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第83話 騎士団医務メモ

 リベル村からの返書が王都へ届いたのは、昼を少し回った頃だった。


 封を開ける前から、なぜか分かった。


 これは、ただの返事ではない。


 村に残った者たちが、自分たちの場所で考え、迷い、線を引き直した結果だ。


 俺は行政庁の小会議室で、封書を開いた。


 オルブライト、ラウル査察官、ギルド記録官、ダリオ、リーゼが同席している。


 中には、ニコルの字で清書された現地閲覧条件書が入っていた。


 腕輪原本はリーゼ本人不在時、原則開封不可。

 本人同意が得られない場合、閲覧中止。

 技師組合単独閲覧不可。

 地下工房単独入室不可。

 井戸、水車、薬草予定地、旧水路への無断接近禁止。

 違反があれば閲覧中止。


 読み進めるにつれて、ダリオが口元を緩めた。


「強いな」


 リーゼは黙っていた。


 ただ、その目が一文で止まった。


『腕輪原本は、リーゼ・ヴァルト氏本人の被害記録に関わる物証であり、本人不在時の開封は原則認めない』


 リーゼはその箇所を指でなぞる。


 触れたわけではない。

 紙の上に、指を置いただけだ。


 それでも、その仕草には深いものがあった。


「……私の不在時には、開けない」


 声は小さかった。


「はい」


 俺は頷いた。


「セリアたちが決めました」


「そうか」


 リーゼは少しだけ息を吐いた。


「守られているな」


 ダリオが椅子にもたれた。


「リベル村、王都より証拠保全が上手いんじゃないか?」


 ラウルが真顔で言った。


「否定しづらいな」


 オルブライトも書類を確認しながら頷く。


「現地閲覧条件として妥当です。むしろ、非常に丁寧です」


「褒め言葉として村へ送ります」


 俺が言うと、ダリオが笑った。


「ニコルが喜ぶぞ。トマは“長いけど強い”って言うな」


 その時、会議室の扉が叩かれた。


 行政庁職員が入ってきて、オルブライトへ封筒を渡す。


「騎士団本部より、追加資料です。グレン副長から至急とのことです」


 リーゼの表情が引き締まった。


 グレン副長。


 騎士団の未処理記録。

 医務担当見習いエルマ・レインの私的メモ。

 削られた受領簿。


 昨日見つかったものだけでも十分に重かった。


 さらに何かが出たのか。


 オルブライトが封を開ける。


 中には、騎士団の確認印が押された写しと、グレン副長の短い添え書きが入っていた。


「読みます」


 オルブライトは一度、リーゼを見た。


 リーゼは頷く。


「お願いします」


 オルブライトは添え書きを読み上げた。


『旧医務補助記録の追加確認により、エルマ・レイン見習いが残した別紙診察補助メモを発見。正式診断書ではないが、リーゼ・ヴァルトの症状経過に関する記述あり。写しを送付する』


 リーゼの喉が小さく動いた。


 別紙。


 まだ、残っていたのか。


 オルブライトは写しを開いた。


 古い紙を写したものらしく、文字はところどころ薄い。

 だが、読める。


『リーゼ・ヴァルト。前回確認より二日後。右手反応遅延、改善なし。通常握力に大きな異常なし。剣技動作開始時、本人の意思と動作の間に遅れあり。本人は腕輪装着後から症状発生と主張。腕輪解除を再提案すべき。精神的疲労のみとする診断は危険。上級医へ報告予定』


