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第78話 リーゼの未提出報告書

 翌朝、グレン副長からの呼び出しは思ったより早かった。


 場所は、王都行政庁ではなく、騎士団本部の記録閲覧室。


 それを聞いた時、リーゼは一瞬だけ目を伏せた。


 騎士団本部。


 彼女にとって、そこはただの建物ではない。


 剣を学んだ場所。

 命令を受けた場所。

 仲間と汗を流した場所。

 そして、自分の異常が「適性の問題」として処理されかけた場所。


「無理なら、行政庁で待つこともできます」


 俺が言うと、リーゼは首を横に振った。


「行く」


 短い返事だった。


「昨日、グレン副長が探すと言った。なら、私も逃げずに見る」


 ダリオは宿の椅子に座ったまま、工具箱を足元に置いていた。


「俺は?」


「技師組合関係ではないので、今日は同行しなくても」


 俺が言うと、ダリオは眉をひそめた。


「いや、行く。騎士団本部なんて俺には関係ないが、リーゼを一人で王都の古傷の中へ入れるのも違うだろ」


 リーゼが少し驚いた顔をする。


「お前が来ても、退屈だぞ」


「退屈なら退屈でいい。王都で退屈な時間は貴重だ」


 それは、たぶん彼なりの気遣いだった。


 リーゼは小さく頷いた。


「感謝する」


「礼を言われると落ち着かないな」


 騎士団本部は、行政庁とは別の威圧感を持っていた。


 行政庁が紙と規則で人を黙らせる場所なら、騎士団本部は石と剣で背筋を伸ばさせる場所だった。


 門の前には槍を持った衛兵。

 中庭では訓練中の騎士たちが木剣を打ち合わせている。

 掛け声、足音、鎧の擦れる音。


 リーゼの歩みが、少しだけ硬くなる。


 それでも止まらなかった。


 グレン副長は記録閲覧室の前で待っていた。


 今日は軍装ではなく、書類作業用の簡素な制服だった。だが、その立ち姿は昨日と同じく隙がない。


「来たか」


「はい」


 リーゼが答える。


 グレン副長は俺とダリオにも視線を向けた。


「同行を認める。だが、閲覧できるのは本件に関わる記録のみだ。騎士団内部資料の無断書写は禁ずる」


「必要箇所の閲覧記録は?」


 俺が聞くと、彼は頷いた。


「許可する。こちらの書記も同席する」


 閲覧室は小さかった。


 窓は高く、棚は鍵付き。

 机の上には、すでに何冊かの記録簿と、薄い紙束が置かれていた。


 グレン副長は席につくと、最初に騎士団の正式記録を開いた。


「まず、正式記録だ」


 その声は硬い。


「リーゼ・ヴァルト。第七分隊所属。ローゼン侯爵家令嬢護衛任務中、任務継続困難を申告。医務確認後、一時待機。後日、復帰手続き未了のまま王都を離脱。分類、任務離脱」


 リーゼは黙って聞いていた。


 表情は動かない。


 だが、膝の上に置いた手が強く握られている。


「腕輪の記述は?」


 俺が尋ねる。


 グレン副長は記録簿をめくる。


「正式記録にはない」


 部屋の空気が重くなった。


 リーゼの視線が紙に落ちる。


「私が書いた報告書は」


「正式記録には綴じられていない」


「提出しました」


「その確認が、今日の目的だ」


 グレン副長は別の薄い束を出した。


「主記録にはない。だが、旧補助記録の保管箱を開けた。正式文書ではないが、関連する可能性のあるものが見つかった」


 リーゼの顔がわずかに上がる。


 グレン副長は紙束から一枚を抜き出した。


 古い紙だった。


 端が少し黄ばんでいる。

 字は細かく、医務担当者の走り書きのようだった。


「医務担当見習いの私的メモだ。正式診断書ではない」


 そう前置きしてから、彼は読み上げた。


『リーゼ・ヴァルト。右手反応鈍化。本人は装着腕輪の異常を訴える。

握力低下ではなく、剣技動作開始時のみ遅延あり。

精神的問題と判断するには早計。再検査必要。腕輪の一時解除を提案したが、護衛契約上不可との返答』


 リーゼの呼吸が止まった。


 部屋が静まり返る。


 ダリオも何も言わない。


 俺は記録板を開いたまま、筆を動かすことを一瞬忘れた。


 リーゼは、ゆっくりとその紙へ手を伸ばしかけた。


 だが、途中で止まる。


「触れても?」


 グレン副長が頷いた。


「手袋越しなら」


 騎士団書記が薄い手袋を出した。


 リーゼはそれを着け、紙の端にそっと触れた。


 まるで、失くしたものの骨に触れるような手つきだった。


「……あった」


 声は、小さかった。


