第8話 北の祠と、封じられた聖女
北の森へ入ると決めた朝、トマは当然のように斧を持って現れた。
「行くんだろ」
まだこちらが何も言っていないのに、彼は村の入口で待っていた。肩には使い込まれた斧。腰には短い鉈。足元は泥に強そうな革靴。顔つきだけ見れば、完全に森仕事の男だ。
「危ないかもしれませんよ」
「だから俺が行くんだろ」
「ありがたいですが、村の方は」
「村は村長が見てる。昨日から弓の修理も進んでるし、木柵の補強も始めた。俺ひとり抜けたくらいで止まるほど、もうこの村は弱くねえよ」
そう言って、トマは少し照れたように鼻の下をこすった。
昨日までなら、そんな言い方はしなかっただろう。
リベル村は弱い。貧しい。終わりかけている。そういう諦めが、彼らの言葉の端々にあった。
でも今は違う。
完全に変わったわけではない。
井戸も、水車も、結界も、まだ応急修理に近い。
それでも、村人たちは「直せるかもしれない」と思い始めている。
それは、たぶん大きい。
「私も行きます」
後ろから声がして、振り返る。
セリアだった。
白い修道服ではなく、村の女たちが用意してくれた動きやすい服を着ている。上から薄い外套を羽織り、髪は後ろで結んでいた。
「セリアは治療所で休んでいる約束では」
「休みました」
「半日だけでしょう」
「レオンさんも昨日、半日しか休んでいません」
またそれを言われる。
トマが笑いをこらえるように横を向いた。
「笑わないでください」
「笑ってねえよ」
「顔が笑ってます」
「いや、先生はセリアに弱いなと思ってな」
「だから先生では」
「もう諦めろって」
俺はため息をついた。
セリアは真面目な顔でこちらを見ている。
「北の祠は、結界のことに関係があるんですよね」
「おそらく」
「それなら、私も見ておきたいんです。昨日、結界に魔力を流した時……何か、呼ばれた気がしました」
「呼ばれた?」
「声が聞こえたわけではありません。でも、流れの先に何かがある感じがして」
聖女としての感覚か。
それとも、彼女に刻まれた封印痕が反応しているのか。
正直、連れて行くべきか迷った。
北の祠は、村長の話では三年前に崩れたという。井戸が細り始めた時期と一致している。防衛結界の不調とも関係しているなら、危険があるかもしれない。
だが、セリアの浄化魔力が必要になる可能性は高い。
「分かりました。ただし、無理はしない。危ないと思ったらすぐ下がる。俺の指示に従う。それが条件です」
「はい」
「本当に?」
「本当です」
「昨日も大丈夫と言って倒れかけました」
「……今日は大丈夫です」
「その大丈夫が信用できないんですが」
セリアは少しだけ頬を膨らませた。
「レオンさんにだけは言われたくありません」
トマが今度こそ声を出して笑った。
北の森は、村から見えるよりもずっと暗かった。
木々の枝が頭上で絡み合い、朝の光を細かく砕いている。足元には湿った落ち葉が積もり、場所によっては膝近くまで草が伸びていた。
トマが先頭で枝を払いながら進む。
「昔は、この道ももう少し歩きやすかったんだ」
「祠に参る人がいたんですか」
「ああ。俺が子供の頃は、春と秋に村の年寄りが掃除に来てた。魔物除けの祠だから大事にしろって言われてな。まあ、俺たち若いのは面倒くさがってたけど」
「今は来ていない?」
「水が減り始めた頃から、森に魔物が増えた。祠も崩れたって聞いて、それっきりだ。直す余裕も、人手もなかった」
トマは苦い顔をした。
「放っといたツケが回ったんだろうな」
「全部が村のせいとは限りません」
「慰めか?」
「事実です。祠が自然に崩れたのか、何かに壊されたのかは、まだ分からない」
トマは足を止め、こちらを見た。
「何かに壊された?」
「可能性です」
井戸の結界石。
防衛結界の反転。
セリアの魔力回路に残る封印痕。
どれも、自然劣化だけでは説明しきれない気がしていた。
