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第77話 騎士団副長、現る

 グレン・バルナード副長が行政庁を訪れたのは、翌朝の鐘が二つ鳴った頃だった。


 その到着は、思ったより静かだった。


 騎士団の副長という肩書きから、もっと大仰な護衛や従者を連れてくるものだと思っていた。だが、彼が連れていたのは書記官が一人だけ。馬車も目立つものではなく、騎士団の紋章も小さく控えめだった。


 その代わり、本人の存在感が重かった。


 背は高い。

 年齢は四十前後だろうか。

 短く整えた黒髪に、鋭い灰色の目。鎧ではなく濃紺の軍装を着ているが、立っているだけで鍛えられた騎士だと分かる。


 無駄がない。


 歩き方も、視線の動かし方も、扉の前で一度だけ止まる仕草も。


 リーゼは、その姿を見た瞬間に背筋を伸ばした。


 反射だった。


 身体が先に、かつての騎士団員として反応したのだと思う。


 グレン副長の視線も、すぐにリーゼを捉えた。


「リーゼ・ヴァルト」


 声は低く、硬い。


「久しいな」


「……グレン副長」


 リーゼの声も硬かった。


 そこには懐かしさより、長く閉じた扉を開けられたような緊張があった。


 行政庁の小会議室には、すでにオルブライト、ラウル査察官、ギルド記録官、俺、ダリオが席についている。


 グレン副長は部屋を一瞥し、最後に俺の記録板へ目を留めた。


「リベル村代表記録者、レオン・アスター殿か」


「はい」


「騎士団側も書記を同席させる。発言は双方で記録する」


「承知しました」


 彼は椅子に座った。


 リーゼは少し迷った後、向かいの席へ座る。

 剣は腰にある。

 だが、柄から手を離している。


 ダリオが小声で俺に言った。


「この人、怖いな」


「正面から言わないでください」


「小声だ」


「記録しますか?」


「しなくていい」


 グレン副長の視線が一瞬だけこちらへ向いた。


 聞こえていたらしい。


「怖いと思われるのは慣れている」


 ダリオは肩をすくめた。


「失礼しました」


「構わん。私も、技師組合の人間よりは怖くないつもりだ」


「それは少し安心しました」


 少しだけ場が緩んだ。


 だが、グレン副長はすぐに本題へ入った。


「リーゼ・ヴァルトの件について、騎士団の立場を説明する」


 彼は書記官に合図し、文書を机へ置いた。


「騎士団記録では、リーゼ・ヴァルトはローゼン侯爵家令嬢護衛任務中に任務継続不能となり、その後、正式な復帰手続きを経ず王都を離れた。分類は“任務離脱”。逃亡扱いではない」


