第84話 リーゼ、過去の見出しを書き換える
異議申立書を書くための紙は、王都行政庁のものだった。
質は良い。
薄すぎず、厚すぎず、筆を置いても墨が滲みにくい。
けれど、リーゼはその紙を前にして、しばらく何も書けなかった。
宿の小部屋には、俺とダリオがいる。
机の上には、騎士団から受け取った写しが並べられていた。
リーゼ本人の確認文。
腕輪解除時の鑑定写し。
剣技回路回復記録。
医務担当見習いエルマ・レインの私的メモ。
追加の診察補助メモ。
受領簿の削損記録。
グレン副長の確認書。
紙が増えた。
それは味方が増えたようにも見える。
でも、リーゼにとっては、自分の傷がひとつずつ机に並べられているようでもあるのだろう。
彼女は筆を持ったまま、ずっと白紙を見ていた。
「急がなくていい」
ダリオが言った。
珍しく、声が柔らかかった。
「こういう紙は、急いで書くと後で腹が立つ」
「経験談か」
「山ほどある」
リーゼは少しだけ笑った。
「なら、助言として聞く」
俺は記録板を開かずに待っていた。
今は記録するより、彼女が最初の一文字を選ぶ時間が必要だと思った。
リーゼはやがて、ゆっくりと筆を置いた。
『異議申立書』
最初の文字は、少し硬かった。
それから、彼女は一度息を吸い、続きを書き始める。
『私、リーゼ・ヴァルトは、王都騎士団記録におけるローゼン侯爵家護衛任務離脱に関し、以下の通り異議を申し立てる。』
そこまで書くと、手が止まった。
リーゼは目を閉じる。
「この一文だけで、昔の自分に戻りそうになる」
「昔の自分?」
「騎士団の文書を書く時の自分だ。余計な感情を消して、正確に、短く、命令に合うように書く。怒りも、怖さも、悔しさも、全部削る」
ダリオが腕を組んだ。
「削るな」
リーゼが彼を見る。
「少しは削らないと、書類にならない」
「全部削るなってことだ」
ダリオは机の紙を指した。
「事実だけでいい。でも、誰の事実なのかまで消したら、また王都の紙になる」
リーゼは黙った。
それから、少し困ったように笑った。
「お前に書類の助言をされる日が来るとはな」
「俺が一番、書類で殴られてきたからな」
「説得力がある」
彼女は再び筆を持った。
今度は、少しだけ字が変わった。
硬さの中に、本人の呼吸が入った。
『当時、私はローゼン侯爵家令嬢護衛任務中に腕輪を装着された。
腕輪装着後、右手反応に遅延が生じ、剣技動作開始時に本人意思と身体動作の間にずれが発生した。
私はこれを疲労や精神的問題ではなく、腕輪による異常であると認識し、複数回訴えた。』
リーゼは、医務メモの写しを見た。
そこにはエルマ・レインの筆跡がある。
小さな、けれど消えなかった文字。
『医務担当見習いエルマ・レイン氏の私的メモには、私の右手反応鈍化、腕輪異常の訴え、剣技動作開始時のみの遅延、再検査必要との記述がある。
また、追加の診察補助メモには、精神的疲労のみとする診断は危険、腕輪解除を再提案すべき、上級医へ報告予定との記述がある。』
筆が止まった。
リーゼは小さく息を吐く。
「この人の名前を書くと、少し怖い」
「なぜですか」
俺が聞くと、リーゼは紙から目を離さずに言った。
「巻き込むことになるかもしれない」
その心配は、彼女らしかった。
自分が傷つけられた記録なのに、記録を残した医務見習いのことを気にしている。
ダリオが言った。
「名前を消すと、その人が見ていたことも消える」
「……そうだな」
「王都は、名のない善意をすぐ都合よく片づける。残すなら名前だ」
リーゼは頷いた。
「残す」
彼女はさらに書いた。
『私は、エルマ・レイン氏の名を記録に残すことを求める。
同氏の記録は、私の訴えが単なる自己申告ではなく、当時第三者によって観察されていたことを示すものである。』
そこで、彼女の手が震えた。
俺は水を差し出した。
「休みますか」
「少しだけ」
リーゼは水を飲んだ。
窓の外では、王都の馬車の音がする。
