第87話 黒塗り前の原本
原本保管庫が開かれる朝、王都技師組合の廊下には、妙な静けさがあった。
人がいないわけではない。
職員はいる。
技師もいる。
資料管理官も、行政庁の職員も、防衛局の者も、ギルド記録官もいる。
けれど、誰も余計なことを言わなかった。
昨日までのざわめきが、扉の前で息を潜めているようだった。
ローゼン侯爵家関連施工補助図原本。
その名前だけなら、古い技術資料のひとつに過ぎない。
だが今、その原本は多くのものを抱えていた。
クラウスの黒塗り。
ダリオの告発。
リベル村の黒石祠。
安全監視線。
管理紐付け。
そして、ローゼン家の関与。
扉の前には、四つの封印が並んでいる。
行政庁。
防衛局。
冒険者ギルド。
技師組合。
オルブライトが一つずつ確認した。
「行政庁封印、破損なし」
ラウル査察官が続く。
「防衛局封印、破損なし」
ギルド記録官も記録する。
「ギルド確認印、破損なし」
モルツ資料管理官が青い顔で言った。
「技師組合封印、破損なし」
俺は扉を鑑定した。
《原本保管庫扉》
《状態:封印維持》
《外部接触痕:前回記録済み》
《新規干渉:なし》
《開封可能:四者立会い条件成立》
「新規干渉なし。四者立ち会い条件成立です」
そう告げると、ダリオが小さく息を吐いた。
彼は今日は工具箱を持っていない。
代わりに、手には何も持っていなかった。
空の手。
けれど、その手は少し震えている。
リーゼは彼の右斜め後ろに立っていた。
剣の柄には触れていない。
ただ、何かあればすぐに止められる位置にいる。
グレン副長も同席していた。
騎士団の記録修正とは直接関係ないが、ローゼン家関連の証拠確認として立ち会いを希望したのだ。
彼は静かに立ち、余計なことは言わない。
この場で一番重い沈黙を背負っているのは、ダリオだった。
オルブライトが鍵を受け取る。
「開封します」
扉が開いた。
古い紙と革の匂いが、冷たい空気と一緒に流れ出てきた。
中は思ったより狭い。
石造りの小さな保管室。
壁に沿って棚が並び、そこに筒状の図面入れや台帳が収められている。
目当ての原本は、奥の棚にあった。
革で巻かれた図面筒。
封蝋は古い。
だが、完全には朽ちていない。
モルツ管理官が震える手で棚から取り出す。
オルブライトがすぐに言った。
「一人で持たないでください。机へ」
保管室中央の閲覧台に、図面筒が置かれた。
封印確認。
外装記録。
封蝋状態。
巻き紐の損傷。
ひとつずつ記録される。
急がない。
焦らない。
原本を前にしても、王都の者たちでさえリベル村式の速度になっていた。
ダリオが低く呟いた。
「遅いな」
「急ぎたいですか」
俺が聞くと、彼は首を横に振った。
「いや。これでいい。今さら急いで壊したら、昔の俺に殴られる」
リーゼが短く言う。
「今の私も殴る」
「お前は殴るな。斬るより怖い」
小さなやり取りだったが、少しだけ空気が緩んだ。
封が切られる。
図面が開かれる。
古い羊皮紙の表面に、精密な線が浮かび上がった。
ローゼン侯爵家別邸結界炉施工補助図。
黒塗り前の原本。
その文字を見た瞬間、ダリオの呼吸が変わった。
彼は一歩前へ出かけ、すぐに止まる。
「近づいてもいいか」
誰に聞いたのでもない声だった。
オルブライトが頷く。
「触れずに確認してください」
ダリオは閲覧台の前に立った。
その目が、図面の線を追っていく。
外形図。
炉心部。
出力調整回路。
安全遮断部。
外部監視端子。
そして、黒塗り資料では墨で潰されていた場所。
そこに、線があった。
細い。
しかし明確な線。
炉の出力傾向を外部へ送り、補助制御盤へ接続できる構造。
その横には、小さな注記がある。
『安全監視線。
外部端子を通じ、炉出力傾向を記録。
必要時、管理補助盤との紐付け可能。
施工者管理下にて調整』
ダリオの肩が震えた。
声は出なかった。
ただ、目だけがそこに釘づけになっている。
俺も鑑定する。
《ローゼン侯爵家別邸結界炉施工補助図・原本》
《状態:原本》
《黒塗りなし》
《安全監視線:記載あり》
《機能:炉出力傾向外部記録/管理補助盤との紐付け可能》
《使用者説明欄:空白》
《施工者補助印:あり》
「安全監視線、記載あり。管理補助盤との紐付け可能。使用者説明欄は空白です」
ギルド記録官の筆が走る。
ラウルが低く言った。
「空白か」
オルブライトも表情を変えずに確認する。
「使用者説明欄が空白であることを記録」
クラウスはいない。
だが、彼の言葉がこの場に残っているようだった。
標準機能。
悪用防止。
説明済みのはず。
保全目的。
そのどれもが、原本の前では弱かった。
ダリオはようやく声を出した。