勇者パーティーにいた頃の俺なら、そこまで考えなかったかもしれない。装備の不調を見つけ、魔物の弱点を記録し、次の戦闘を無事に終える。それだけで精一杯だった。
でも今は、壊れた原因まで見なければいけない。
直すためには、壊れた理由を知らなければならない。
「レオンさん」
セリアが小さく声を上げた。
「どうしました?」
「あっちです」
彼女は森の奥を指した。道らしい道はない。ただ、苔むした石がいくつか転がっている。
「何か感じます」
俺もそちらを見る。
鑑定を使う。
《結界残滓》
《魔力反応:微弱》
《方向:北北東》
「合ってます」
俺が言うと、セリアは少しほっとしたように息を吐いた。
トマが感心したように彼女を見る。
「セリアも分かるのか」
「はっきりではありません。でも、胸の奥が引っ張られるような感じがして」
「聖女様ってのはすごいな」
何気ない一言だった。
だがセリアは目を丸くした。
「聖女……」
「あ、悪い。嫌だったか」
「いえ。嫌では……ないです」
セリアは胸元に手を当てた。
「ただ、まだ慣れなくて」
トマは少し困ったように頭をかいた。
「じゃあ、何て呼べばいい」
「セリアで」
「分かった。セリア」
それだけの会話なのに、セリアの表情が少し柔らかくなる。
呼び方ひとつで、人は救われることがあるのかもしれない。
しばらく進むと、森の空気が変わった。
湿り気が濃くなり、鳥の声が消える。
足元の草が、妙に黒ずんでいた。
トマが斧を握り直す。
「近いな」
「はい」
俺の視界にも、いくつもの表示が浮かんでいる。
《魔力腐食:軽度》
《結界石片:散乱》
《警戒推奨》
やがて、木々の間に小さな石造りの祠が見えた。
いや、祠だったもの、と言うべきか。
屋根石は半分崩れ、柱は斜めに傾き、周囲には砕けた結界石が散乱している。中央には台座のようなものがあり、その上に本来置かれていたであろう石が、真っ二つに割れていた。
その割れ目から、黒い靄が細く漏れている。
セリアが胸元を押さえた。
「ここ……嫌です」
「下がってください」
「でも」
「まず俺が見ます」
俺は祠に近づき、台座の前に膝をつく。
黒い靄に触れないようにしながら、割れた石を見る。
《北祠・結界中継石》
《状態:大破》
《腐食率:六十八%》
《異常:外部呪印》
《機能:防衛結界中継/水脈魔力循環補助》
《修復可能:条件付き》
外部呪印。
やはり自然に壊れたのではない。
「誰かが壊しています」
俺が言うと、トマの顔つきが変わった。
「魔物か?」
「魔物なら、ただ壊すだけでしょう。でもこれは、結界の向きを歪めるように壊されている」
「つまり?」
「村を守る結界を、魔物を呼ぶ結界に変えた」
トマは低く息を吐いた。
「誰がそんなことを」
「分かりません」
ただ、悪意はある。
偶然ではない。
村が少しずつ弱り、井戸が枯れ、魔物が増えるように仕組まれている。
派手な破壊ではない。
三年かけて村を殺すような、嫌な壊し方だ。
セリアがゆっくり近づいてくる。
「これ、神殿の封印に似ています」
俺は思わず振り返った。
「分かるんですか」
「はい。私の中にあるものと、少しだけ似ています」
セリアは自分の胸元に手を置いた。
「神殿で封印された時、同じような冷たい感じがしました」
「封印された時の記憶があるんですか」
彼女は少し顔を伏せた。
「全部ではありません。聖女試験に失敗したあと、上級神官様たちが私を浄化すると言って……その後、何日か記憶が曖昧です」
「浄化」
嫌な言葉だった。
彼女の魔力回路に残っていた封印痕。
この祠に残る外部呪印。
もし同じ系統なら、神殿が関わっている可能性がある。
だが、今それを口にすると、セリアを余計に傷つける。
「セリア。この呪印を浄化できますか」
「やってみます。でも……」
「無理ならすぐ止めます」
「いえ、そうじゃなくて」
セリアは祠の割れた石を見た。
「この呪印、誰かの祈りみたいなんです」
「祈り?」
「はい。でも、人を救う祈りじゃない。縛るための祈りです」
トマが顔をしかめる。
