第79話 クラウス、証人を用意する
リーゼの医務メモが見つかった翌日、王都の空は低く曇っていた。
雨が降りそうで降らない。
石畳の上に湿った風だけが流れている。
宿の食堂で朝食を取っている間、リーゼはいつもより静かだった。
ただ、昨日までの硬さとは少し違う。
自分の内側に沈み込んでいるのではなく、見つかったものを丁寧に抱えているような沈黙だった。
テーブルの端には、騎士団旧医務メモの写しが入った封筒が置かれている。
リーゼはそれに何度も目を向けた。
「まだ、信じられないか?」
ダリオが豆料理をつつきながら聞いた。
リーゼは少し考えてから頷いた。
「信じられないというより……どう置けばいいのか分からない」
「置く?」
「この記録を、自分の中のどこに置けばいいのか」
彼女は封筒に指を添えた。
「私はずっと、誰も聞いてくれなかったと思っていた。完全に消されたのだと。でも、見てくれていた人がいた。なのに、助けられなかった。嬉しいのか、悔しいのか、分からない」
ダリオは匙を止めた。
普段なら茶化すところだが、今日はそうしなかった。
「両方でいいんじゃないか」
珍しく、素直な言い方だった。
リーゼは彼を見る。
「両方か」
「ああ。俺も昨日からずっと、昔の告発文書のことを考えてる。残っていてよかったと思う。でも、残っていたなら、なぜあの時助けてくれなかったとも思う」
ダリオは苦笑した。
「腹が立つし、少し救われる。両方だ」
リーゼはしばらく黙った後、小さく頷いた。
「そうか。両方でいいのか」
俺はその言葉を、心の中で記録した。
紙に書く前に、本人がもう少し自分のものにする時間が必要だと思った。
その時、宿の入口から行政庁の連絡役が入ってきた。
「レオン・アスター様。オルブライト様より至急の連絡です」
俺は文書を受け取った。
封を切る。
中身は短かった。
『クラウス・ベルナー氏より、ダリオ・ガンツ氏の旧告発文書および人物信用性に関し、当時の技師組合関係者による証言聴取を求める申請あり。
行政庁は、申請を却下せず、公開記録下での証言聴取として実施する方向。
本日午後、事前協議を行う』
読み終えた瞬間、ダリオの表情が変わった。
「来たか」
声は低い。
リーゼも封筒から目を上げる。
「人物信用性?」
「資料で押し切れなくなったから、俺の人間性を潰しに来たんだろう」
ダリオは席にもたれた。
笑っているが、目は笑っていない。
「昔から、問題を起こす技師だった。過剰に騒ぐ男だった。貴族家案件で名を上げようとして失敗した。そんな話を並べるつもりだ」
「事実ではないでしょう」
俺が言うと、ダリオは肩をすくめた。
「全部が嘘ってわけでもない。俺は口が悪かった。上にも逆らった。現場で何度も揉めた。貴族家案件で騒いだのも事実だ」
「騒いだ理由があります」
「王都では、理由より“騒いだ”の方が強く残る」
その言葉は嫌に実感があった。
リーゼが静かに言った。
「騎士団の記録と同じだな。任務離脱という見出しだけが残る」
「ああ」
ダリオは頷いた。
「だから、クラウスはそこを狙う。俺を“信用できない男”にすれば、資料の読み方も全部疑わせられる」
俺は文書を机に置き、記録板を開いた。
「では、こちらも方針を決めましょう」
「方針?」
「彼らの証言も記録します。誰が何を覚えていて、何を覚えていないのか。誰が資料を見たのか。誰が見ていないのに人物評価だけしているのか。全部」
ダリオは俺をじっと見た。
それから、少しだけ笑った。
「お前、本当に嫌な強さを覚えたな」
「褒めていますか」
「最高に褒めてる」
リーゼも頷いた。
「証人がこちらを刺すなら、その刃の形も記録する。悪くない」
ダリオは深く息を吐いた。
「……荒れるかもしれん」
「荒れそうになったら止めます」
リーゼが言った。
「殴りそうになったら?」
「私が止める」
「斬りそうになったら?」
「お前が叫べ」