リベル村の水車とは違う音だ。
彼女は窓の方を見ず、机の上の紙だけを見ていた。
「次が、一番書きづらい」
「どこですか」
「私は逃げていない、というところだ」
その言葉に、ダリオは黙った。
俺も何も言わなかった。
それは、彼女自身が書かなければならない一文だった。
リーゼは筆を持つ。
しばらく白い余白を見つめてから、はっきりと書いた。
『私は、任務から逃亡したのではない。
私は、腕輪により剣技回路を封じられ、騎士として任務を継続できない状態に追い込まれた。
異常を訴えたが、再検査は行われず、正式記録には腕輪の異常も私の訴えも残されなかった。
その結果、私の記録は“任務離脱”として未処理のまま止まった。』
筆先が、そこでわずかに紙を押した。
墨が少しだけ濃くなる。
『私は逃亡者ではない。
私は、封じられた剣を抱えて、生き延びた者である。』
部屋が静かになった。
その一文は、書類の中では少しだけ異質だった。
制度的な言葉ではない。
でも、削ってはいけない言葉だった。
ダリオが低く言った。
「いい」
リーゼは顔を上げない。
「書類としては、感情的すぎるか」
「いい」
ダリオはもう一度言った。
「それがないと、ただの訂正文だ。これは、お前の記録だろ」
リーゼは小さく頷いた。
俺は胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
王都の記録は、彼女に見出しをつけた。
任務離脱者。
それは短く、便利で、冷たい言葉だった。
でも今、彼女は自分で見出しを書き換えている。
封じられた剣を抱えて、生き延びた者。
それは長い。
制度には少し扱いにくい。
でも、真実に近い。
リーゼは続けた。
『現在、私は本人意思によりリベル村に滞在し、同村の防衛役を務めている。
リベル村において腕輪は解除され、剣技回路の回復が記録された。
私は騎士団への復帰を求めるものではない。
ただし、過去の記録が不完全なまま残り続けることには異議を申し立てる。
私は、自分の過去をなかったことにしたいのではない。
正しく記録してほしいのである。』
書き終えた時、リーゼは筆を置いた。
手が震えていた。
けれど、書き直そうとはしなかった。
「読んでくれ」
彼女は俺に紙を渡した。
俺は一文ずつ声に出して読んだ。
部屋に、リーゼの言葉が落ちていく。
逃亡者ではない。
封じられた剣を抱えて、生き延びた者。
騎士団への復帰を求めるものではない。
正しく記録してほしい。
読み終えると、ダリオはしばらく黙っていた。
やがて、頭をかいた。
「悪い。上手いこと言えん」
「珍しいな」
リーゼが少しだけ笑う。
「茶化してもいいぞ」
「いや、今日はやめとく」
ダリオは椅子にもたれた。
「いい文だ。腹が立つくらい、いい文だ」
「腹が立つのか」
「王都の記録にこれを書かせるまで、何年かかったんだって思うと腹が立つ」
「そうか」
リーゼは紙を受け取った。
「私も腹が立っている」
「なら、いい」
俺たちはその異議申立書を持って、行政庁へ向かった。
小会議室には、オルブライト、ラウル査察官、グレン副長、ギルド記録官が集まっていた。
リーゼは席に着く前に、グレン副長へ向かって言った。
「書きました」
グレン副長は頷いた。
「読ませてもらう」
彼は異議申立書を受け取り、立ったまま読み始めた。
最初は表情を変えなかった。
だが、『私は逃亡者ではない』の一文で、視線が止まった。
そして、『封じられた剣を抱えて、生き延びた者である』で、ほんの少しだけ眉間に皺が寄った。
読み終えた後、彼はしばらく紙を持ったまま黙っていた。
「……重い文だ」
そう言った。
リーゼは背筋を伸ばしている。
「軽く書けませんでした」
「軽く書く必要はない」
グレン副長は机に紙を置いた。
「騎士団として、正式に受理する」
その言葉に、リーゼの肩がほんの少し揺れた。
オルブライトが確認する。