「私の訴えを、聞いた人がいた」


 その言葉に、胸が詰まった。


 彼女は、完全に無視されたと思っていた。


 自分の言葉は、どこにも届かなかったのだと思っていた。


 けれど、誰かは見ていた。


 正式な記録には上がらなかった。

 助けにはならなかった。

 でも、消えずに残っていた。


 グレン副長は低い声で言った。


「この再検査は、実施されていない」


 リーゼは紙から目を離さない。


「なぜですか」


「記録上は、護衛契約上の装備解除不可、任務交代検討中、本人待機処理。この三つで止まっている」


「止まった」


「ああ」


 グレン副長の声には、昨日よりはっきりした後悔があった。


「誰かが悪意を持って握り潰した可能性もある。あるいは、誰も深く追わなかっただけかもしれない。だが、結果は同じだ。再検査は行われなかった」


 リーゼは目を閉じた。


「私は、自分がおかしくなったのだと思っていました」


 その声は震えていた。


「剣が遅れる。体が止まる。右手が自分のものではない。訴えても、疲労だ、緊張だ、護衛任務の重圧だと言われた。だから、最後には本当に、自分の心が弱いのだと思った」


 誰も、すぐには言葉を挟めなかった。


 ダリオが珍しく、何も茶化さなかった。


 リーゼは紙を見つめたまま続けた。


「でも、この人は、精神的問題と判断するには早計、と書いてくれた」


「ああ」


 グレン副長は頷いた。


「書いている」


「名前は?」


 リーゼが聞いた。


 グレン副長は紙の端を確認した。


「医務担当見習い、エルマ・レイン。当時は見習い。現在は地方療養所勤務とある」


「この人の名を、記録に残してほしい」


 リーゼは顔を上げた。


 目元は赤い。


 でも、視線は揺れていなかった。


「正式記録に上がらなかったとしても、この人は見てくれた。私を、精神の弱い騎士と決めつけなかった。そのことを、残してほしい」


 グレン副長は深く頷いた。


「残す」


 俺も記録した。


『旧医務担当見習いエルマ・レインの私的メモを確認。

リーゼ・ヴァルトの右手反応鈍化、腕輪異常訴え、剣技動作開始時の遅延、再検査必要との記述あり。

リーゼ本人、この記録を確認し、“この人の名を、記録に残してほしい”と発言』


 書きながら、セリアの言葉を思い出した。


 記録は、すぐには助けてくれないこともある。

 でも、消えなければ後で誰かを助ける。


 まさに、それだった。


 ダリオが低く言った。


「正式じゃない紙が、正式な紙より真実に近いこともあるんだな」


 グレン副長は苦い顔をした。


「本来は、そうであってはならない」


「でも、そうだった」


「ああ」


 グレン副長は逃げなかった。


 それがリーゼにとって救いなのか、痛みなのか、まだ分からなかった。


 次に、グレン副長は別の記録を出した。


「もう一つ。リーゼが提出したとする異常報告書についてだが、正式保管庫にはない。ただし、受領簿の端に不自然な空欄がある」


 彼は古い受領簿を開いた。


 日付。

 提出者。

 書類種別。

 受領者印。


 その中の一行だけ、提出者名が薄く削られたようになっていた。


 完全には読めない。


 だが、紙の跡がある。


「削られていますね」


 俺が言うと、グレン副長は頷いた。


「意図的か、破損かは判断できない。ただし、日付はリーゼの待機処理の二日前だ」


 俺は鑑定をかけた。


《騎士団受領簿・該当欄》

《状態:表層削損》

《残存筆跡:微弱》

《候補文字:リーゼ・ヴァルト/異常報告》

《確度:中》

《注意:完全復元不可》


「完全復元はできませんが、候補文字として“リーゼ・ヴァルト”“異常報告”が出ます。確度は中」


 グレン副長の顔が険しくなった。


「それも記録してくれ」


「はい」


 リーゼは受領簿を見た。


「私の報告書は、ここで消えたのかもしれない」


「可能性はある」


 グレン副長は言った。


「だが、まだ断定できない」


 リーゼは少しだけ笑った。


 笑いというより、苦い息だった。


「証拠はまだ足りない、ですね」


「すまない」


「謝らないでください」


 リーゼは首を横に振った。


「今は、足している途中です」


 その言葉に、グレン副長は何も言わなかった。


 だが、その表情に少しだけ驚きがあった。


 リベル村で覚えた言葉が、彼女の中に根を張っている。


 ダリオが小さく呟く。


「リベル村式、騎士団本部でも感染してるな」