「またそれか」
少しだけ笑いが起きた。
けれど、ダリオの指はテーブルの上で落ち着かずに動いていた。
午後、行政庁の小会議室で事前協議が行われた。
オルブライト、ラウル査察官、ギルド記録官。
そして、俺たち三人。
机の上には、クラウス側の申請書が置かれている。
文面は丁寧だった。
『ダリオ・ガンツ氏の旧告発文書は、当時すでに虚偽または過剰報告として処理されたものである。
同氏の証言および記憶に過度に依拠することは、行政判断を誤らせる危険がある。
ついては、当時の技師組合関係者より、同氏の人物評価、職務態度、旧告発当時の状況に関する証言を聴取することを求める』
ダリオは読み終えると、低く笑った。
「人物評価、職務態度。懐かしいな。除名通知にも似た言葉が並んでた」
オルブライトは表情を変えない。
「行政庁としては、証言聴取を拒否しません。ただし、クラウス氏側の意図通りに進めるつもりもありません」
「どう進めますか」
俺が聞くと、オルブライトは別紙を出した。
「証言聴取の焦点は三点に限定します」
一つ。
当時のローゼン侯爵家別邸結界炉施工補助図に、安全監視線または管理補助線と呼ばれる構造があったか。
二つ。
ダリオ・ガンツ氏の告発内容を、証人本人が実際に読んだか、または伝聞で知ったか。
三つ。
クラウス・ベルナー氏が、当時の補助図補修、黒塗り、頁差し替えに関与していたか。
ラウルが言った。
「人物評価は補助情報に留める。主題ではない」
ダリオが目を細める。
「向こうは嫌がるだろうな」
「嫌がるでしょう」
オルブライトは淡々と答えた。
「ですが、人物評価だけで資料状態の問題を消すことはできません」
ギルド記録官も頷いた。
「証人が人物評価へ逸れた場合、誰が何の質問に答えていないかを記録します」
ダリオが小さく息を吐いた。
「徹底してるな」
「あなたを守るためだけではありません」
オルブライトは言った。
「行政判断を、人物攻撃で歪めさせないためです」
その言葉に、ダリオは少し黙った。
「……そうか」
声は小さかった。
リーゼは彼を横目で見る。
「守られるのは苦手か」
「苦手だな」
「分かる」
短いやり取りだったが、二人の間には妙な理解があった。
事前協議の後、ダリオは少し外の空気を吸いたいと言った。
単独行動は禁止なので、俺とリーゼも一緒に行政庁の中庭へ出る。
中庭には、雨に濡れた石椅子と、小さな噴水があった。
水は王都らしく整えられた形で流れている。
リベル村の水路とは違う。
きれいだが、どこか息苦しい。
ダリオは噴水の縁に腰かけた。
「昔の同僚が来るんだろうな」
「会いたくないですか」
「会いたくない奴ばかりだ」
彼は空を見上げた。
「俺を笑った奴。見て見ぬふりをした奴。上に逆らうなと言った奴。資料を読まずに“またダリオが騒いでる”と言った奴」
「全員が敵ですか」
俺が聞くと、ダリオはすぐには答えなかった。
「分からん」
それが正直な答えだった。
「当時、俺を完全に潰そうとした奴もいた。面倒だから黙っていた奴もいた。何か変だと思っても、口にしなかった奴もいた。今なら分かる。全員が悪人じゃない。でも、結果として俺は追い出された」
リーゼが噴水の水面を見た。
「私も、似たことを思った」
「グレン副長か」
「ああ。あの人は悪人ではなかった。だが、私を助けなかった」
ダリオは苦く笑う。
「悪人じゃない奴に助けてもらえなかった記憶ってのは、厄介だな」
「厄介だ」
リーゼは頷いた。
俺は二人の言葉を聞きながら、昨日の医務メモを思い出していた。
見ていた人はいた。
でも、助けられなかった。
残っていた記録は、救いであると同時に、当時救われなかった証でもある。
「証言聴取で、嫌なことを言われると思います」
俺は言った。
「人物評価で傷つけようとしてくるはずです」
「だろうな」
ダリオは答えた。
「でも、こちらの目的は相手を言い負かすことではありません。誰が何を知っていたかを出させることです」