「祈りってのは、人を助けるもんじゃないのか」
セリアは悲しそうに答えた。
「そうだと思っていました」
静かな言葉だった。
それ以上、誰も何も言えなかった。
俺は割れた中継石を調べる。
完全修復には素材が足りない。石そのものが大きく欠けているし、腐食も進んでいる。だが、呪印を弱め、中継機能を一部戻すことはできる。
《修復条件》
《一:外部呪印の浄化》
《二:破損部の仮接合》
《三:東柱との結界線再同期》
必要なのは、セリアの浄化魔力と、俺の修復鑑定。
それから、物理的に石を支える作業。
「トマさん、祠の周りの石を集めてください。割れた中継石を支えるために使います。ただし黒ずんでいる石には直接触れないで」
「分かった」
「セリアは、俺が合図するまで魔力を流さないでください」
「はい」
作業は慎重に進めた。
トマが使えそうな石を選び、俺が配置を決める。祠の柱を縄で仮固定し、傾いた屋根石を支える。崩れかけた祠は、少し触れただけで全体が崩れそうだった。
セリアは祠の前で目を閉じている。
祈っているように見える。
けれど、彼女はもう神殿に縛られて祈っているわけではない。
この村を守るために、自分の意思でそこに立っている。
「始めます」
俺が言うと、セリアはゆっくり目を開けた。
「はい」
「まずは弱く。呪印の表面だけを洗う感じで」
「分かりました」
白い光が、セリアの手から中継石へ伸びる。
黒い靄が反応し、ざわりと揺れた。
セリアの顔が歪む。
「っ……」
「痛みますか」
「冷たい、です。でも大丈夫」
「無理はしない」
「はい」
セリアの光が、黒い呪印を少しずつ削っていく。
俺は中継石に手を当てた。
冷たい。
指先から腕へ、嫌な痺れが上がってくる。
視界に、絡み合った線が見えた。
村の結界線。
水脈に繋がる魔力循環。
そして、それらに絡みつく黒い鎖のような呪印。
鎖は一部、セリアの魔力回路に残る封印痕とよく似ていた。
やはり、同じ系統だ。
胸の奥に怒りが湧く。
誰かが、村を壊した。
そして誰かが、セリアを壊した。
どちらも静かに、長い時間をかけて、本人たちに「自分が悪い」と思わせるように。
「レオンさん?」
セリアが不安そうに声をかけた。
いけない。
怒りで流れを見失うところだった。
「大丈夫です。続けて」
俺は息を整える。
壊れたものを直す。
今はそれだけに集中する。
呪印の弱い部分を見つける。
セリアの光をそこへ導く。
黒い鎖の一部がほどける。
ばちん、と音がした。
祠の周囲に、薄い風が走る。
トマが斧を構えた。
「何だ!」
「呪印が剥がれました。まだ続きます!」
黒い靄が濃くなり、今度は人の声のようなものが聞こえた。
――失敗作。
セリアの肩が震えた。
――災厄。
彼女の光が乱れる。
「セリア、聞かなくていい!」
俺は叫んだ。
――聖女にふさわしくない。
「違う!」
セリアが叫んだ。
森の中に、その声が響いた。
白い光が強くなる。
「私は……私は、壊すだけじゃない!」
その瞬間、彼女の光が黒い靄を押し返した。
俺はその機を逃さず、呪印の中心に修復鑑定を叩き込む。
《外部呪印:剥離》
《中継石:仮接合》
《北祠:機能一部復旧》
割れていた中継石の断面が、淡く光った。
完全に元通りにはならない。
けれど、割れ目に白い線が走り、祠全体が低く震える。
森の空気が変わった。
重く湿っていたものが、少しだけ薄れる。
鳥の声が遠くで戻った。
セリアは膝をつきそうになった。俺は慌てて支える。
「大丈夫ですか」
「はい……少し、疲れただけです」
「またそれですか」
「今回は本当に少しです」
苦しそうなのに、彼女は笑っていた。
トマが祠を見上げる。
「直ったのか」
「仮復旧です。村の結界との繋がりが少し戻りました」
「少しで十分だ。森の空気が変わった」
トマはそう言ってから、セリアを見た。
「セリア。さっきの、格好よかったぞ」
「え?」
「私は壊すだけじゃない、ってやつ」