 リーゼの表情がわずかに動いた。


「逃亡では、ないのですね」


「少なくとも正式分類上は違う」


 グレン副長はそう答えた。


「ただし、未処理の記録だ。離脱理由の精査が不十分なまま残っている」


「なぜ、精査されなかったのですか」


 リーゼの声には、抑えた怒りがあった。


 グレン副長は逃げなかった。


「当時、ローゼン侯爵家側からは、護衛任務中の精神的疲労および騎士本人の適性問題と報告された。騎士団内でも、それに近い扱いで処理が進んだ」


「私は、腕輪の異常を訴えました」


「聞いている」


「今ではなく、当時です」


「……ああ」


 グレン副長は短く答えた。


 その沈黙は、軽くなかった。


 リーゼは膝の上で手を握った。


「私は、自分の剣が自分のものではなくなっていく感覚を、何度も訴えました。右手が遅れる。体が勝手に止まる。剣技回路が途切れる。腕輪を外してほしいと」


「その報告は、正式記録には残っていない」


 グレン副長は言った。


「少なくとも、現時点で確認できる騎士団主記録にはない」


 リーゼの顔が少し白くなった。


「……ない」


「だから、私はここへ来た」


 グレン副長は机の上の書類を見た。


「リベル村から提出された腕輪解除時の鑑定写し、剣技回路回復記録、本人確認文。これらが事実なら、騎士団の記録は不完全だ」


 ラウル査察官が低く言った。


「不完全、で済むか?」


「済まない可能性がある」


 グレン副長は即答した。


「だが、騎士団は記録で動く。感情や憶測では、正式記録を修正できない」


 リーゼが静かに顔を上げた。


「私は、また記録が足りないと言われるのですか」


 その言葉に、部屋の空気が重くなる。


 セリアがここにいたら、きっと胸を痛めただろう。


 俺は記録板を握る手に少し力を入れた。


 グレン副長はリーゼをまっすぐ見た。


「足りないと言うために来たのではない。足すために来た」


 リーゼは黙った。


「腕輪が事実なら、騎士団の記録は修正されるべきだ。任務離脱の見出しも、離脱理由も、当時の対応も。だが、正式に動かすには腕輪原本、解除記録、医務記録、当時の報告経路の照合が必要になる」


「腕輪原本は、王都へ渡しません」


 リーゼはすぐに言った。


 声は震えていなかった。


「私の身体に着けられていたものです。私の被害記録です。リベル村で保管しています」


「リベル村の回答は読んだ」


 グレン副長は頷いた。


「現地閲覧条件も確認した。騎士団としては、原本提出を求める声もある。だが、私は現地確認でよいと考えている」


 リーゼの目がわずかに開かれた。


「……本当に?」


「ああ。少なくとも、疑惑がある状態で王都へ無条件移送させるのは適切ではない」


 ダリオが小さく呟いた。


「騎士団にも話が分かる人がいたか」


 グレン副長はそちらを見た。


「分かっていなかったから、今こうなっている」


 ダリオは返す言葉を失った。


 グレン副長は続ける。


「リーゼ。私は当時、お前の直属ではなかった。だが、護衛任務の報告を見る立場にはいた。お前の異常を深く調べなかった責任は、私にもある」


 リーゼの喉が小さく動いた。


「責任を認めるのですか」


「責任がある可能性を認める」


 グレン副長は慎重に言った。


「まだ全てを確認していない。だが、確認する前から責任がないとは言わない」


 リーゼはそれを聞いて、少し目を伏せた。


 謝罪ではない。

 完全な味方宣言でもない。


 けれど、彼は逃げなかった。


 王都でそれは、思ったより珍しいことだった。


 オルブライトが文書を出した。


「リベル村側からは、腕輪解除記録の写しが提出されています。行政庁としては、現地閲覧条件のもとで原本確認を実施する方向です。騎士団側の代表として、グレン副長が同行する意思はありますか」