「……あった」
誰も返事をしなかった。
彼は続ける。
「俺が見た線だ」
その声は、震えていた。
「俺が、管理紐付け線だって言ったやつだ」
リーゼが静かに頷いた。
「ああ」
「俺は……」
ダリオはそこで言葉を切った。
しばらく、口が動かなかった。
何年も前に言えなかった言葉。
何年も、自分でも疑っていた言葉。
それが、喉の奥で引っかかっているようだった。
俺は待った。
誰も急かさなかった。
やがて、ダリオは絞り出すように言った。
「俺は、間違っていなかった」
今度は、「かもしれない」ではなかった。
俺は記録した。
『ダリオ・ガンツ、黒塗り前原本確認後発言。
“俺は、間違っていなかった。”』
書きながら、少し手が震えた。
ダリオはその文字を見て、顔を歪めた。
笑っているようにも、泣きそうにも見えた。
「……長かったな」
リーゼが言った。
「ああ」
ダリオは頷いた。
「長すぎた」
次に確認されたのは、施工者補助印だった。
図面の右下。
黒塗り資料では完全に隠され、差し替え頁では再作成されていた部分。
そこには、円と三本線の印があった。
さらに中央に小さな切欠き。
外周に補助線。
黒石祠の管理印と、よく似ている。
俺は黒石祠の拓本を横に置いた。
布に写し取られた印と、原本の印。
完全に同じではない。
だが、同じ系統であることは明らかだった。
鑑定する。
《照合対象》
《黒石祠管理印》
《ローゼン侯爵家施工補助図原本・施工者補助印》
《一致率:九十七%》
《共通:円形外周/三線構造/中央切欠き/外周補助線》
《差異:経年摩耗/祠側変質》
《推定:同一系統施工者印、または同一管理体系》
「一致率、九十七%」
その数字が、保管室に落ちた。
四十一。
六十二。
八十四。
九十一。
そして、九十七。
百ではない。
しかし、実務上はほぼ決定的だった。
ラウルが低く言う。
「ここまで来れば、偶然とは言えんな」
オルブライトも頷く。
「行政庁として、同一管理体系の強い疑いと記録します」
グレン副長は印を見ながら言った。
「ローゼン家案件の施工印が、リベル村周辺の祠に残っている。これで地域封鎖術式との関連も大きく進む」
モルツ管理官は青ざめていた。
「私は……この原本の中身までは……」
ラウルが一瞥する。
「今は聞いていない。必要なら後で聞く」
さらに原本の端を確認すると、もうひとつ印があった。
ローゼン侯爵家技術顧問印。
形式的なもの、と言い逃れできなくもない。
だが、そこにある。
安全監視線が記された施工補助図に。
管理補助盤との紐付け可能と書かれた原本に。
使用者説明欄が空白のままの資料に。
ローゼン家側の承認印が。
俺は読み上げた。
「ローゼン侯爵家技術顧問印あり。承認日付あり。安全監視線記載頁と同一資料内」
オルブライトがすぐに記録する。
「技術顧問印の写しを取ります」
「それは」
モルツ管理官が言いかける。
ラウルが遮った。
「取る。今さら止める理由がない」
ギルド記録官も頷いた。
「地域水脈異常に関わる可能性があるため、ギルドも写しを求めます」
図面の写しが作られていく。
安全監視線。
施工者補助印。
技術顧問印。
使用者説明欄の空白。
どれも、これまで黒塗りの奥にあったものだ。
今、それらがひとつずつ光の下へ出てくる。
ダリオはその様子を黙って見ていた。
彼の顔には、晴れやかな勝利感はなかった。
むしろ、疲れ切ったような顔だった。
俺はそっと声をかけた。
「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない」
正直な答えだった。
「でも、倒れるほどじゃない」
「休みますか」
「少しだけ」
保管室の隅に椅子が用意された。
ダリオはそこに座り、両手で顔を覆った。
リーゼが隣に立つ。
少し離れて、けれど近すぎない場所。
ダリオは手の奥から声を出した。
「俺は、何年も、自分の記憶を疑ってた」
誰も喋らなかった。
「あの線を見た。危険だと思った。報告した。処分された。周りからは、またダリオが騒いだと言われた。口が悪いからだ、協調性がないからだ、貴族家案件で出しゃばったからだって」
彼はゆっくり顔を上げた。
「そのうち、自分でも思うようになった。俺が大げさだったのかもしれない。あの線は本当に標準だったのかもしれない。俺が、間違っていたのかもしれない」
その声は低かった。
「でも、あった」
ダリオは原本を見た。
「あったんだ」
リーゼが静かに言った。
「ああ。あった」
その短いやり取りで十分だった。
騎士団医務メモを見つけた時のリーゼと同じだ。
完全に救われるわけではない。
過去が戻るわけでもない。
