第81話 黒塗りの名は、安全監視線
雨は朝になっても残っていた。
王都の石畳は濡れ、馬車の車輪が水を跳ねるたび、灰色の街に鈍い音が響く。
宿の窓からそれを見ていたダリオは、珍しく朝食を半分残した。
「食べないんですか」
俺が聞くと、彼は皿を見下ろした。
「腹は減ってる」
「では」
「胃が嫌がってる」
そう言って、匙を置いた。
昨日の証言聴取は、ダリオにとって軽いものではなかった。
昔の同僚が出てきた。
自分を問題児として扱った者が出てきた。
けれど同時に、安全監視線という言葉も出た。
レナードは、炉の出力傾向を外部へ送る線があったと言った。
ユーベルは、その線が管理者権限と紐付け可能な構造だったと認めた。
マイラは、ダリオの告発が確かにその危険性を指摘していたと証言した。
それでも、完全には終わっていない。
王都では、ひとつ認められたからといって、すべてがひっくり返るわけではない。
むしろ、認められた瞬間から、次の言い換えが始まる。
その予感は、すぐに当たった。
行政庁からの呼び出しは、朝食後すぐに届いた。
『昨日の証言を受け、管理紐付け系機構資料の再整理を行う。クラウス・ベルナー氏および技師組合側立会人も出席予定』
ダリオは文書を読み、短く笑った。
「来たな」
「行けますか」
「行く」
返事は早かった。
「今日は多分、向こうが“標準機能”で押してくる。安全監視線は不正ではない。暴走防止のためだ。説明しなかったのは運用上の省略だ。そんなところだろう」
リーゼが剣帯を整えながら言った。
「言い訳の予習か」
「技師は不具合と同じくらい言い訳も見る」
「嫌な職業だな」
「まったくだ」
行政庁の会議室には、昨日よりも資料が多く並べられていた。
管理紐付け系機構資料。
安全監視補助資料。
ローゼン侯爵家施工補助図の写し。
クラウスの測定具鑑定記録。
黒石祠管理印の拓本。
旧水脈補助施設管理印一覧。
その中央に、昨日の証言要旨が置かれている。
『安全監視線』
この名前が、初めて正式な場に置かれた。
クラウスはすでに席についていた。
昨日よりも表情が硬い。
それでも、姿勢は崩していない。
彼は資料を指先で整えながら言った。
「まず確認しておきたい。安全監視線は、設備の暴走を防ぐための標準的補助機能です。危険なものではない」
オルブライトは記録を開いた。
「標準的補助機能である、という主張ですね」
「事実です」
「では、なぜ施工補助図では黒塗りされているのですか」
クラウスは一瞬だけ黙った。
「悪用防止のためです」
ダリオが小さく鼻で笑う。
クラウスの視線がそちらへ動いた。
「何か?」
「いや。便利な言葉だと思ってな。悪用防止。機密保持。標準機能。説明省略。王都の棚には、そういう札がたくさんぶら下がってる」
「皮肉ではなく、技術的な議論をしましょう」
「ああ。しよう」
ダリオは、昨日とは違って落ち着いていた。
怒りが消えたわけではない。
ただ、怒りをどこに置くかを決めてきた顔だった。
オルブライトが資料を示す。
「本日の確認点は三つです。安全監視線の構造。使用者への説明義務。クラウス測定具および黒石祠管理印との関連性」
ラウル査察官が続ける。
「人物評価は扱わない。昨日十分聞いた」
ゴードンがいれば顔を赤くしたかもしれない。
クラウスは何も言わなかった。
最初に、管理紐付け系機構資料が開かれた。
黒塗りは多い。
だが、昨日の証言により、黒塗りの一部が何を隠しているのか推測できるようになっていた。
オルブライトが読み上げる。
「安全監視線。対象設備の出力傾向を外部端子により取得し、異常兆候を早期検知する補助構造」
クラウスが頷く。
「その通りです」
ダリオが静かに言った。
「そこまでは俺も否定してない」
クラウスの目が細くなる。
ダリオは資料の図面を指した。
「問題は、その先だ。外部端子で読み取った出力傾向を、誰が、どこで、どの権限に紐付けるか。安全監視だけなら、使用者側で閉じればいい。だがこの構造は、施工者側が後から管理者権限に接続できる余地を残している」
クラウスが即座に返す。
