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第85話 クラウスの切り捨て

 ローゼン侯爵家の門は、王都の中でも特に静かだった。


 高い鉄柵。

 磨かれた石畳。

 紋章入りの門柱。

 門番の立ち姿にさえ、貴族家の威圧が染み込んでいる。


 クラウス・ベルナーは、その門の前で馬車を降りた。


 雨上がりの空気が、まだ少し湿っている。


 彼は手袋を直し、いつものように背筋を伸ばした。


 王都技師組合に所属する高位技師。

 ローゼン家案件にも長く関わってきた専門家。

 管理委員会にも推薦技師として参加してきた男。


 そういう顔を作った。


 だが、門番の目は冷たかった。


「クラウス・ベルナー技師です。侯爵閣下に至急お目通りを」


 門番は一度だけ頭を下げた。


 形だけだった。


「本日、侯爵閣下はご面会の予定を受けておりません」


「予定の有無を聞いているのではありません。至急と伝えなさい」


「伝えるようには申しつかっておりません」


 クラウスの眉が動いた。


 彼はすぐには怒らなかった。


 ここは行政庁の廊下ではない。

 技師組合の資料室でもない。

 王都でも特に力を持つ侯爵家の門前だ。


 感情を見せる場所ではない。


「私が誰か、分かっているのですか」


「クラウス・ベルナー技師でいらっしゃいます」


「ならば通しなさい」


「通すようには申しつかっておりません」


 同じ言葉。


 それが、答えだった。


 クラウスは門番を見つめた。


 門番の背後、屋敷へ続く道はまっすぐ伸びている。

 彼は何度もこの道を通った。


 ローゼン家の別邸結界炉。

 保管設備。

 管理印。

 安全監視線。

 施工補助図。

 黒塗り。

 補修記録。


 この家のために、自分は何度も面倒な処理をした。

 都合の悪い線を標準機能と呼び、説明を省き、記録を整え、必要なものを隠した。


 その自負があった。


 なのに、門は開かない。


「……侯爵閣下に、クラウスが来たとだけ伝えなさい」


「お引き取りください」


 門番の声は変わらなかった。


 クラウスの奥歯が、かすかに鳴った。


「分かりました」


 彼は低く言った。


「では、アルヴィン殿へ。侯爵閣下でなくとも構いません」


「アルヴィン様も、本日はご面会を受けておりません」


 完全な拒絶だった。


 クラウスはそこでようやく理解した。


 切られたのだ。


 まだ正式に言われていないだけで、ローゼン家は自分を外へ置いた。


 門の内側ではなく、外側へ。


 かつてダリオ・ガンツを技師組合の外へ追い出した時と同じように。


 自分が、今度は追い出される側に回った。


「……後悔しますよ」


 思わず出た言葉だった。


 門番は、何も答えなかった。


 反応すらしない。


 クラウスは馬車へ戻った。


 手袋の内側で、指先が冷えていた。


 ローゼン侯爵家の執務室では、その頃、侯爵が報告を聞いていた。


 アルヴィンは静かに頭を下げる。


「クラウスが門前へ来ました。面会は拒否しております」


「当然だ」


 侯爵は書類から目を上げない。


「今、あれを屋敷へ入れる理由がない」


「かなり動揺しているようです」


「動揺する程度には、自分の立場が見えているということだ」


 侯爵は机の上の報告書を指先で押さえた。


 そこには、行政庁からの新しい動きがまとめられている。


 安全監視線の存在。

 第三者証言。

 推定関連一致率九十一%。

 黒塗り解除および原本確認要求。

 クラウス測定具の提出外機能。

 頁二十一補修記録者、クラウス・ベルナー。


 そして、リーゼ・ヴァルトの騎士団異議申立書。


 侯爵はその項目で、ほんの少しだけ目を細めた。


「グレンが動いたか」


「はい。騎士団副長グレン・バルナードが、リーゼ・ヴァルトの件を正式に確認対象としました」


「堅物め」


 侯爵は小さく吐き捨てた。


「騎士団の面子を守るなら、もっと鈍く動けばよいものを」


「現時点では、騎士団全体がリベル村側についたわけではありません」


「分かっている」


 侯爵は書類を閉じた。


「問題は、火が複数の場所へ移り始めたことだ。技師組合、行政庁、防衛局、ギルド、騎士団。ひとつずつなら抑えられる。だが、同時に燃えれば厄介だ」


「クラウスを切れば、技師組合側の火は弱まりますか」


「弱める」


 侯爵は即答した。


「筋書きを作れ。クラウス個人の過剰判断。ローゼン家は、専門技師の説明を信じていた。安全監視線の詳細な運用や補修記録には関与していない。技術顧問印は形式的承認。これでよい」