「悪いことではない」


 リーゼは短く返した。


 閲覧室での確認は昼過ぎまで続いた。


 正式記録には腕輪の記述なし。

 異常報告書本体は未発見。

 受領簿に不自然な削損。

 医務担当見習いの私的メモに、腕輪異常訴えと再検査必要の記述。


 これだけでは、まだ完全ではない。


 だが、昨日までとは違う。


 リーゼの訴えは、ただの本人主張ではなくなった。


 同時代の第三者記録が見つかったのだ。


 閲覧が終わると、グレン副長は医務メモの写しを封筒に入れ、正式な確認印を押した。


「この写しを行政庁、防衛局、リベル村記録者へ渡す。原本は騎士団で保全する。削損受領簿も保全対象とする」


「ありがとうございます」


 リーゼが言った。


 グレン副長は少しだけ目を細める。


「礼を言われることではない。本来、当時やるべきだったことだ」


「それでも」


 リーゼは封筒を見た。


「残っていたことを、見つけてくれました」


 グレン副長は返事をしなかった。


 ただ、深く頷いた。


 騎士団本部を出る時、リーゼは中庭で少し足を止めた。


 訓練場では、若い騎士たちが木剣を振っている。


 かつての自分も、あそこにいたのだろう。


 迷いなく剣を振り、自分の未来が騎士団の中にあると思っていた頃。


「戻りたいですか」


 俺が聞くと、リーゼは首を横に振った。


「戻りたいわけではない」


 彼女は訓練場を見つめた。


「ただ、ここで剣を振っていた自分まで否定する必要はなかったのだと思えた」


 それは、昨日の彼女にはなかった言葉だった。


 ダリオが隣で言った。


「古い自分も、完全に捨てなくていいってやつか」


「たぶん、そうだ」


「難しいな」


「難しい」


 リーゼは少しだけ笑った。


「でも、少し息がしやすい」


 宿へ戻る途中、俺たちは行政庁へ寄り、医務メモの写しと受領簿削損記録を提出した。


 オルブライトはそれを読み、静かに言った。


「これで、リーゼ氏の確認文はさらに強くなります」


 ラウルも頷く。


「騎士団内に、当時異常を疑った者がいた。その記録が残っている。大きい」


 リーゼは封筒を見つめていた。


「エルマ・レインという人は、今どこにいるのでしょう」


「地方療養所勤務とあります」


 オルブライトが答える。


「必要なら、後日照会可能です」


「今すぐではなくていいです」


 リーゼは言った。


「でも、いつか礼を言いたい」


 その言葉も、俺は記録した。


 夜、宿でリベル村へ送る報告を書いた。


『騎士団本部にて、リーゼの過去記録を確認。

正式記録では、分類は任務離脱。逃亡ではない。

腕輪異常報告書本体は未発見。

ただし、旧医務担当見習いエルマ・レインの私的メモを確認。

内容:右手反応鈍化、本人は装着腕輪の異常を訴える、剣技動作開始時のみ遅延、精神的問題と判断するには早計、再検査必要。

受領簿に削損欄あり。候補文字としてリーゼ・ヴァルト/異常報告。

リーゼは、エルマ・レインの名を記録に残してほしいと発言。』


 書き終えると、リーゼが言った。


「セリアに伝わるだろうか」


「はい」


「なら、こう書き足してほしい」


 彼女は少し考えてから言った。


「私は、完全に無視されていたわけではなかった。だが、助けられもしなかった。それが苦しい。でも、残っていたことは嬉しい」


 俺はそのまま書き足した。


 ダリオは窓辺で外を見ていた。


「今日の記録は、重いな」


「はい」


「でも、悪い重さじゃない」


 リーゼは封筒を胸元に抱いた。


「そうだな」


 その夜、俺は個人記録を書いた。


『リーゼの声は、完全には消えていなかった。

正式記録にはなかった。助けにはならなかった。

それでも、医務担当見習いの私的メモとして残っていた。

記録は、すぐには人を救わないことがある。

だが、消えなければ、何年も後にその人へ“あなたの訴えは存在した”と返すことができる。』


 最後に、リーゼの言葉を残した。


『完全に無視されていたわけではなかった。

だが、助けられもしなかった。

それが苦しい。

でも、残っていたことは嬉しい。』


 王都の夜は、相変わらず明るかった。


 けれど今夜だけは、その明るさの中に、遠い昔の小さなメモが浮かび上がっているように思えた。


 誰かが走り書きで残した数行。


 それが今、ひとりの剣士の過去の見出しを変え始めている。

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