「余地があることと、不正に使うことは違います」
「そうだな」
ダリオは頷いた。
「だから俺は昔、“余地があるなら説明しろ”と言った。使用者に言え。管理者に言え。契約書に書け。どの端子が何を送るのか、誰が見られるのか、後から権限に繋げられるのか。全部だ」
会議室が静まる。
ダリオの声は荒くなかった。
むしろ淡々としていた。
だからこそ、言葉が通った。
「でも、あんたらは言わなかった。安全監視だと言った。標準だと言った。俺が騒いだことにした」
クラウスの指が、わずかに机を叩いた。
「君は当時、説明を聞く前に騒いだ」
「違う。説明を求めたら、騒いだことにされた」
ダリオは真っ直ぐクラウスを見た。
「標準なら、なぜ使用者へ説明しなかった。なぜ図面を黒塗りした。なぜ頁二十一を差し替えた。なぜ補修記録をあんたが作った」
クラウスは黙った。
その沈黙を、誰も急かさなかった。
俺は記録した。
『ダリオ・ガンツ発言。標準なら、なぜ使用者へ説明しなかった。なぜ図面を黒塗りした。なぜ頁二十一を差し替えた。なぜ補修記録をクラウスが作った』
ラウルが低く言った。
「答えてもらおう」
クラウスは少し息を吐いた。
「使用者への説明は、施工主側担当を通じて行われたはずです」
「記録は」
オルブライトが問う。
「古い案件です。全ての説明記録が残っているとは限りません」
「黒塗りの理由は」
「悪用防止」
「頁二十一の差し替えは」
「破損による補修」
「破損前原本は」
「確認中です」
昨日と同じ言葉が並ぶ。
だが、昨日より弱かった。
安全監視線という名称が出た今、ただの黒塗りでは済まなくなっている。
次に、クラウスの測定具の鑑定記録が机に置かれた。
俺は改めて読み上げる。
「クラウス技師がリベル村外縁部確認へ持ち込んだ測定具。表面機能は魔力流量測定。隠し機能として微弱な同期信号送信、結界柱反応値の外部記録、管理紐付け系反応あり」
クラウスは静かに言う。
「測定補助機能です」
ダリオが即座に返す。
「安全監視線と同じ思想だな」
「違います」
「どこが違う?」
「測定具は一時的な確認用。施工補助図の安全監視線は設備内構造です」
「仕組みの場所が違うだけだ」
ダリオは図面と測定具記録を並べた。
「対象から反応値を取る。外へ送る。後から管理に繋げる余地を残す。説明しない。記録しない。指摘されると標準機能と言う」
言葉が一つずつ積まれていく。
クラウスは表情を保とうとしているが、目の奥が揺れていた。
オルブライトが俺を見る。
「レオン氏。照合を」
「はい」
俺は資料を重ねるように置き、鑑定を行った。
《照合対象》
《クラウス測定具》
《安全監視線資料》
《ローゼン侯爵家施工補助図》
《黒石祠管理印》
《共通構造:対象反応値取得/外部記録/後日管理紐付け可能性》
《第三者証言追加:安全監視線存在》
《推定関連一致率:九十一%》
表示された数値を、俺は読み上げた。
「推定関連一致率、九十一%」
会議室の空気が重くなる。
四十一%から始まった数字が、八十四%まで上がり、今は九十一%。
完全ではない。
だが、もう偶然と言い切るには無理がある。
リーゼが静かに言った。
「九十一」
ダリオは目を閉じた。
拳は握っていない。
ただ、深く息を吐いた。
「まだ百じゃない」
クラウスが言う。
声は少し硬い。
「鑑定士の推定でしょう。完全一致ではない」
「その通りです」
俺は答えた。
「完全一致ではありません。黒塗り解除と原本確認が必要です」
ラウルがクラウスを見る。
「つまり、原本を出せばよい」
クラウスの頬がわずかに強張る。
「それは技師組合の判断です」
オルブライトが筆を置いた。
「行政庁として、黒塗り解除および原本確認を正式要求します。本日の照合結果、昨日の証言、安全監視線の名称確認を根拠とします」
「強引です」
クラウスが言った。
「慎重です」
オルブライトは答えた。
「これ以上、黒塗りのまま行政判断する方が危険です」
ギルド記録官も言う。
「冒険者ギルドとしても、リベル村および周辺村の水脈異常に関わる可能性があるため、原本確認を支持します」