セリアの顔が一気に赤くなる。
「き、聞こえていましたか」
「森中に響いてた」
「忘れてください」
「無理だな。村で話す」
「やめてください!」
セリアが本気で慌てる。
その様子が少し可笑しくて、俺もつい笑ってしまった。
「レオンさんまで笑わないでください」
「すみません。でも、本当に良かったと思います」
「何がですか」
「自分で言えたことが」
セリアは黙った。
そして、小さく息を吐く。
「……はい」
その声は、どこか照れくさそうで、でも嬉しそうだった。
俺は祠の奥を見る。
台座の下に、何かがある。
石板だ。
苔と土に覆われているが、表面に古い文字が刻まれていた。トマに手伝ってもらい、慎重に引き出す。
文字の一部は読めない。
だが、鑑定が補ってくれる。
《リベル修復工房・北中継祠》
《管理対象:中央井戸/東水車/防衛外周柱/地下工房入口》
《地下工房入口:村中央・旧倉庫下》
「地下工房……」
俺は思わず呟いた。
トマが石板を覗き込む。
「何て書いてあるんだ」
「この祠は、リベル村の古い設備の一部です。井戸、水車、結界柱……それから、地下工房への入口を管理していた」
「地下工房?」
「村の中央、旧倉庫の下に入口があると」
トマは目を丸くした。
「旧倉庫って、子供たちを避難させてた場所じゃねえか」
「はい」
セリアが不安そうに言う。
「危ない場所なんでしょうか」
「今すぐではないと思います。でも、結界中枢に関わっている可能性があります」
つまり、第1章の大きな手がかりだ。
この村には、ただの古い結界ではなく、修復工房と呼ばれる施設が眠っている。
そして俺の《修復鑑定士》という職業と、何か関係があるかもしれない。
石板の端には、もう一つ文字があった。
《登録職:修復師/結界技師/聖女補佐》
《上位権限:修復鑑定士》
心臓が、どくんと鳴った。
修復鑑定士。
やはり、この職業は存在していた。
ただの偶然でも、俺の見間違いでもない。
セリアが俺の顔を見て、すぐに気づいた。
「レオンさん?」
「この石板に、俺の職業名があります」
「修復鑑定士、ですか」
「はい」
トマが驚いたように俺を見る。
「お前の職業、この村と関係あるのか」
「分かりません。でも……たぶん、無関係ではない」
自分の声が少し硬くなっていた。
勇者パーティーを追放され、偶然たどり着いた辺境村。
そこに、自分の真職業と同じ名が刻まれた古代の工房が眠っている。
偶然にしては、出来すぎている。
森の奥で、枝が揺れた。
トマがすぐに斧を構える。
「魔物か」
俺も鑑定を広げる。
《灰角魔狼》
《数:二》
《接近中》
「二体です。昨日の群れの残りかもしれません」
「セリアは下がれ」
トマが前に出る。
だが、魔狼たちはすぐには襲ってこなかった。祠の光を嫌がるように、木々の間で低く唸っている。
結界の中継機能が戻ったことで、森の魔力の流れが変わったのだろう。
「追い払えますか」
セリアが尋ねる。
「たぶん」
俺は祠に手を当てた。
修復したばかりの中継石には、まだわずかな力が残っている。そこにセリアの浄化魔力を少しだけ乗せれば――。
「セリア、弱く光を」
「はい」
白い光が祠へ流れる。
俺はその流れを、森の外側へ向けて整える。
祠から淡い波紋が広がった。
魔狼たちは甲高く鳴き、森の奥へ逃げていく。
トマがぽかんとした顔をした。
「戦わずに追い払ったぞ」
「戦わないで済むなら、その方がいいです」
「本当に勇者向きじゃねえな」
「よく言われました」
「褒めてるんだよ」
トマは笑った。
「この村には、勇者よりそういう奴の方が必要だ」
何気なく言われた言葉だった。
けれど、胸の奥にゆっくり染み込んだ。
勇者より。
俺は勇者にはなれない。
聖剣を振るえない。魔王を倒す使命もない。
でも、この村を直すことはできるかもしれない。
それでいいのだと、少しだけ思えた。
村へ戻ると、村長が倉庫の前で待っていた。
俺たちが持ち帰った石板を見せると、村長は長い間黙っていた。