 アルヴィンは少し沈黙した。


「施工補助図原本に、技術顧問印が残っていた場合は」


「形式的だったと言う」


「原本が出れば、相当厳しいかと」


「だから原本を出させるな」


 侯爵の声は低かった。


 アルヴィンは頭を下げる。


「承知しました」


「技師組合の保管庫は?」


「まだ組合管理下です。ただし、行政庁が原本確認を強く求めています。防衛局とギルドも同調」


「なら時間がない」


 侯爵は机の上の地図へ目を落とした。


 王都技師組合。

 行政庁。

 騎士団本部。

 ローゼン邸。

 そして、遠く離れたリベル村。


「クラウスは、追い詰められれば動く」


 アルヴィンは顔を上げた。


「動かしますか」


「動くように仕向ける。こちらから命じるな。命じれば、命令の痕跡が残る」


「では」


「孤立させろ。侯爵家は彼を守らない。技師組合も彼を切る準備を始めている。そう伝われば、あれは自分の身を守るために何かをする」


 侯爵は静かに笑った。


「原本を消すか、持ち出すか。どちらにせよ、彼個人の暴走として処理できる」


 アルヴィンの背筋に、冷たいものが走った。


「クラウスを囮にするのですか」


「囮ではない」


 侯爵は言った。


「不要になった駒が、最後に役立つだけだ」


 その言葉は、あまりに冷たかった。


 アルヴィンは頭を下げる。


「承知しました」


「ためらうな」


「……はい」


 侯爵は窓の外を見た。


「リベル村の連中は、紙を積み上げれば真実へ届くと思っている。ならば、届く前に、紙そのものを燃やせばいい」


 その頃、クラウスは技師組合の自室へ戻っていた。


 扉を閉めると、彼は机の上の書類を払い落とした。


 紙束が床に散らばる。


 音は軽かった。


 けれど、その軽さが余計に腹立たしかった。


「ふざけるな……」


 低い声が部屋に落ちた。


 ローゼン家は門を閉じた。

 技師組合の一部は距離を取り始めている。

 行政庁は黒塗り解除を求めている。

 防衛局は原本を見たがっている。

 ギルドは記録を集めている。

 ダリオは戻ってきた。

 リーゼは過去の見出しを書き換え始めた。

 レオンは淡々とすべてを記録している。


 あの追放鑑定士。


 あの記録板。


 あれが、一番腹立たしかった。


 声を荒げても、挑発しても、過去を抉っても、相手は怒鳴り返してこない。


 ただ記録する。


 クラウスは机に手をつき、呼吸を整えた。


 落ち着け。


 まだ終わっていない。


 黒塗り前の原本。


 それが出なければ、まだ逃げ道はある。


 安全監視線は標準機能。

 管理紐付けは悪用可能性に過ぎない。

 頁二十一の補修は破損対応。

 クラウス個人の過剰判断などではない。


 そう言い続けられる。


 だが、原本に技術顧問印が残っていれば。


 ローゼン家の承認印が明確に残っていれば。


 彼は終わる。


 いや、自分だけではない。


 ローゼン家も無傷では済まない。


 だからこそ、ローゼン家は自分を切る。


「……なら」


 クラウスは顔を上げた。


 ならば、先に動くしかない。


 保管庫の原本を確認する。


 必要なら、保全する。


 保全。


 そうだ。


 消すのではない。


 守るためだ。


 不完全な者たちの手に渡れば、原本は誤読される。

 ダリオのような除名技師に都合よく読まれる。

 追放鑑定士に勝手な鑑定をされる。

