさ」


 トマは頭をかいた。


 彼も焦っている。


 けれど、セリアはトマの手が水量板の方へ伸びていないことに気づいた。


 何度もダリオに言われたからだ。


 勝手に動かすな。

 記録してから判断しろ。

 水は焦っていじるな。


 トマはちゃんと守っている。


 それだけで、セリアは少し落ち着けた。


 村長が杖を鳴らした。


「まず、何を守る」


 その問いは短かった。


 でも、セリアには分かった。


 何を直すか、ではない。

 何を守るか。


 今、自分たちがやるべきことは、黒石祠へ飛び込むことではない。


 村を崩さないことだ。


「井戸です」


 セリアは答えた。


「それから旧水路。畑。薬草予定地。治療所。周辺村から届く井戸記録」


 言いながら、自分の声が震えていることに気づく。


 でも、言葉は止めなかった。


「黒石祠へ直接向かうのは、まだ駄目です。レオンさんたちがいない状態で、封鎖術式の根に触るのは危険です。まず、水の異常を広げないようにします」


 村長は深く頷いた。


「よい判断じゃ」


 その一言だけで、セリアの足元が少し固まった気がした。


 ニコルがすぐに記録板へ書き込む。


「対応方針。黒石祠へ直接接触せず。井戸、旧水路、畑、薬草予定地、治療所、周辺村記録の保全を優先……」


「俺は水路へ戻る」


 トマが言った。


「濁りを確認する。水量板は動かさない。動かさないからな」


「二回言いましたね」


 ニコルが顔を上げる。


「大事だからだよ」


「記録しますか?」


「しなくていい」


 村長が言った。


「いや、書いておけ」


「村長!?」


「水量板を勝手に動かさぬという確認は大事じゃ」


 トマは少し不満そうだったが、結局何も言い返せなかった。


 セリアは中枢室の表示をもう一度見た。


《推奨:濁り採取/井戸水比較/浄化水低濃度散布/水量操作禁止》

《推奨:周辺村へ記録照会》

《推奨:王都組への緊急連絡》


「浄化水を作ります」


 セリアは言った。


「強い浄化ではなく、低濃度です。水路に直接大量に入れるのではなく、井戸周辺と治療用の予備として。黒い濁りが術式由来なら、強く浄化すると反動が出るかもしれません」


 トマが頷く。


「強くやりすぎるな、だな」


「はい」


「分かった。俺は水を持ってくる。透明な瓶、あったよな」


「治療所にあります。上流、中流、下流、畑側の四箇所で採ってください。あと、中央井戸も」


「五つか」


「できれば、時刻も書いてください」


「時刻……」


 トマは少し遠い目をした。


 ニコルがすぐに言う。


「僕が採取記録表を作ります」


「助かる!」


 トマは本気で安心した顔をした。


 地上へ戻ると、村はまだ普段通りに見えた。


 子供たちは薬草予定地の柵の外にいる。

 畑では数人の村人が土を見ている。

 水車は回っている。

 井戸には水を汲みに来た女性が二人。


 だが、旧水路の水面には、確かに細かな黒い濁りが混じっていた。


 ほんの少しだ。


 見落とそうと思えば、見落とせる程度。


 でも、セリアはそれがかえって怖かった。


 大きな異変ではない。

 じわじわと、当たり前のふりをして混じってくる。


 地域封鎖術式らしいやり方だった。


 トマは透明な瓶を持って走り出した。


「上流から採る! 水量板は触らない!」


 通りすがりの老人が首を傾げる。


「何かあったのかい?」


 トマは一瞬、どう答えるか迷った。


 そこでセリアが前へ出た。


「水の確認です。少し濁りが出ているので、念のため記録します。今すぐ危険というわけではありませんが、井戸水は一度こちらで確認してから使ってください」


 老人は不安そうな顔をした。


「また水が悪くなるのかね」


 その言葉に、周囲の人たちもこちらを見る。


