第86話 原本持ち出し未遂
クラウス・ベルナーが拘束されたという報せは、夜明け前の王都を静かに走った。
鐘が鳴るより早く、行政庁の一角には灯りがついていた。
大きな事件の時ほど、王都は騒がない。
表向きは、いつも通りに動く。
パン屋は窯に火を入れ、巡回兵は石畳を歩き、行政庁の職員は眠そうな顔で書類を抱えて廊下を行き来する。
けれど、紙の上ではすでに多くのものが動いていた。
技師組合原本保管庫前。
夜間。
無申請。
複製鍵使用。
封印解除針。
複写石。
小型封印袋。
焼却用魔石。
そして、クラウス本人の発言。
『無能な鑑定士や除名技師に好き勝手読ませるわけにはいかない』
それは、失言というより自白に近かった。
少なくとも、原本を中立に保全しようとする者の言葉ではない。
俺たちが行政庁へ呼ばれたのは、朝日が王都の城壁を照らし始めた頃だった。
宿を出る時、ダリオはいつもの工具箱を持っていなかった。
そのことに気づき、俺は尋ねた。
「工具箱は?」
「置いてきた」
短い返事だった。
「今日は技師として原本を見る日じゃない。昔の俺が黙らされた件を、今の俺が見届ける日だ」
リーゼはそれを聞いて、少しだけ頷いた。
「なら、剣も今日は抜かない」
「いつも抜かないでください」
俺が言うと、リーゼは真顔で答える。
「努力する」
「そこは断言してほしいです」
ダリオが少しだけ笑った。
緊張はしている。
だが、昨夜の報せを聞いた直後よりは、顔が落ち着いていた。
行政庁の小会議室には、オルブライト、ラウル査察官、ギルド記録官が揃っていた。
机の上には、クラウスから押収された道具が一つずつ並べられている。
封印解除針。
複写石。
小型封印袋。
焼却用魔石。
そして、技師組合資料保管庫の複製鍵。
ラウルはその鍵を指で軽く叩いた。
「この鍵は、返却済みとして組合記録に処理されていた」
ダリオが低く言う。
「保険ってやつだな」
「保険?」
「技師は、後で必要になるかもしれない道具や鍵を手元に残したがる。もちろん、まともな奴は返す。残す奴は、自分の判断の方が規則より上だと思ってる」
「クラウスもそうだと?」
「昔からそうだった」
ダリオは複製鍵を見つめた。
「あいつは、自分の頭の中ではいつも“正しい処理”をしてる。だから厄介なんだ。悪事をしてる顔じゃなく、世界の間違いを直してやってる顔をする」
リーゼが静かに言った。
「腕輪を着けた者たちと似ているな」
「そうだな」
ダリオは苦く笑う。
「相手を壊してるのに、管理してやってる顔をする」
オルブライトは押収品目録を俺たちに示した。
「本日は、クラウス氏本人への確認聴取を行います。ダリオ氏には、必要があれば当時の技師組合手続きについて技術説明をお願いしたい。ただし、直接感情的な応酬は避けてください」
「善処する」
ダリオが答えた。
ラウルが眉を上げる。
「善処では困る」
「殴らない。怒鳴らない。記録に残る言葉だけ言う」
「よし」
リーゼが横で頷いた。
「私が止める」
「斬りそうになったら?」
ダリオが言うと、リーゼは少し考えた。
「今日はたぶん斬らない」
「たぶんを外せ」
ラウルが低く言った。
「はい」
リーゼは素直に答えた。
クラウスは別室にいた。
拘束と言っても、縄で縛られているわけではない。
行政庁内の聴取室に座らされ、左右に防衛局員が立っている。
身なりは整っていた。
髪も乱れていない。
手袋も外されてはいるが、机の上にきちんと畳まれている。
それでも、昨日までの余裕はなかった。
目の下に薄い影がある。
俺たちが入ると、クラウスはまず俺を見た。
次にダリオ。
最後にリーゼ。
「随分と早いですね」
声はまだ冷静だった。
「見世物にするつもりですか」
俺は記録板を開いた。
『クラウス・ベルナー、聴取室にて発言。見世物にするつもりですか』
クラウスの視線が筆先に落ちる。
彼は小さく笑った。
「またそれですか」
「はい」
俺は答えた。
「今日も記録します」
オルブライトが席につき、淡々と始めた。
「クラウス・ベルナー氏。昨夜、あなたは王都技師組合の原本保管庫前で、無申請のまま複製鍵を用いて入室しようとしていました。まず、その目的を説明してください」
「原本の保全確認です」
「夜間に?」
「急を要すると判断しました」
「誰の指示ですか」
「私自身の判断です」
オルブライトの筆が止まらない。