「知ってる」
「途中で苦しくなったら、中断できます」
ダリオは俺を見た。
「中断したら、逃げたと言われる」
「中断理由を記録します」
「便利だな、記録」
「便利です」
ダリオは笑った。
少しだけ、本当に笑った。
「じゃあ、苦しくなったら苦しいと記録する。怒りそうになったら怒りそうだと記録する。殴りそうになったら……」
「その前に止めます」
リーゼが言った。
「助かる」
夕方、クラウス側が用意した証人予定者の名簿が届いた。
五名。
一人目、モルツ資料管理官。
二人目、元施工補助技師レナード・ハイム。
三人目、魔道炉調整技師ユーベル・カスト。
四人目、旧審査部書記官マイラ・セント。
五人目、技師組合倫理委員補佐だった男、ゴードン・ライル。
ダリオは名簿を見るたびに顔をしかめた。
「見事に嫌な名前が並んでる」
「全員知り合いですか」
「知ってる。向こうも俺を知ってる。いい意味ではない」
彼は一人ずつ指で示した。
「レナードは現場にいた。だが、いつも上の顔色を見てた。ユーベルは炉のことなら詳しいが、貴族家には逆らわない。マイラは書類を扱ってた。何か覚えてるかもしれん。ゴードンは……嫌な奴だ」
「どう嫌なんですか」
「正しい言葉で人を殴る」
リーゼが眉を動かした。
「王都に多い型だな」
「多いな」
俺は名簿を写しながら尋ねた。
「この中で、資料そのものを見ている可能性が高いのは?」
「レナード、ユーベル、マイラ。特にマイラだ。書記官だから、処分文書や受領記録を扱っていたはずだ」
「では、その三人が重要ですね」
「ああ。ゴードンは人物評価で攻めてくる。クラウスが呼びたいのはたぶんそこだ」
俺は記録した。
『証人予定者五名。資料実見可能性:レナード、ユーベル、マイラ。人物評価攻撃可能性:ゴードン。モルツは資料管理状態に関与』
ダリオはそれを見て、少し呆れたように言った。
「俺の古傷が分類されていくな」
「嫌ですか」
「嫌だ」
すぐに言った。
「でも、助かる。嫌なのに助かるってのがまた嫌だ」
夜、宿に戻ると、リベル村から返事が届いていた。
ニコルの字だった。
『王都での記録、受領しました。
リーゼさんの医務メモの件、村長、セリアさん、トマさんへ共有しました。
セリアさんは泣きそうになっていましたが、「残っていてよかった。でも助けられなかったのが悔しいです」と言っていました。
腕輪原本の封印は本日も確認済み。異常なし。
傷洗い草の芽は葉が少し開きました。
トマさんは水量板を勝手に動かしていません。本人が強く主張しています。
村は守っています。王都組も、無理はしないでください。』
最後の一文に、少しだけ胸が軽くなった。
村は守っています。
王都にいても、その言葉は確かに届く。
ダリオは手紙を読み、ふっと笑った。
「トマ、水量板を動かしてないのを主張してるのか」
「偉いですね」
「偉いな」
リーゼはセリアの言葉を見つめていた。
「セリアらしい」
俺は頷いた。
「はい」
その夜、俺は個人記録を書いた。
『クラウス側、ダリオの人物信用性を攻撃するため、当時の技師組合関係者の証言聴取を申請。
行政庁は却下せず、公開記録下で実施する方針。
焦点は人物評価ではなく、当時の資料状態、安全監視線の有無、クラウスの補修関与。
ダリオは動揺あり。怒りもあり。ただし、証言そのものを記録する方針に同意。
証人予定者五名。要注意。』
最後に書く。
『人は、資料で勝てなくなると、人を傷つけにくる。
なら、その傷つけ方も記録する。
誰が何を知り、何を知らないまま語るのか。
そこに、次の証拠が眠っているかもしれない。』
王都の夜は湿っていた。
窓の向こうで、雨が降り始める。
リベル村の畑にも、雨は降っているだろうか。
小さな傷洗い草の芽が、強すぎる雨に打たれていなければいい。
そう思いながら、俺は記録板を閉じた。