 部屋が静まり返った。


 雨の音すら聞こえない。


 いや、今日は雨は降っていない。


 ただ、それくらい静かだった。


 リーゼは紙を見つめている。


 顔色は白い。


 けれど、目を逸らしていない。


「二日後にも……」


 彼女は呟いた。


「一度だけでは、なかった」


 グレン副長の添え書きには、さらに続きがあった。


『当該上級医への正式報告書は、現時点で未発見。医務室受領箱の該当期間に欠落あり。エルマ・レイン本人への所在照会を行う』


 ダリオが低く言った。


「欠落、か」


「はい」


 俺は記録板を開いた。


「医務室受領箱の該当期間に欠落。正式報告書は未発見」


 リーゼはゆっくりと座り直した。


 背筋は伸びている。

 だが、その姿勢は騎士団で叩き込まれたものではなく、自分を支えるためのものに見えた。


「私は、二度訴えていた」


 彼女の声は静かだった。


「一度目だけではなかった。少なくとも、エルマという人は、二度見てくれていた」


 ラウルが低く言う。


「これは大きい。単発のメモではなく、継続観察の記録だ」


 オルブライトも頷いた。


「しかも、“精神的疲労のみとする診断は危険”とあります。騎士団の主記録と矛盾します」


 ダリオは机を指で叩いた。


「誰かが途中で止めたな」


 その言葉は乱暴だった。


 だが、誰も否定しなかった。


 リーゼは紙から目を離さずに言った。


「私は、怒っていいのか」


 誰に聞いたのでもないような声だった。


 けれど、部屋の全員が聞いていた。


「嬉しい。残っていて嬉しい。私の言葉を見てくれた人がいたことが嬉しい」


 少しずつ、声が震える。


「でも、なぜ助けられなかったのかと思う。なぜ、ここまで書かれていたのに、私の記録は任務離脱で止まったのかと思う」


 彼女は顔を上げた。


「私は、怒っていいのか」


 ダリオが真っ先に答えた。


「いい」


 短い言葉だった。


 リーゼが彼を見る。


 ダリオは続けた。


「俺は昨日から、何度も同じことを考えてる。残っていてよかった。でも、残っていたなら、なぜ助けてくれなかった。両方でいいって、お前が言った」


「私が?」


「ああ。いや、最初に言ったのは俺かもしれんが、お前が受け取った。だから今度は返す。嬉しいも怒りも、両方でいい」


 リーゼはしばらく黙っていた。


 それから、小さく頷いた。


「そうか」


 俺は記録した。


『リーゼ・ヴァルト、追加医務メモ確認後、“私は、怒っていいのか”と発言。ダリオ・ガンツ、“嬉しいも怒りも、両方でいい”と返答』


 書きながら、セリアがここにいたら泣いていたかもしれないと思った。


 いや、泣きそうになりながらも、きっと同じことを言っただろう。


 怒っていいです。

 でも、残っていてよかったとも思っていいです。


 そう言う姿が、簡単に想像できた。


 オルブライトは追加メモを整理し、行政庁の確認印を押す準備を始めた。


「この写しは、リーゼ氏の異議申立書に添付できます」


「異議申立書」


 リーゼが繰り返した。


「はい。騎士団記録の修正を求める正式文書です」


 ラウルが言う。


「今なら書ける材料が増えた。本人確認文、腕輪鑑定写し、剣技回路回復記録、医務メモ二通、受領簿削損。これだけ揃えば、騎士団も無視できない」


 リーゼは紙を見つめたまま、ゆっくり息を吐いた。


「私は、逃亡者ではない」


「正式分類上も逃亡ではありません」


 オルブライトが言う。


 リーゼは首を横に振った。


「分類の話ではなく、私自身の話です」


 彼女は右手を見た。


「私は、逃げたのではない。封じられた剣を抱えて、生き延びた。あの時は、それしかできなかった」


 その言葉は、部屋の空気を変えた。


 誰かに言い訳する言葉ではない。


 自分の過去へ、ようやく名前をつける言葉だった。


 俺は記録した。


 リーゼは俺の筆先を見て、少しだけ笑った。


「それも残すのか」


「残します」


「頼む」


 昼過ぎ、グレン副長本人が行政庁へ来た。


 彼の顔には、疲れが滲んでいた。


 おそらく騎士団本部でかなりの調査を進めているのだろう。


 会議室へ入るなり、彼はリーゼへ向かって頭を下げた。


 深い礼ではない。


 騎士として、上官として、まだ正式な謝罪はできない立場の礼。


 けれど、確かに頭を下げた。


「追加メモを確認した」


「はい」


「当時、医務側は少なくとも二度、腕輪の異常を疑っていた。だが主記録には残っていない。これは騎士団として、重大な確認漏れだ」


 リーゼは静かに聞いている。


「エルマ・レイン本人への照会を出した。現在、地方療養所にいる。返答には時間がかかる」


「分かりました」


「それと」


 グレン副長は短く息を吸った。


「当時の上級医記録箱に欠落がある。偶然の破損か、意図的な抜き取りかはまだ不明だ」


 ダリオが低く言った。


「王都の資料は、都合よく欠けるな」


 グレン副長は否定しなかった。


「そうだな」


 その一言に、ダリオは少し驚いた顔をした。


 グレン副長はリーゼへ向き直る。


「私は、君に記録修正手続きを勧める」


「今、ですか」


「今すぐでなくていい。だが、材料が揃い始めている。君自身の言葉で、異議申立書を書くべきだ」


 リーゼはしばらく沈黙した。


 それから、はっきりと言った。


「書きます」


 グレン副長は頷いた。


「騎士団として受け取る」


「でも、私は騎士団へ戻るために書くのではありません」


「分かっている」


「私は、私の過去の見出しを変えるために書きます」


 その言葉に、グレン副長の目がわずかに動いた。


「よい言葉だ」


「リベル村で覚えました」


「そうか」


 グレン副長は少しだけ、苦いような、羨むような顔をした。


「良い村なのだな」


 リーゼは迷わず答えた。


「はい」


 その返事には、少しも揺れがなかった。


 夕方、宿へ戻る前に、俺たちはリベル村へ報告を書いた。


『騎士団旧医務補助記録より、追加医務メモを確認。

内容:リーゼの右手反応遅延は二日後も改善なし。剣技動作開始時のみ遅延。本人は腕輪装着後から症状発生と主張。腕輪解除を再提案すべき。精神的疲労のみとする診断は危険。上級医へ報告予定。

ただし、上級医への正式報告書は未発見。医務室受領箱に該当期間の欠落あり。

グレン副長は重大な確認漏れと認め、エルマ・レイン本人への照会を開始。

リーゼは騎士団記録の異議申立書を書く意思を示した』


 最後に、リーゼの言葉を添える。


『私は、逃げたのではない。封じられた剣を抱えて、生き延びた。

私は、私の過去の見出しを変えるために書く』


 書き終えると、リーゼはしばらくその文を見ていた。


「セリアたちは、どう読むだろうか」


「きっと、大事に読んでくれます」


「そうか」


 ダリオが横から言った。


「トマは泣くかもしれんぞ」


「トマが?」


「いや、泣きそうになって怒鳴る」


 リーゼは少しだけ笑った。


「想像できるな」


 その笑みは、昨日よりも自然だった。


 夜、俺は個人記録を書いた。


『医務メモは一枚ではなかった。

リーゼの訴えは、少なくとも二度、誰かの目に留まっていた。

それでも正式記録には残らず、彼女は任務離脱者として止められた。

残っていたことは救いであり、助けられなかったことは傷である。

その両方を抱えたまま、リーゼは異議申立書を書くと決めた。』


 最後に、彼女の言葉をもう一度書いた。


『封じられた剣を抱えて、生き延びた。』


 王都の夜は、まだ冷たい。


 けれど、その冷たい夜の中で、リーゼの過去に貼られた古い見出しが、少しずつ剥がれ始めていた。

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