でも、自分の訴えが存在したことを確認できる。
それは、人を根元から支えることがある。
原本確認はさらに続いた。
安全監視線から伸びる補助回路の先に、別紙参照の記述があった。
『旧水脈補助施設への応用可能性あり。地域結界補助線との接続には、管理印同期が必要』
この一文で、黒石祠との距離がさらに縮まった。
ダリオが立ち上がる。
「ここだ。これが、黒石祠へ繋がる」
俺も鑑定する。
《安全監視線応用注記》
《旧水脈補助施設への応用可能性》
《地域結界補助線との接続》
《管理印同期》
《黒石祠地域封鎖術式との関連:極めて高い》
ラウルが唸る。
「リベル村だけの問題ではないな」
「はい」
俺は答えた。
「周辺村の井戸異常、水脈停滞、黒石祠の反応。全部繋がる可能性が高いです」
オルブライトは静かに言った。
「ローゼン侯爵家関連設備への限定調査命令を準備します」
その場にいた者たちの間に、また空気の変化が走った。
ここまでは、原本を確認する話だった。
だが、これからはローゼン家そのものへ踏み込む話になる。
技師個人の問題ではなくなる。
クラウスだけを切って終わり、という筋書きが崩れ始める。
グレン副長が言った。
「騎士団側にも報告する。ローゼン家護衛任務と腕輪の件も、別件ではなくなるかもしれない」
リーゼが彼を見る。
「つながりますか」
「断定はまだ早い」
グレン副長は慎重に言った。
「だが、同じ思想、同じ管理体系、同じ家の影が出ている。無関係として扱う方が不自然だ」
リーゼは静かに頷いた。
昼過ぎまでかけて、原本確認は終わった。
原本は再び保管庫へ戻され、四者封印が更新された。
ただし、写しは作成された。
安全監視線の頁。
施工者補助印。
技術顧問印。
応用注記。
使用者説明欄の空白。
これらは行政庁、防衛局、ギルド、技師組合でそれぞれ保管される。
もう、黒塗りの奥に戻すことはできない。
技師組合を出る時、ダリオは正門の前で足を止めた。
昨日も、一昨日も、この場所で足が重くなっていた。
だが今日は違った。
重いことに変わりはない。
けれど、足が地面に沈むような重さではなかった。
彼は門を見上げた。
「レオン」
「はい」
「記録してくれ」
俺は記録板を開いた。
「俺は、王都技師組合を除名された。口が悪く、上に逆らい、扱いづらい技師だった。それはたぶん事実だ」
ダリオは少し笑った。
「でも、俺が見た線はあった。俺が危険だと言った仕組みはあった。俺は、間違っていなかった」
俺はそのまま書いた。
リーゼが静かに言った。
「良い見出しだ」
ダリオは苦笑する。
「見出しか?」
「ああ。除名技師、では足りない」
「じゃあ何だ」
リーゼは少し考えた。
「黙らされても、見たものを忘れなかった技師」
ダリオは目を丸くした。
それから、顔を背けた。
「……やめろ。そういうのは効く」
「効かせた」
リーゼが少し笑った。
その笑いにつられて、俺も少しだけ笑った。
宿へ戻ると、すぐにリベル村への報告を書いた。
『黒塗り前の施工補助図原本を確認。
安全監視線の記載あり。
内容:炉出力傾向を外部端子で記録し、必要時、管理補助盤との紐付け可能。
使用者説明欄は空白。
黒石祠管理印と、原本内の施工者補助印を照合。一致率九十七%。
ローゼン侯爵家技術顧問印あり。
旧水脈補助施設への応用可能性、地域結界補助線との接続、管理印同期に関する注記あり。
地域封鎖術式との関連極めて高い。
行政庁はローゼン侯爵家関連設備への限定調査命令を準備。
原本写しは行政庁・防衛局・ギルド・技師組合で保管。原本は再封印済み』
最後に、ダリオの言葉を入れた。
『俺は、間違っていなかった』
そして、リーゼの言葉も添えた。
『黙らされても、見たものを忘れなかった技師』
ダリオはその文を見て、かなり嫌そうな顔をした。
「それ、送るのか」
「送ります」
「絶対セリアが泣くぞ」
「泣くかもしれません」
「トマは茶化す」
「たぶん」
「ニコルは綺麗に写す」
「間違いなく」
ダリオは深くため息を吐いた。
だが、消せとは言わなかった。
「……まあ、いい」
夜、俺は個人記録を書いた。
『黒塗り前の原本を確認した。
安全監視線は存在した。
管理補助盤との紐付け可能性も、使用者説明欄の空白も、施工者補助印も、ローゼン侯爵家技術顧問印も、そこにあった。
ダリオは“俺は、間違っていなかった”と言った。
何年も遅れた言葉だった。
遅すぎた。
それでも、届いた。』
筆を置く。
王都の夜は、まだ明るい。
けれど今夜、その明るさは少しだけ違って見えた。
黒塗りの奥にあった線は、もう隠れていない。
黙らされた技師の記録は、ようやく自分の声を取り戻し始めていた。