「旧倉庫の下に、そんなものが……」
「心当たりは?」
「あると言えばある。あの倉庫は妙に床が冷える。昔から、下に空洞があるんじゃないかとは言われておった」
「調べてもいいですか」
「もちろんだ。だが、今日は休め」
即答だった。
「村長」
「休め」
「でも、結界中枢が」
「逃げはせん」
村長は俺の顔をじっと見る。
「レオン殿。あんたは壊れたものを見るのが得意だ。だが、自分が壊れかけていることには鈍い」
またそれを言われる。
セリアが隣でこくこくと頷いている。
「セリアまで」
「村長さんの言う通りです」
「トマさんは」
「俺も同意だな」
味方がいない。
俺は諦めて息を吐いた。
「分かりました。今日は休みます」
「よろしい」
村長は満足そうに頷いた。
だが、その目はすぐに石板へ戻る。
「地下工房か……この村は、儂らが思っていたより古いのかもしれんな」
村長の声には、不安と期待が混じっていた。
その頃、王都では。
勇者カイルが、神殿鍛冶師の前で声を荒げていた。
「直せないとはどういう意味だ!」
聖剣アークレイヴは、作業台の上に置かれている。亀裂は根元から刀身の三分の一ほどまで伸びていた。
神殿鍛冶師は、灰色の髭を撫でながら重々しく言った。
「完全修復には時間がかかる。最低でも一月。無理に使えば、次の戦闘で折れる」
「一月だと? 魔王軍は待ってくれない!」
「剣も待ってくれん。壊れる時は壊れる」
カイルは机を叩いた。
「聖剣だぞ!」
「聖剣だからこそ、雑に扱えば反動が出る」
鍛冶師は淡々と言った。
「それに、この剣は以前から亀裂が進行していたはずだ。なぜ早く持ってこなかった」
カイルは口を閉ざした。
エレナ、ガレス、マリウスも部屋の隅で黙っている。
鍛冶師は続けた。
「応急処置の跡がある。かなり丁寧だ。誰がやった?」
誰も答えなかった。
やがて、ガレスが低く言う。
「レオンだ」
「レオン?」
「うちにいた鑑定士だ」
鍛冶師は眉を上げる。
「鑑定士がここまでやったのか」
その声には、明らかな驚きがあった。
「この補助魔石の噛ませ方、負荷の逃がし方。専門鍛冶師ではないにしても、相当状態を見ている。これがなければ、もっと早く折れていたぞ」
部屋の中が静まり返った。
カイルの顔が歪む。
「……あいつは、鑑定しかできない」
「その鑑定が優れていたのだろう」
鍛冶師はあっさり言った。
「少なくとも、お前さんたちはこの亀裂に気づかなかった」
その一言は、重かった。
エレナが目を伏せる。
マリウスは唇を噛む。
ガレスは深く息を吐く。
カイルだけが、まだ認めようとしなかった。
「代わりの剣を用意しろ」
「聖剣の代わりなどない。普通の魔剣なら貸せるが、聖剣の力は出ん」
「それでもいい」
「無理に前線へ出る気か」
「勇者が休んでいられるか」
鍛冶師は呆れたように首を振った。
「剣だけではない。お前さん自身も歪んでいるように見えるぞ」
「何だと?」
「道具の声を聞けん者は、仲間の声も聞けん」
カイルは怒りで顔を赤くしたが、言い返せなかった。
宿へ戻る道中、エレナがぽつりと言った。
「レオンを呼び戻すべきじゃない?」
カイルが足を止める。
「何を言っている」
「今ならまだ間に合うかもしれない。謝って、戻ってきてもらって――」
「謝る?」
カイルは笑った。
笑ったが、その声は乾いていた。
「勇者の俺が、鑑定士に頭を下げるのか」
「必要なら」
エレナは静かに言った。
「私は、下げるべきだと思う」
マリウスが顔を歪める。
「感情論だ。戻したところで、彼が何をできる」
「少なくとも、聖剣の亀裂には気づいていたわ」
「それは……」
「杖も、鎧も、魔物の変異も。私たちが見落としていたものを、全部見ていた」
ガレスが口を開く。
「俺も、戻ってもらえるならその方がいいと思う」
「ガレスまで」
「認めたくないが、今の俺たちは危うい」
カイルは三人を見た。
仲間たちの目が、以前と違っていた。