「ある」


 即答だった。


「私は、リベル村で腕輪原本を確認する」


 その声に迷いはなかった。


「ただし、確認は騎士団の面子を守るためではない。記録を正すためだ」


 リーゼが彼を見つめた。


「その言葉も、記録されます」


「構わん」


 俺は記録した。


『グレン・バルナード副長発言。

“私は、リベル村で腕輪原本を確認する。ただし、確認は騎士団の面子を守るためではない。記録を正すためだ。”』


 書いていると、グレン副長の視線が筆先に向いた。


「良い記録者だな」


「ありがとうございます」


「リーゼが、リベル村で立っていられる理由が少し分かった」


 リーゼはわずかに目を見開いた。


 グレン副長は続けた。


「王都の記録は、お前を任務離脱者として止めていた。だが、リベル村の記録は、お前を防衛役として動かしている」


 リーゼは何も言わなかった。


 ただ、その言葉を受け止めていた。


 その後、協議は実務へ移った。


 現地閲覧時の騎士団代表はグレン副長。

 随行は書記官一名まで。

 武装護衛は原則なし。

 腕輪原本には、リーゼ本人の同意なしに触れない。

 測定具を用いる場合は、リベル村側鑑定を受ける。

 閲覧記録は、リベル村、行政庁、防衛局、騎士団、ギルドでそれぞれ保管する。


 ダリオが横から口を挟む。


「技師組合代表が変な測定具を持ってきた場合は?」


 グレン副長が答えた。


「却下だ」


「早いな」


「腕輪確認に、技師組合の都合を持ち込ませるつもりはない」


「いいですね」


 ダリオが少しだけ笑った。


「騎士団副長、好きになりそうだ」


「好かれる必要はない」


「そういうところもいい」


 グレン副長は少しだけ眉をひそめた。


 ラウルが珍しく笑いをこらえていた。


 協議の終盤、リーゼが静かに口を開いた。


「グレン副長」


「何だ」


「私は、騎士団に戻るつもりはありません」


 部屋が静かになった。


「記録が修正されても、私は今、リベル村の防衛役です。あの村で、守るものができました」


 グレン副長はしばらくリーゼを見ていた。


「そうか」


 短い返事だった。


「戻れとは言わん。まず、記録を正す」


「はい」


「その後の道は、お前が決めろ」


 リーゼの表情が、少しだけ揺れた。


 騎士団でそんなふうに言われたことが、きっと少なかったのだろう。


 本人が決める。


 リベル村では当たり前になりつつある言葉が、王都ではまだ珍しい。


 協議が終わった後、グレン副長は退室前に立ち止まった。


「リーゼ」


「はい」


「当時、お前の訴えを拾いきれなかったことについては、まだ正式に謝罪できる段階ではない」


 彼は一度言葉を切った。


「だが、私は調べる。途中で止めない」


 リーゼは深く息を吸った。


「……お願いします」


 その声は、かすかに震えていた。


 グレン副長が去った後、会議室にはしばらく沈黙が残った。


 ダリオが最初に口を開いた。


「思ったより、まともだったな」


 リーゼが椅子に座ったまま言った。


「まともだから、余計にきつい」


「そういうもんか」


「完全な敵なら、憎めば済む。だが、あの人はたぶん、怠った人だ」


 その言葉は静かだった。


「悪意で潰したのではなく、深く見なかった。忙しさや面子や慣例の中で、私の異常を処理した」


 俺は記録板を閉じずに聞いていた。


 リーゼは続ける。


「だから、苦しい。あの人だけを責めても、たぶん足りない」


 ラウルが低く言った。


「組織の失敗だ」


「はい」


 リーゼは頷いた。


「だから、記録を直す必要があるのですね」


 オルブライトが静かに答えた。


「ええ。個人の謝罪だけでは、組織の記録は変わりません」


 リーゼは小さく笑った。


「王都らしい嫌な答えだ」


「ですが、必要です」


「分かっています」


 その日の午後、俺はリベル村へ報告を書いた。


『王都騎士団副長グレン・バルナードと協議。

グレン副長はリーゼの元上官格。過去の異常報告を十分に調査しなかった責任がある可能性を認める。

騎士団代表としてリベル村で腕輪原本を確認する意思あり。

原本移送ではなく、現地閲覧条件を概ね受け入れる方向。

リーゼは、記録修正後も騎士団へ戻る意思はなく、リベル村防衛役を続ける意向を明言。

グレン副長は“まず記録を正す。その後の道は本人が決めろ”と発言。』


 最後に、少し考えてから一文を足した。


『リーゼは、完全な敵ではない相手と向き合った。これは、かなり苦しい戦いだったと思う。』


 夜、宿に戻る途中、リーゼは王都の空を見上げた。


 雲が薄く流れている。


 城壁の内側の空は狭い。

 それでも、空は空だった。


「少しだけ」


 リーゼが言った。


「少しだけ、息がしやすくなった」


「よかったです」


「まだ、怖いがな」


「はい」


 ダリオが横から言った。


「怖いまま進むのが、最近のリベル村式だな」


「合言葉がまた増えたな」


 リーゼは少しだけ笑った。


 その笑みは小さかったが、王都に来てから一番自然だった。

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