 不安は広がる。


 水の不安は特に早い。


 だからこそ、言い方を間違えられない。


 セリアは息を吸った。


「悪くなると決まったわけではありません。だから、今、確認しています。何が起きているのか、分からないまま怖がるのではなく、記録して見ます」


 村長が横から続けた。


「井戸はすぐ封鎖せぬ。だが、念のため、飲み水は一度治療所前で確認してから使う。料理用の水は汲み置きの古い水を優先じゃ」


「分かった」


 老人は頷いた。


「なら、みんなに伝えてくる」


「お願いします」


 セリアは頭を下げた。


 その時、ニコルが広場へ小さな机を出してきた。


 上には記録板と、採水瓶の札。


『中央井戸』

『旧水路上流』

『旧水路中流』

『旧水路下流』

『畑側』

『薬草予定地周辺土』


 手際がいい。


 以前のニコルなら、きっと慌てていただろう。


 今も緊張はしている。

 だが、筆先は止まらない。


「ここを採水記録所にします」


 ニコルは言った。


「持ってきた水は、瓶札と時刻を確認してから置いてください。誰が採ったかも書きます。井戸水を使う人は、一度ここへ来てください」


 トマが水路上流の瓶を持って戻ってきた。


「上流は濁り少ない。中流行く!」


「トマさん、時刻」


「えーと、今!」


「今ではなく、鐘の半刻前です」


「それ書いといて!」


「はい」


 セリアは治療所へ走った。


 棚から浄化水の原液を取り出す。


 だが、いつものように強い濃度では使わない。


 水で薄め、三種類に分ける。


 確認用。

 手洗い用。

 井戸周辺の簡易浄化用。


 強くすればいいわけではない。


 リーゼの腕輪も、黒石祠も、無理に触れば反動が出る。


 セリアは瓶のひとつに札を付けた。


『低濃度。飲用不可。井戸周辺用』


 その横に、もう一枚書く。


『勝手に使わない』


 少し考えてから、さらに小さく書いた。


『困ったらセリアへ』


 治療所を出ると、広場には村人が集まり始めていた。


 不安そうな顔。

 何か手伝いたい顔。

 まだ状況が分からず困っている顔。


 セリアは浄化水の瓶を抱えたまま、広場の中央へ立った。


 普段なら、人前で大きな声を出すのは得意ではない。


 神殿にいた頃、人前で何かを言う時は、いつも評価される側だった。


 声が弱い。

 姿勢が不安定。

 聖女候補らしくない。


 そう言われてきた。


 でも今は違う。


 ここでは、誰かが評価するために聞いているのではない。


 村が困っているから、聞いている。


「皆さん、聞いてください」


 声は少し震えた。


 でも、広場は静かになった。


「旧水路の下流で、少し黒い濁りが出ています。中枢室では、黒石祠の反応上昇と、地域封鎖術式の微弱再起動が表示されました」


 ざわめきが起きる。


 黒石祠。

 地域封鎖術式。


 難しい言葉だが、村人たちはもう完全に知らないわけではない。


 水を止めるもの。

 村を弱らせるもの。

 そういう認識が広がっている。


 セリアは続けた。


「でも、今すぐ水が全部使えなくなるわけではありません。焦って水量板を動かしたり、井戸を勝手に封鎖したり、森の祠へ向かったりしないでください」


 トマが小さく頷いている。


 自分に言われていると思っているのだろう。


「まず記録します。どこの水が、どれくらい濁っているのか。井戸水に異常があるのか。畑や薬草に影響があるのか。分からないことを、分かるようにします」


 村人たちは黙って聞いている。


 セリアは浄化水の瓶を掲げた。


「低濃度の浄化水を用意しました。飲み水ではありません。井戸周辺の手洗いや、道具の拭き取りに使います。強く浄化しすぎると、術式が反応する可能性があるので、勝手に水路へ入れないでください」