 行政庁に政治利用される。


 だから、守る。


 クラウスは自分にそう言い聞かせた。


 机の引き出しを開ける。


 中には、小さな道具箱がある。


 封印解除針。

 記録符の複写石。

 小型の封印袋。

 そして、魔石灯の奥に隠した焼却用の小石。


 彼は焼却用魔石を見て、少しだけ手を止めた。


 燃やすためではない。


 万一、危険な術式が暴走した時の処理用だ。


 そうだ。


 処理用。


 自分は、技師として正しいことをするだけだ。


 夜を待つ。


 クラウスは道具箱を閉じた。


 同じ頃、行政庁では、オルブライトとラウル査察官が別室で話していた。


 机の上には、クラウスの動向報告がある。


 ローゼン侯爵家門前で面会拒否。

 技師組合内で孤立傾向。

 証言聴取後、精神的動揺あり。

 原本確認要求への強い反発。


 ラウルは報告を読み、眉をひそめた。


「動くな」


「私もそう見ます」


 オルブライトは静かに答えた。


「原本保管庫を監視しましょう」


「技師組合は嫌がるぞ」


「嫌がるでしょう。ですが、原本確認を正式要求している以上、保全措置は必要です」


「クラウスが動けば、証拠になる」


「動かなくても、原本は守れます」


 ラウルはオルブライトを見た。


「時々、お前はかなり強引だな」


「よく言われます」


「誰に」


「主に、強引な方々に」


 ラウルは少し笑った。


「よし。防衛局からも人を出す。ギルドにも声をかけろ。表向きは原本保全のための夜間監視だ」


「はい」


 オルブライトはすぐに手配文を書き始めた。


 その筆は速い。


 余計な言葉はない。


『王都技師組合保管庫内、ローゼン侯爵家関連施工補助図原本について、原本確認要求中につき、夜間保全監視を実施する』


 行政庁の紙も、時には刃になる。


 宿では、俺たちもクラウスの面会拒否の噂を聞いていた。


 情報を持ってきたのは、ギルド記録官だった。


「ローゼン侯爵家が、クラウスとの面会を拒んだようです」


 ダリオは椅子に座ったまま、顔を上げた。


「切り始めたか」


「その可能性が高いです」


 リーゼが言う。


「危険だな」


「ええ」


 俺も頷いた。


「切られた人間は、自分を守るために動くかもしれません」


 ダリオが苦い顔で笑った。


「俺は切られた後、酒飲んで旅に出たぞ」


「全員がそうとは限りません」


「だな」


 彼は窓の外を見た。


 王都の夜が近づいている。


「クラウスは、俺みたいに放浪できる奴じゃない。あいつは王都の中でしか息ができない。組合と貴族家の名前が、自分の骨みたいになってる」


「それを失いそうなら?」


「暴れる」


 ダリオは即答した。


「静かに、書類っぽく、技術者っぽく暴れる。燃やすか、隠すか、差し替えるか」


 リーゼが眉を寄せる。


「原本か」


「たぶんな」


 俺は記録板を開いた。


「行政庁に警戒を伝えます」


「もうしていると思うが、重ねておけ」


 ダリオは言った。


「俺がクラウスなら、今夜動く」


 その言葉は、少し重かった。


 元同じ技師組合にいたからこそ分かる感覚なのだろう。


 俺はすぐに短い文書を書いた。


『クラウス・ベルナーは、ローゼン侯爵家より切り離されつつある可能性あり。心理的に追い詰められた場合、原本の持ち出し、改変、破棄を試みる恐れ。ダリオ・ガンツ氏の見解では、今夜動く可能性あり』