無条件に自分へ従う目ではない。
疑い。
不安。
そして、レオンへの後悔。
カイルは拳を握りしめる。
「……探せ」
低い声だった。
エレナが目を上げる。
「カイル」
「勘違いするな。謝るためじゃない。あいつは元々、俺たちのパーティーの人間だ。必要だから連れ戻すだけだ」
エレナは何か言いかけて、やめた。
今はそれでもいい。
少なくとも、レオンを必要だと認める一歩ではある。
マリウスは苦々しい顔をしながらも、反論しなかった。
ガレスは静かに頷く。
「行き先を調べる。馬車の停留所から追えるはずだ」
カイルは王都の空を見上げた。
雲が重い。
聖剣は使えない。
次の任務は迫っている。
王国の期待は変わらず自分に向けられている。
その重さが、初めて少しだけ怖くなった。
リベル村では、夕方の治療所に灯りがついていた。
セリアは子供の擦り傷を治し、老人の腰痛を和らげ、熱を出した子に水を飲ませていた。まだ大きな治癒はできない。けれど、小さな治療を重ねるたび、彼女の魔力は少しずつ安定していく。
俺は治療所の入口で、その様子を見ていた。
セリアがこちらに気づく。
「レオンさん、休んでくださいと言われたはずでは」
「見ているだけです」
「それを休んでいないと言います」
「厳しいですね」
「レオンさんには、これくらいでちょうどいいです」
その言い方が妙に自然で、俺は少し笑った。
セリアも笑う。
彼女の笑顔は、もう昨日のように遠慮だけではできていなかった。
「北の祠で、怖い声が聞こえた時」
セリアがふと話し始めた。
「はい」
「私、本当は逃げたかったです。でも、逃げたらまた昔と同じになる気がして」
「昔?」
「言われた言葉を、そのまま信じてしまう自分に戻る気がしました」
セリアは手元の清潔な布を畳む。
「失敗作だって言われたら、失敗作なんだと思っていました。災厄だって言われたら、そうなんだと思っていました。でも……違うって言いたかったんです」
「言えていました」
「はい」
彼女は小さく頷いた。
「レオンさんが、私を壊れているんじゃなくて、壊されているだけだと言ってくれたから」
「俺は見えたことを言っただけです」
「それでも、私には必要な言葉でした」
そう言われると、返す言葉がない。
しばらく沈黙が落ちた。
嫌な沈黙ではなかった。
水車の音が遠くから聞こえる。
井戸の方では、村人たちが桶を運んでいる。
森は静かだ。
セリアが窓の外を見ながら言った。
「この村、直したいですね」
「はい」
「井戸も、水車も、結界も。村の人たちも。私も」
「俺もです」
セリアがこちらを見る。
「レオンさんも?」
「たぶん、俺も少し壊れていたので」
口にしてから、思ったより素直な言葉だと気づいた。
勇者パーティーにいた頃、俺は自分を必要ない人間だと思いかけていた。
追放された時、それを否定する言葉が出なかった。
それは、壊れていたということなのかもしれない。
セリアは少しだけ考えて、微笑んだ。
「じゃあ、一緒に直しましょう」
「そうですね」
その言葉は、約束のように聞こえた。
夜。
村長の家で、北の祠から持ち帰った石板を広げた。
村長、トマ、セリア、そして俺。
四人で古い文字を確認する。
「旧倉庫の下に地下工房か」
村長が腕を組む。
「明日、床を調べましょう」
「倉庫には今、避難用の物資を入れておる。移動させねばならんな」
「俺が人を集める」
トマが言う。
「地下に何があるか分からん。開けるなら慎重にだ」
「はい」
俺は石板の最後の文字をもう一度見た。
《上位権限:修復鑑定士》
この村は、俺を待っていたのか。
そんな都合のいい考えを、すぐに打ち消す。
待っていたのではない。
壊れて、放置されていただけだ。
ただ、そこに俺が来た。
なら、やることは一つだ。
「明日、地下工房の入口を探します」
俺が言うと、三人が頷いた。
その夜、リベル村の空には星が出ていた。
王都を出た夜に見た星と同じはずなのに、少しだけ近く感じた。