 その時、子供の一人が手を上げた。


「芽は?」


 広場の空気が一瞬止まった。


 傷洗い草の芽。


 村の小さな未来。


 セリアは薬草予定地の方を見た。


「芽も確認します。今のところ、倒れていません。薬草予定地の周りには近づきすぎないでください。強い水もかけません」


「触らない?」


「はい。触らない」


 子供たちは真剣に頷いた。


 そのやり取りで、村人たちの顔に少しだけ力が戻った。


 不思議なものだった。


 小さな芽の話が、村の不安を少し和らげる。


 守るべきものが具体的に見えると、人は立ちやすいのかもしれない。


 その後、村は一気に動き始めた。


 トマは水路の採水を続ける。


「上流、濁り薄い! 中流、少しあり! 下流、黒い粒あり! 畑側、確認中!」


 ニコルが記録する。


「上流、濁り薄い。中流、少しあり。下流、黒い粒あり……トマさん、畑側の時刻!」


「今!」


「鐘の半刻後です!」


「それ!」


 村人たちは井戸水を持ってきた。


 中央井戸。

 東側の浅井戸。

 家ごとの汲み置き水。


 セリアは確認用の浄化水を一滴ずつ落とし、反応を見る。


 中央井戸は、ほぼ正常。

 東側浅井戸に、わずかな濁り。

 汲み置き水は問題なし。


 ニコルが表にしていく。


「中央井戸、現在使用可。ただし飲用前確認推奨。東側浅井戸、調理使用一時停止。汲み置き水、使用可……」


 村長は周辺村への使いを出した。


 ハルマ村。

 北沢集落。

 ミード村。


 内容は簡潔だった。


『井戸水の濁り、水温、水量、匂いの記録を至急確認。異常があれば瓶に採り、リベル村へ送ること。噂を広げる前に記録を送ること』


 最後の一文が、村長らしかった。


 噂を広げる前に記録を送る。


 セリアはそれを聞いて、少しだけ笑いそうになった。


 でも、すぐに表情を引き締めた。


 まだ終わっていない。


 夕方近く、ハルマ村から最初の使いが来た。


 若い男が息を切らして、水瓶を抱えている。


「井戸が、少し濁りました。朝より昼の方が濁っています。村長から、記録も持っていけと」


 ニコルがすぐ受け取る。


「時刻は?」


「朝の鐘一つ、昼の鐘二つ、その後半刻です」


「水量は?」


「少し少ないです」


「匂いは?」


「泥っぽい。腐った匂いではないです」


 ニコルはすごい勢いで書く。


 セリアが水瓶を確認する。


 薄い黒い粒子。

 リベル村下流の濁りと似ている。


 確認用浄化水を落とすと、水面にわずかに灰色の輪が広がった。


「同じ系統かもしれません」


 セリアは言った。


「ハルマ村へ伝えてください。井戸を完全に封鎖する必要はまだありません。でも、飲み水は汲み置きか煮沸を優先。濁りが増えるようなら、すぐ追加記録を送ってください」


「分かりました」


 男は不安そうだったが、何をすればいいか分かったことで少し落ち着いたようだった。


 日が沈む頃、北沢集落からも連絡が来た。


 水温低下が続いている。

 濁りは薄い。

 水量が少し落ちた。


 ミード村は井戸そのものに大きな異常なし。

 ただし、古い薬草箱に入っていた止血草の試験種が、少し乾き気味になったという。


 セリアはその報告を聞いて、眉を寄せた。


「水だけではなく、土の湿りにも影響が出ているかもしれません」


 ニコルが記録する。


「薬草試験種、乾き気味……」


 トマが額の汗を拭った。


「先生たちに送る情報、山ほどあるぞ」


「送ります」


 セリアは即答した。


「今すぐ」


 村長宅で、王都組への緊急連絡文が作られた。


 ニコルが清書する。


『緊急連絡。

黒石祠反応上昇。地域封鎖術式、微弱再起動。

旧水路下流で黒い濁り検知。上流薄い、中流少量、下流明確。畑側も微量。

中央井戸は現在ほぼ正常。東側浅井戸に微弱濁り。

ハルマ村井戸に同系統濁り。朝より昼に悪化。水量やや低下。

北沢集落は水温低下継続、水量やや低下。

ミード村井戸は大きな異常なし。ただし止血草試験種が乾き気味。

リベル村は黒石祠へ直接接触せず、井戸・水路・薬草予定地・治療所の保全を優先。

低濃度浄化水を用意。強い浄化および水量板操作は行っていません。

現地閲覧準備は継続中。腕輪原本、黒石祠外殻片の封印に異常なし。

王都組の判断を仰ぎます』


 最後に、セリアは一文を加えた。


『村はまだ崩れていません。ですが、黒石祠の反応は確実に強まっています』


 ニコルが顔を上げる。


「この一文、強いですね」


「強い方がいいです」


 セリアは答えた。


「怖がらせたいわけではありません。でも、軽く見られたくもありません」


 トマが頷いた。


「いいと思う。俺たち、ちゃんとやってる。でもやばいものはやばい」


 村長が封をした。


「送れ」


 使いが王都へ向かう。


 夜になった。


 広場には、まだ灯りが残っていた。


 村人たちは落ち着かない様子で、それぞれ水瓶や鍋を確認している。

 それでも、大きな混乱は起きていない。


 セリアは治療所前で、低濃度浄化水の瓶を並べ直した。


 手が少し震えている。


 トマが気づいた。


「大丈夫か?」


「大丈夫ではないです」


 セリアは正直に答えた。


「でも、倒れてはいません」


「それ、リーゼみたいだな」


「はい。真似しました」


 トマは少し笑った。


「似合ってる」


「そうですか?」


「うん。けっこう」


 セリアは薬草予定地を見た。


 薄い布の下で、傷洗い草の芽が夜風に揺れている。


 倒れていない。


 濁りが出ても、祠が反応しても、村がざわついても。


 小さな葉は、まだ立っている。


「守ります」


 セリアは呟いた。


 それは誰に聞かせるでもない言葉だった。


 でも、トマが聞いていた。


「おう」


 彼は頷いた。


「守ろう」


 地下では、中枢室の黒紫の光がまだ弱く点滅していた。


《王都組への緊急連絡:送信済み》

《推奨:監視継続》

《推奨:直接接触回避》

《推奨:帰還支援準備》


 リベル村は、夜の中で息を潜めるように水音を聞いていた。


 森の奥の祠が、また眠りから浮かび上がっている。


 王都で紙が動き、侯爵家へ調査命令が出たその日に。


 水の底では、別の戦いが始まっていた。

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