「ローゼン侯爵家からの指示は」
「ありません」
「技師組合上層部からの指示は」
「ありません」
「では、単独判断」
「技師としての責任に基づく判断です」
ダリオが小さく息を吐いた。
クラウスはその音を聞き逃さなかった。
「何か言いたそうですね、ダリオ」
ラウルが制するより早く、ダリオが落ち着いた声で答えた。
「言いたいことはある。でも、今は質問された時だけ答える」
クラウスは一瞬、つまらなそうな顔をした。
挑発が空振りしたからだろう。
オルブライトは押収品を一つずつ示した。
「封印解除針。これは?」
「保管庫の封印状態を確認するためです」
「複写石」
「原本の状態を複写保全するため」
「小型封印袋」
「必要があれば、一時的に資料を保護するため」
「焼却用魔石」
そこで、ほんの少しだけクラウスの表情が硬くなった。
「危険術式が暴走した場合の処理用です」
ラウルが低く言った。
「紙資料の保管庫で、焼却用魔石を?」
「古代術式関連資料には、記録符や反応符が添付されている場合があります。万一、危険反応があれば処理する必要がある」
「その危険判断を、あなた一人で行うつもりだったのか」
「私は専門技師です」
「質問に答えろ。一人で行うつもりだったのか」
クラウスは少し沈黙した。
「状況次第です」
「つまり、行う可能性があった」
ラウルが言う。
「そのような言い方は不当です」
「記録上はそうなる」
クラウスの頬がわずかに引きつった。
オルブライトは次に、昨夜の発言記録を読み上げた。
『無能な鑑定士や除名技師に好き勝手読ませるわけにはいかない』
読み終えると、部屋に沈黙が落ちた。
「この発言に間違いはありますか」
クラウスは、俺とダリオを見た。
唇が動きかけ、止まる。
「言葉が過ぎました」
「発言自体は認める、でよろしいですか」
「……はい」
俺は記録する。
『クラウス、発言を認める。ただし“言葉が過ぎた”と弁明』
ダリオは静かだった。
不思議なくらい静かだった。
かつてなら、ここで怒鳴っていただろう。
少なくとも、本人はそう言っていた。
けれど今は、机の上の焼却用魔石を見つめている。
クラウスが言った。
「原本は、慎重に扱われるべきものです。昨日今日で出てきた者たちに、断片的に解釈されていいものではない」
ダリオが顔を上げた。
「昨日今日で出てきたわけじゃない」
声は低かった。
「俺は昔、そこに書かれているものを見た。報告した。黙らされた。何年も前から続いてる」
「君の主観です」
「だったら原本を見ればいい」
ダリオは即座に言った。
「黒塗りも補修もしてない原本をな」
クラウスの目が細くなる。
「原本を見たところで、君は自分に都合よく読むでしょう」
「それを防ぐために、行政庁、防衛局、ギルド、記録者がいる。あんただけが読まないための場だ」
クラウスは鼻で笑った。
「除名技師が、ずいぶん立派なことを言う」
ダリオの手が少し動いた。
リーゼの視線が、その手へ落ちる。
ダリオは自分で気づき、手を開いた。
「俺は除名技師だ」
彼は言った。
「それは事実だ。口も悪かった。上にも逆らった。だが、原本を燃やそうとして夜中に鍵を差したのは俺じゃない」
クラウスの顔色が変わった。
「燃やそうとしたとは言っていない!」
「なら、なぜ焼却用魔石を持っていた」
「危険処理用だと何度も――」
「危険だったのは原本か? それとも原本を見られることか?」
その言葉に、聴取室の空気が凍った。
クラウスは立ち上がりかけた。
防衛局員が一歩動く。
ラウルの声が飛んだ。
「座れ」
クラウスは歯を食いしばり、ゆっくり座り直した。
ダリオは、それ以上追い詰めなかった。
ただ、椅子に背を預け、小さく息を吐いた。
「俺は昔、黙らされた」
静かな声だった。
「だから今は黙らない。でも、あんたみたいに燃やしにも行かない」
クラウスは何も言わなかった。
オルブライトは淡々と記録を確認した。
「本件により、ローゼン侯爵家関連施工補助図原本の保管状態に重大な懸念が生じました。行政庁として、当該原本の保全管理を一時的に行政庁管理下へ移す手続きを開始します」
クラウスが顔を上げる。
「技師組合資料を、行政庁が?」
「原本確認要求中に、補修記録者本人が夜間無申請で保管庫へ接近し、焼却用魔石を所持していたためです」
「不当です」
「異議は正式文書で受け付けます」