 ギルド記録官がそれを受け取り、行政庁へ走った。


 夜。


 王都技師組合の廊下は、昼間とは別の顔をしていた。


 職員の声は消え、工房棟の炉も低く落とされている。


 窓の外には薄い雲。


 月明かりは弱い。


 クラウスは、黒い外套を羽織って歩いていた。


 足音を消す。


 手には道具箱。


 目的地は、資料保管棟の奥。


 原本保管庫。


 彼は鍵束を取り出した。


 正規の鍵ではない。

 補修担当者として、かつて預かった複製鍵のひとつだ。


 返却したことになっている。


 だが、手元に残した。


 技師なら、保険を持つ。


 そう自分に言い訳して。


 保管庫前の廊下に着く。


 誰もいない。


 クラウスは鍵を差し込んだ。


 その瞬間。


「そこまでです」


 静かな声が響いた。


 クラウスの手が止まる。


 廊下の奥に、灯りがともった。


 オルブライト行政官が立っていた。


 その隣に、ラウル査察官。

 さらに、ギルド記録官と防衛局員が二人。


 逃げ場はない。


 クラウスはゆっくりと振り返った。


「……これは、何の真似ですか」


 オルブライトは答える。


「原本保全監視です」


「私は、原本の状態を確認しに来ただけです」


「夜間に、無申請で、複製鍵を用いて?」


 ラウルの声は低い。


 クラウスは手袋を直した。


「技師として、保管状態に不安がありました。行政庁や防衛局のような外部者に任せておけない」


「道具箱を開けろ」


 ラウルが言った。


「これは私物です」


「開けろ」


 クラウスは少し黙った。


 それから、ゆっくりと道具箱を開けた。


 封印解除針。

 複写石。

 小型封印袋。

 そして、焼却用魔石。


 ギルド記録官が息を呑んだ。


 オルブライトは表情を変えない。


「焼却用魔石」


「危険術式暴走時の処理用です」


「原本保管庫で?」


「念のためです」


 ラウルが一歩前へ出た。


「クラウス・ベルナー。あなたを、原本保全妨害未遂の疑いで一時拘束する」


「ふざけるな!」


 初めて、クラウスが声を荒げた。


「私は技師だ! あの原本を、無能な鑑定士や除名技師に好き勝手読ませるわけにはいかない!」


 廊下に声が響く。


 その瞬間、クラウス自身も気づいたのか、表情を凍らせた。


 オルブライトが静かに言った。


「その発言も記録します」


 クラウスは唇を噛んだ。


 防衛局員が彼の道具箱を押さえる。


 鍵も回収される。


 原本保管庫の扉は、開かなかった。


 その夜遅く、宿に連絡が届いた。


 クラウスが原本保管庫前で拘束された。


 焼却用魔石を所持。

 複製鍵を使用。

 発言記録あり。


 ダリオは報告を聞き、しばらく黙っていた。


 リーゼも何も言わない。


 俺は、記録板を開いた。


「ダリオさんの予測通りでした」


 ダリオは苦笑した。


「当たってほしくなかったな」


「原本は守られました」


「ああ」


 彼は窓の外を見た。


「守られた」


 その声には、安堵だけではないものが混じっていた。


 自分が昔守れなかった紙。

 握り潰された告発。

 黒塗りされた線。


 それらに繋がる原本が、今夜は燃えずに済んだ。


 俺は個人記録を書いた。


『クラウス・ベルナー、ローゼン侯爵家より面会拒否。切り離しが始まった可能性。

夜、王都技師組合原本保管庫前で拘束。

複製鍵、封印解除針、複写石、小型封印袋、焼却用魔石を所持。

本人は原本保全目的と主張。

ただし、“無能な鑑定士や除名技師に好き勝手読ませるわけにはいかない”と発言。

原本は未開封。保全成功。』


 最後に書く。


『人を切り捨てる側だった者が、切り捨てられる側になった。

だが、それで終わりではない。

切られた者は、燃やすための火を持っていた。

今夜、その火は原本へ届かなかった。』


 王都の夜は、いつもより冷たく感じた。


 けれど、冷たいままでもよかった。


 少なくとも今夜、黒塗りの奥に眠る原本は、まだ残っている。

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