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第88話 ローゼン侯爵家へ調査命令

 原本確認の翌朝、王都行政庁の空気は明らかに変わっていた。


 昨日まで、ローゼン侯爵家の名は慎重に扱われていた。


 疑い。

 関連可能性。

 一部類似。

 技師個人の過剰判断。

 安全監視線の運用不備。


 そういう言葉で包まれていた。


 だが、黒塗り前の原本は、その包み紙を一枚剥がした。


 安全監視線は存在した。

 管理補助盤との紐付け可能性も記載されていた。

 使用者説明欄は空白だった。

 施工者補助印は黒石祠の管理印と九十七%一致した。

 さらに、ローゼン侯爵家技術顧問印まで残っていた。


 クラウス・ベルナー個人の問題だけで済ませるには、あまりに線が多すぎる。


 行政庁の小会議室には、朝から書類が積まれていた。


 オルブライト行政官は、眼鏡を押し上げながら一枚ずつ確認している。


 ラウル査察官は腕を組み、椅子にもたれずに座っていた。


 グレン副長も同席している。

 騎士団としては、リーゼの腕輪問題にローゼン家の影が見え始めた以上、もう完全な別件として扱えなくなっているのだろう。


 俺、ダリオ、リーゼも席についていた。


 昨日の原本確認の疲れが、全員の顔に残っている。


 特にダリオは、眠れていないようだった。


 それでも、目ははっきりしている。


「行政庁として、ローゼン侯爵家関連設備への限定調査命令を起案します」


 オルブライトが言った。


 その声はいつも通り淡々としていた。


 だが、言葉の重みは昨日までと違う。


 ローゼン侯爵家へ調査命令。


 それは、王都でも簡単に出せるものではない。


 ラウルが確認する。


「対象は?」


「まず三つです」


 オルブライトは書面を読み上げた。


「一、ローゼン侯爵家別邸結界炉および関連する安全監視線の現存確認。二、同侯爵家管理下にある旧水脈補助施設関連資料の有無。三、リーゼ・ヴァルト氏に装着された腕輪と同系統の管理術式資料の有無」