「行政庁も写しを保管します。防衛局、ギルドも記録として受領します」
ラウル査察官が頷いた。
「逃亡者ではない。封じられた剣を抱えて生き延びた者。これは、見出しとして強いな」
リーゼは少し困った顔をした。
「見出し、ですか」
「記録は見出しで人を縛ることがある」
ラウルは言った。
「なら、見出しを変えることも必要だ」
グレン副長は、異議申立書をもう一度見た。
「ただし、正式修正には審査がいる。騎士団上層部は抵抗するかもしれない。ローゼン家の名も関わる。すぐには終わらない」
「分かっています」
リーゼは答えた。
「でも、もう未処理のままにはしません」
「その通りだ」
グレン副長はまっすぐ彼女を見た。
「私が手続きを進める。途中で止めない」
リーゼは深く頭を下げた。
「お願いします」
「礼は、まだ早い」
「それでも、お願いします」
グレン副長は少しだけ目を伏せた。
「承知した」
その後、事務的な確認が続いた。
異議申立書に添付する資料。
一、リーゼ本人確認文。
二、腕輪解除鑑定写し。
三、剣技回路回復記録。
四、医務担当見習いエルマ・レインの私的メモ。
五、追加診察補助メモ。
六、受領簿削損記録。
七、リベル村防衛役登録記録。
八、現地閲覧条件書。
並べると、かなりの厚みになった。
ダリオがそれを見て言う。
「紙の盾どころか、紙の城壁だな」
リーゼが少し笑った。
「それでも、騎士団の石壁よりは薄い」
「だが、こっちの方がよく刺さる」
ラウルが言った。
「事実でできているからな」
会議が終わった後、グレン副長がリーゼを呼び止めた。
「リーゼ」
「はい」
「ひとつ確認する。記録が修正された場合、騎士団への復帰を求めないという意思は変わらないか」
「変わりません」
「理由を聞いても?」
リーゼは少し考えた。
「私は、騎士団で剣を学びました。それは今も自分の一部です。ですが、今の私が守りたい場所はリベル村です」
彼女はまっすぐ言った。
「あの村には、私の剣を必要としてくれる人がいます。剣だけではなく、私自身を見てくれる人がいます」
グレン副長は静かに聞いていた。
「そうか」
短い返事だった。
だが、軽くはなかった。
「良い場所を見つけたのだな」
「はい」
リーゼは今度も迷わなかった。
宿へ戻る道で、王都の空は珍しく晴れていた。
城壁の内側の空は狭い。
それでも、昨日より少し高く見えた。
リーゼは歩きながら、ぽつりと言った。
「少し、軽い」
「よかったです」
「全部終わったわけではないのにな」
「それでも、一つ書けました」
「そうだな」
ダリオが横から言う。
「俺も見出しを書き換えたいな」
「何から何へ?」
リーゼが聞く。
ダリオは少し考えた。
「除名技師から……豆の煮込みを愛する外部技師?」
「それでいいのか」
「いや、今のは違うな」
リーゼが小さく笑った。
その笑いは、王都に来てから一番柔らかかった。
夜、リベル村へ報告を書いた。
『リーゼ、騎士団記録への異議申立書を作成し、正式受理される。
内容は、任務中の腕輪装着、剣技回路封鎖、異常報告、医務メモの存在、再検査未実施、本人意思によるリベル村防衛役としての現在を記載。
リーゼは、騎士団への復帰を求めるものではなく、過去の記録を正しく修正するために申し立てた。
重要文:“私は逃亡者ではない。私は、封じられた剣を抱えて、生き延びた者である。”
グレン副長は正式に受理し、記録修正手続きを進めると約束。』
最後に、リーゼの言葉を添えた。
『今の私が守りたい場所はリベル村です』
書き終えると、リーゼはその文を見て、静かに頷いた。
「それは、必ず送ってほしい」
「はい」
俺は封をした。
リベル村に届けば、セリアはきっと何度も読むだろう。
トマは照れ隠しに騒ぎ、ニコルは丁寧に写し、村長は静かに頷く。
傷洗い草の芽は、少しずつ葉を開いているはずだ。
リーゼの過去も、今日、少しだけ光に開いた。
まだ小さい。
まだ弱い。
けれど、確かに地上へ出た。