クラウスは黙った。
初めて、明確に追い詰められた顔をした。
怒りではない。
恐怖に近いものが、わずかに見えた。
その表情を見て、ダリオは何も言わなかった。
勝ち誇らない。
罵らない。
ただ、静かに机の上の図面を見ていた。
「ダリオさん」
俺が声をかけると、彼は少し遅れて顔を上げた。
「大丈夫ですか」
「分からん」
正直な返事だった。
「昔、これを言いたかった。俺は今、たぶんその続きをやってる。でも、気分はよくない」
「なぜですか」
「遅すぎるからだ」
その声は低かった。
「遅すぎる。でも、進んでる。だから余計に変な気分だ」
リーゼが静かに言う。
「両方でいい」
ダリオは彼女を見た。
少し笑った。
「ああ。両方でいいんだったな」
会議はさらに続いた。
安全監視線が標準機能だとしても、使用者への説明記録がないこと。
クラウス測定具に同系統の提出外機能があったこと。
黒石祠管理印が旧水脈補助施設管理印と似ており、さらに施工者補助印との関連が疑われること。
頁二十一の補修記録者がクラウスであること。
証言により、安全監視線の存在と管理紐付け可能性が確認されたこと。
ひとつずつ、事実として並べた。
クラウスは何度も「標準」「安全」「悪用防止」と言った。
だが、そのたびに問いが戻る。
なら、なぜ説明しなかったのか。
なら、なぜ隠したのか。
なら、なぜ記録がないのか。
最後に、オルブライトがまとめた。
「本日の結論。安全監視線は存在した。構造上、管理者権限との紐付けが可能である。クラウス測定具および黒石祠管理印との関連性は強化された。原本確認および黒塗り解除を正式要求する」
クラウスは席を立つ前に、ダリオを見た。
「君は満足か」
ダリオは少し考えた。
「全然」
「でしょうね。君は昔から、何を出しても満足しない」
「違うな」
ダリオは静かに首を振った。
「俺が欲しかったのは、満足じゃない。説明だ」
クラウスは答えなかった。
彼は資料をまとめ、部屋を出ていった。
その背中は、昨日より少しだけ小さく見えた。
会議室を出た後、ダリオは廊下で足を止めた。
雨は上がっていた。
窓から差す光が、濡れた王都を鈍く照らしている。
「レオン」
「はい」
「記録してくれ」
彼は窓の外を見たまま言った。
「安全監視線はあった。俺が管理紐付け線と呼んだものと、同じか、少なくとも近いものだった。まだ原本は見ていない。まだ完全じゃない。でも、俺はもう、自分の記憶だけを疑わなくていい」
俺は記録した。
文字を書きながら、少し胸が熱くなる。
ダリオは続けた。
「俺は、扱いづらい技師だった。口も悪かった。上に逆らった。それでも、見たものまで嘘にはならない」
リーゼが頷いた。
「良い記録だ」
「そうか」
「ああ」
その日の夜、リベル村へ報告を書いた。
『安全監視線について再協議。
技師組合側は標準的補助機能と主張。
ダリオは、標準なら使用者へ説明すべき、図面を黒塗りする理由にならないと反論。
安全監視線、クラウス測定具、ローゼン家施工補助図、黒石祠管理印を総合照合。
推定関連一致率、九十一%。
完全一致ではないため、黒塗り解除および原本確認を行政庁・防衛局・ギルドが正式要求する方針。
クラウスは強く反発したが、説明記録の欠如、頁差し替え、提出外機能の問題に十分答えられず。』
最後に、ダリオの言葉を書き添えた。
『俺は、扱いづらい技師だった。口も悪かった。上に逆らった。
それでも、見たものまで嘘にはならない。』
書き終えると、ダリオがそれを見て、少しだけ目を伏せた。
「リベル村に送るには、格好悪くないか」
「格好悪くありません」
リーゼも言った。
「むしろ、必要な言葉だ」
ダリオは困ったように笑った。
「そうか」
王都の夜は、雨上がりの匂いがした。
リベル村の畑にも、雨は降っただろう。
小さな芽は倒れずにいるだろうか。
安全監視線。
黒塗りの奥に隠されていた名前は、今日、はっきりと紙の上に出た。
次は、原本だ。
黒塗りの下に眠る線を、もう一度光の下へ出す。
そのための道が、ようやく見え始めていた。