 グレン副長の目が少し鋭くなる。


「腕輪も含めるのか」


「はい。騎士団医務メモ、リーゼ氏の異議申立書、腕輪解除鑑定写し、原本に残る管理補助体系の記述を踏まえ、関連確認対象に含めます」


「妥当だ」


 グレン副長は短く言った。


 リーゼは黙って聞いている。


 自分の腕輪が、ローゼン家関連調査の対象として文書に入る。


 それは救いであると同時に、彼女の傷がまた公的な紙に載るということでもある。


 彼女は膝の上で指を軽く組み、視線を下げずにいた。


 ダリオが資料の端を見ながら呟く。


「ついに、家名が紙に乗ったな」


「まだ調査命令です」


 俺が言うと、彼は頷いた。


「分かってる。断罪じゃない。断定でもない。でも、調査対象だ」


「はい」


「昔なら、ここまで行く前に握り潰された」


 その言葉に、会議室が少し静まった。


 オルブライトは表情を変えずに言った。


「今回は、複数機関で記録しています。行政庁、防衛局、ギルド、騎士団。握り潰すには、関わる紙が多すぎます」


 ダリオは苦笑した。


「紙の束で殴る戦いか」


「そのような表現は使いません」


「でも、そうだろ」


「否定はしません」


 ラウルが少しだけ口元を緩めた。


 だが、すぐに空気は戻った。


 調査命令書の文面は慎重に作られた。


『ローゼン侯爵家管理下設備に関する限定調査命令』


 名目は、地域水脈停滞および古代補助施設異常に関する安全確認。


 目的は、黒石祠管理印とローゼン侯爵家施工補助図原本内の施工者補助印との高率一致を受けた、関連設備・資料の確認。


 対象は、別邸結界炉、安全監視線、旧水脈補助施設管理資料、腕輪型制御具関連資料。


 調査範囲は限定的。

 家宅捜索ではない。

 侯爵家の一般私物や政務文書は対象外。


 その一方で、関係資料の破棄、移動、改変を禁ずる保全命令も添えられた。


 ここが重要だった。


 ローゼン家が反発しても、少なくとも対象資料を燃やすことは難しくなる。


 クラウスが原本保管庫へ向かったばかりだ。

 行政庁も防衛局も、もう「まさか」とは言わない。


 オルブライトは最後に署名し、ラウルとグレン副長へ回した。


 防衛局確認。

 騎士団関連確認。

 ギルド記録共有。


 紙の上に、印が増えていく。


 それは重い音のない鎖のようだった。


 午後、ローゼン侯爵家へ調査命令が届けられた。


 使者は行政庁の職員二名、防衛局員二名、ギルド記録官一名。


 王都の通りを進む馬車には、行政庁の印が掲げられていた。


 その動きはすぐに噂になった。


「ローゼン家に行政庁の馬車が入ったらしい」


「防衛局も一緒だったとか」


「リベル村の件か?」


「技師組合の原本がどうとか」


 王都の噂は速い。


 だが今回は、噂より先に正式文書が動いている。


 ローゼン侯爵家の執務室で、侯爵はその命令書を受け取った。


 表情は変わらない。


 ただ、指先がほんの少しだけ紙の端を押さえた。


 アルヴィンは横に控えている。


 行政庁の使者が淡々と告げた。


「本命令は、黒石祠管理印とローゼン侯爵家関連施工補助図原本の照合結果、および地域水脈停滞に関する安全確認に基づく限定調査です。対象資料および設備の破棄、移動、改変は禁じられます」


 侯爵は静かに言った。


「ローゼン家を疑うと?」


「安全確認です」


 使者は、王都の役人らしい無表情で答えた。


「疑う、疑わないではなく、確認です」


「便利な言葉だ」


「必要な言葉です」


 侯爵の目が細くなる。


 少し前なら、この程度の役人は侯爵の一瞥で黙ったかもしれない。


 だが、今は背後に行政庁、防衛局、ギルド、騎士団の一部がいる。


 使者は一人ではない。


 紙も一枚ではない。


「安全監視線の件は、クラウス・ベルナー個人の技術判断であった可能性が高い」


 侯爵は言った。


「ローゼン家は専門技師の説明を信じていただけだ。技術顧問印も形式的承認に過ぎぬ」


 使者は淡々と記録する。


「ローゼン侯爵家側主張。安全監視線はクラウス・ベルナー個人の技術判断。技術顧問印は形式的承認」


 侯爵の眉がわずかに動く。


 記録されることに、苛立っているのが分かった。


「そもそも、旧資料の誤読ではないのか。除名された技師と追放鑑定士の解釈に王都が振り回されるとは、行政庁の威信も落ちたものだ」


 使者はまた書いた。


「ローゼン侯爵家側主張。旧資料の誤読。除名技師および追放鑑定士の解釈への疑義」


「……何でも書くのだな」


「はい」


 短い返事だった。


 侯爵はしばらく使者を見ていたが、やがて薄く笑った。


「よかろう。ローゼン家は王国の法に従う。限定調査に協力しよう」


「ありがとうございます」


「ただし、調査範囲を逸脱することは許さぬ。侯爵家の政務、外交、私的財産への不当な干渉があれば、正式に抗議する」


「その発言も記録しました」


 侯爵は何も言わなかった。


 使者たちが去った後、執務室の空気が冷えた。


 アルヴィンは命令書の写しを見つめる。


「閣下」


「クラウス個人の線で進めろ」


 侯爵は即座に言った。


「安全監視線は、技師組合が標準機能として説明した。ローゼン家は技術的詳細を知らなかった。技術顧問印は形式的承認。腕輪についても、護衛契約上の補助具として手配されたものに過ぎぬ」


「黒石祠との印の一致は」


「古い管理体系が同じだっただけだ。王都標準印の変形で押せ」


「一致率九十七%です」


「百ではない」


 侯爵は冷たく言った。


 アルヴィンは黙った。


 その理屈は、クラウスが使っていたものと同じだった。


 百ではない。


 断定ではない。


 なら、逃げ道はある。


 だが、逃げ道は細くなっている。


「調査対象資料の移動、破棄、改変は禁止されています」


「当然だ。今、触れば愚かだ」


 侯爵は地図を広げた。


 王都ではなく、リベル村周辺の地図。


 旧水路。

 黒石祠。

 北東地下水脈。

 ハルマ村。

 北沢集落。


「王都で紙を燃やすのは難しくなった。なら、現場を燃やせばよい」


 アルヴィンの顔がこわばる。


「リベル村を直接?」


「直接ではない。危機を起こす」


 侯爵の指が黒石祠の位置を叩いた。


「地域封鎖術式は、まだ完全には解除されていない。むしろ、リベル村が水路を戻したことで反応しやすくなっている。少し突けば、周辺水脈が濁る」


「それは、周辺村にも被害が出ます」


「だからこそ、効く」


 侯爵の声に揺れはない。


「リベル村が自主管理できるという評価を壊すには、管理できない危機を起こせばよい。井戸が濁り、水路が乱れ、黒石祠が活性化する。そうなれば、王都の管理が必要だという声が戻る」