その一言に、ダリオが小さく笑いそうになった。
クラウスはそれ以上言えなかった。
聴取後、俺たちは技師組合へ向かった。
今度は正門からではなく、行政庁と防衛局の立ち会いのもと、資料保管棟へ向かう。
組合側の職員たちは、明らかに緊張していた。
昨日まで、自分たちの管理下だった資料に、行政庁の封印札が貼られようとしている。
それは技師組合にとって、かなり屈辱的なことなのだろう。
モルツ資料管理官が青い顔で立っていた。
「これは一時措置ですな」
オルブライトが頷く。
「はい。一時措置です。ただし、原本確認終了まで解除しません」
「組合の信用に関わります」
「原本が失われる方が、信用に関わります」
返す言葉がなかった。
保管庫の扉の前に、行政庁、防衛局、ギルド、技師組合の四者が揃った。
扉の封印状態を確認する。
昨夜クラウスが鍵を差した跡はある。
だが、扉は開いていない。
俺が鑑定する。
《原本保管庫扉》
《状態:未開封》
《外部接触痕:あり》
《封印破損:なし》
《鍵穴反応:複製鍵接触》
《内部資料:保全状態不明・未確認》
「扉は未開封。封印破損なし。鍵穴に複製鍵接触痕あり」
ギルド記録官が書く。
オルブライトが封印札を取り出した。
行政庁の印。
防衛局の印。
ギルドの確認印。
そして、技師組合側の立ち会い印。
四重に封印される。
ダリオはその様子を黙って見ていた。
かつて、自分の告発文書が棚の奥へ押し込まれた場所。
今、その奥にある原本が、初めて外部の目で守られようとしている。
「どうですか」
俺が聞くと、ダリオは少し考えた。
「変な感じだ」
「変な?」
「昔の俺が見たら、腹を立てると思う。今さらかってな」
「今のあなたは?」
「今の俺も、少し腹が立つ」
彼は苦笑した。
「でも、少し安心してる。腹が立つのと安心するの、両方だ」
「両方ですね」
「ああ。最近、そればっかりだ」
リーゼが静かに言った。
「悪くない」
「そうか」
「少なくとも、片方をなかったことにしなくていい」
ダリオは彼女を見て、少しだけ笑った。
「お前、いいこと言うようになったな」
「リベル村の影響だ」
「感染力が強いな」
保管庫の前で、オルブライトが正式に宣言した。
「ローゼン侯爵家関連施工補助図原本について、原本確認終了まで行政庁、防衛局、冒険者ギルド、技師組合四者立ち会いによる共同保全とします。単独開封、単独閲覧、単独移送を禁じます」
その言葉が、廊下に落ちた。
技師組合の職員たちは不満そうだったが、誰も反論しなかった。
クラウスが捕まった後では、反論の根拠が弱すぎる。
帰り道、ダリオは技師組合の正門を振り返った。
「昔は、あの門から追い出された」
彼は言った。
「今日は、あの中の原本が外へ逃げないように封じた」
「違う形で戻りましたね」
「ああ」
彼は少しだけ目を細めた。
「嫌な戻り方だが、悪くはない」
行政庁へ戻ると、正式な報告書作成が始まった。
クラウスの聴取内容。
押収品目録。
保管庫接触記録。
保管庫封印記録。
原本共同保全措置。
紙が積み上がっていく。
だが、今回は誰かを押し潰すためだけの紙ではない。
原本を燃やさせないための紙だ。
夜、リベル村へ報告を書いた。
『クラウス・ベルナー、原本保管庫接近について聴取。
本人は原本保全目的と主張。
押収品:封印解除針、複写石、小型封印袋、焼却用魔石、保管庫複製鍵。
焼却用魔石については危険術式処理用と弁明。
ダリオは“危険だったのは原本か、それとも原本を見られることか”と発言。
クラウスは明確に答えられず。
原本保管庫は未開封。封印破損なし。鍵穴に複製鍵接触痕あり。
ローゼン侯爵家関連施工補助図原本は、原本確認終了まで行政庁・防衛局・ギルド・技師組合共同保全へ移行。単独開封、単独閲覧、単独移送は禁止』
最後に、ダリオの言葉を添える。
『俺は昔、黙らされた。だから今は黙らない。でも、燃やしにも行かない』
書き終えると、ダリオは少し照れたように顔を背けた。
「それも送るのか」
「大事なので」
「お前の“大事”は、だいたい逃げ道を塞ぐな」
「塞いだ方がいい逃げ道もあります」
リーゼが笑った。
「リベル村式だな」
王都の夜は、少し冷えた。
だが、原本は残っている。
燃えなかった。
消えなかった。
差し替えられなかった。
黒塗りの奥にあるものは、まだそこにある。
次は、それを開く番だった。