 アルヴィンは唇を結んだ。


「危険すぎます」


「危険だから、世論は動く」


「……」


「ためらうなと言ったはずだ」


 アルヴィンは頭を下げた。


「承知しました」


 侯爵は窓の外を見た。


「リベル村は、芽を守っているらしいな」


 その言い方に、アルヴィンは嫌なものを感じた。


「小さな芽ほど、周りの土を揺らせば倒れる」


 王都行政庁では、ローゼン家の受領記録が届いた。


 侯爵家は限定調査に協力すると回答。

 ただし、クラウス個人の過剰判断、技術顧問印は形式的承認、旧資料の誤読を主張。

 調査範囲逸脱には抗議すると明言。


 オルブライトはその報告を読み、静かに言った。


「想定通りです」


 ラウルが腕を組む。


「クラウスを切りに来たな」


「はい」


 ダリオは苦い顔をする。


「あいつも、ついに切られる側か」


 リーゼが言う。


「同情するか?」


 ダリオは少し考えた。


「しない。だが、見覚えはある」


 それは、彼らしい正直な答えだった。


 俺はローゼン家の回答を写しながら言った。


「これで終わるとは思えません」


「同感だ」


 ラウルが頷く。


「王都で押されれば、現場を揺らす。そういう家だ」


「リベル村へ警告を送ります」


 オルブライトが即座に言った。


「黒石祠、井戸、水路、薬草予定地への警戒強化。周辺村の井戸記録も確認するように、と」


 ダリオが顔を上げた。


「今すぐ送ってくれ。特に黒石祠だ。あれは、ちょっとした刺激で反応する可能性がある」


「分かりました」


 俺も追加文を書いた。


『ローゼン侯爵家へ限定調査命令発出。侯爵家は協力姿勢を見せつつ、クラウス個人の過剰判断、技術顧問印の形式的承認、旧資料誤読を主張。

ただし、王都で追い詰められた場合、現場側、特に黒石祠および周辺水脈へ揺さぶりをかける可能性あり。

リベル村では、黒石祠反応、井戸濁り、水路水量、薬草予定地への異常を重点確認してください。

周辺村からの井戸記録も前倒しで確認推奨』


 文を送り出してからも、不安は消えなかった。


 むしろ、強くなった。


 王都で証拠を掴むほど、リベル村が危険になる。


 それは理屈として分かっていた。


 だが、今はその危険が、かなり具体的になっている。


 セリア。

 トマ。

 ニコル。

 村長。

 傷洗い草の芽。

 水路。

 治療所。

 封印箱。


 頭の中に、村の景色が浮かぶ。


 リーゼも同じことを考えていたのだろう。


「戻るべきか」


 彼女が言った。


 ダリオもすぐに答えなかった。


 ラウルが口を開く。


「まだだ。王都側の調査命令が出た直後に君たちが動くと、侯爵家が“調査から逃げた”と言う可能性がある」


「だが村が危険なら」


「もちろん、危険が確認されれば戻る。今は警告を送る段階だ」


 オルブライトも頷いた。


「王都側の調査準備を進めつつ、村からの反応を待ちます。緊急報告があれば、即帰還判断」


 ダリオは舌打ちした。


「待つのは嫌いだ」


「でも、必要です」


 俺が言うと、彼は肩を落とした。


「分かってる。リベル村式だろ。焦るな、記録しろ、勝手に触るな」


「はい」


「嫌な合言葉だ」


 そう言いながら、彼は少しだけ笑った。


 その頃、リベル村では、夕方の水量確認が行われていた。


 セリアは治療所前で浄化水の瓶を並べている。

 ニコルは王都から届いた警告文を村長へ読み上げていた。

 トマは旧水路の水量板を確認していた。


「異常なし……だよな」


 トマは水の流れを覗き込む。


 水は細く流れている。


 昨日と同じ。

 いや、少しだけ濁っているようにも見える。


「気のせいか?」


 彼は水を掬って、光に透かした。


 ほんのわずかに、黒い細粒が混じっている。


 その瞬間、村の地下から低い音が響いた。


 中枢室の警告音だった。


 セリアが顔を上げる。


 ニコルが記録板を抱えたまま走る。


 村長が杖を強く握る。


 地下工房へ降りると、結晶柱が黒紫色に点滅していた。


《黒石祠:反応上昇》

《地域封鎖術式:微弱再起動》

《旧水路下流:濁り検知》

《周辺水脈:停滞増加》

《推奨:王都組への緊急連絡》


 セリアの顔が白くなる。


 だが、すぐに深く息を吸った。


「ニコルくん、記録を」


「はい!」


「トマさん、水量板は動かさないでください。まず濁りの量を確認。村長、周辺村への連絡準備をお願いします」


 トマが一瞬、彼女を見る。


「セリア?」


「今は、私たちが動く番です」


 その声は震えていた。


 でも、逃げてはいなかった。


 王都では、まだその警報を知らない。


 ただ、胸騒ぎだけが先に届いたように、俺はその夜なかなか眠れなかった。


 黒塗り前の原本は見つかった。


 ローゼン家へ調査命令も出た。


 だが、相手はまだ倒れていない。


 追い詰められた家は、紙の上ではなく、水の底で動き始めていた。

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