第75話 腕輪は誰の証拠か
クラウスとの廊下での接触から一夜明けて、王都行政庁には二通の文書が届いた。
一通は、王都騎士団から。
もう一通は、技師組合経由で提出されたクラウス・ベルナー名義の意見書だった。
どちらも文面は丁寧だった。
だが、丁寧な文ほど、牙を隠していることがある。
行政庁の小会議室で、オルブライトはその二通を机に並べた。
同席していたのは、俺、リーゼ、ダリオ、ラウル査察官、ギルド記録官。
オルブライトはまず、騎士団の文書を読み上げた。
「王都騎士団は、リーゼ・ヴァルト氏の過去任務離脱記録に関し、同氏が主張する腕輪による剣技回路封鎖の事実確認を求める。ついては、当該腕輪原本、解除時記録、鑑定記録の提出または閲覧を要請する」
リーゼは表情を変えなかった。
だが、机の下で握った右手に力が入っているのが分かった。
「要請、か」
ダリオが低く言った。
「命令じゃないだけ、まだましだな」
オルブライトは頷く。
「現時点では要請です。拒否は可能。ただし、拒否理由を問われます」
「拒否ではありません」
俺は言った。
「条件付き閲覧なら検討します。ただし、原本提出は慎重にする必要があります」
ラウルが腕を組む。
「当然だ。証拠物を向こうへ渡せば、紛失、破損、差し替え、黒塗り。何でも起こり得る」
ダリオが嫌そうに笑った。
「実体験が多すぎて笑えねえな」
オルブライトは二通目の文書へ視線を落とした。
「もう一通。クラウス技師からの意見書です」
部屋の空気が少し硬くなる。
「黒石祠外殻片、腕輪原本、その他リベル村保管中の古代術式関連物は、危険物である可能性が高く、辺境村で保管することは不適切。王都技師組合または行政庁管理下での保管・解析が望ましい、と」
リーゼの声が冷えた。
「腕輪を、技師組合へ渡せと?」
「要約すれば」
オルブライトは淡々と答えた。
ダリオが机を指で叩く。
「寝言だな。しかも悪い寝言だ」
「意見書としては受領します」
「受領だけでいい。実行したら、紙の盾どころか紙の棺桶になる」
ラウルが頷いた。
「原本移送は、現時点で危険が大きい。リベル村側の保管条件を確認し、必要なら現地閲覧の方がよい」
「現地閲覧……」
リーゼが繰り返した。
俺はすぐに記録板へ書いた。
『腕輪原本提出要請に対し、原本移送ではなくリベル村現地閲覧を基本方針として検討』
オルブライトは俺の手元を見て言った。
「リベル村側の正式回答が必要です。村長、腕輪の本人であるリーゼ氏、証拠保管担当者の同意が必要でしょう」
「証拠保管担当は?」
「リベル村で実際に保管している方です」
その瞬間、セリアの顔が思い浮かんだ。
治療所。
薬草予定地。
小さな芽。
そして、リーゼの腕輪を保管した封印箱。
「村へ確認文書を送ります」
俺は言った。
「提出ではなく、保全条件の確認として」
リーゼが俺を見た。
「頼む」
短い言葉だった。
しかし、その中には彼女が王都で抱えている不安のほとんどが詰まっていた。
同じ頃、リベル村では、朝の見回りが終わったばかりだった。
セリアは薬草予定地の前にしゃがみ込み、傷洗い草の芽を見ていた。
芽は、昨日よりほんの少し葉を開いている。
子供たちは小声で騒いでいた。
「葉っぱ、増えた?」
「増えてないけど、広がった」
「触らない」
「知ってる」
セリアが笑いかけた時、村の入口からニコルの声がした。
「王都から文書です!」
その声は少し緊張していた。
村長宅には、すぐに村長、セリア、トマ、ニコルが集まった。
ダリオとリーゼと俺は王都にいる。
つまり、今この村で判断するのは、残った者たちだ。
ニコルが封を切る前に、深呼吸した。
「読みます」
封蝋は行政庁。
中には、俺の記録写しと、オルブライトの短い添え書きが入っていた。
ニコルは一文ずつ読み上げる。
「王都騎士団より、リーゼ・ヴァルト氏の腕輪原本、解除時記録、鑑定記録の提出または閲覧要請あり……」
セリアの顔が硬くなる。
トマがすぐに言った。
「提出? 渡せってことか?」
「提出または閲覧、です」
ニコルは続ける。
「クラウス・ベルナーより、腕輪原本および黒石祠外殻片等を王都側管理下へ移すべきとの意見書あり……」
「駄目だ」
トマが即座に言った。
「絶対駄目だ。渡したら戻ってこねえ気がする」
村長は黙って聞いていた。
セリアは膝の上で手を握っている。
腕輪。
あれは、ただの道具ではない。
リーゼの剣を封じたもの。
彼女に、自分が壊れたのだと思わせたもの。
そして今、王都で彼女自身を守る証拠になり得るもの。
それを王都へ渡す。
考えただけで、胸の奥が冷たくなった。
村長が静かに言った。
「まず、腕輪は今どこにある」
セリアが答える。
「治療所奥の封印箱です。解除時の鑑定写しと一緒に保管しています。封印は、私の浄化印とレオンさんの記録印、村長の承認印です」
「黒石祠外殻片は」
「地下工房の証拠棚です。こちらも封印済みです」
村長は頷いた。
「なら、確認する」
四人はまず治療所へ向かった。
治療所の奥、棚の下段に小さな鉄箱がある。
派手な箱ではない。
だが、三重の封印がかけられていた。
セリアはその前に膝をついた。
「開けますか」
村長は首を横に振る。
「まず外から確認じゃ。開封は記録してから」
ニコルが記録板を構える。
「リーゼ・ヴァルト氏腕輪原本保管箱。外観確認。封印破損なし……」
セリアは手をかざし、浄化印の反応を見る。
「浄化印、安定。外部干渉なし」
トマは周囲を確認する。
「窓も扉も問題なし。変な足跡なし」
ニコルが全部書く。
村長はようやく頷いた。
「よい。今日は開けぬ。原本は無事と記録する」
セリアは小さく息を吐いた。
自分が緊張していたことに、そこで気づいたようだった。
次に地下工房へ降りる。
証拠棚には、黒石祠外殻片が封印袋に入れられて保管されていた。
こちらも異常なし。
ただ、中枢室の結晶柱が反応した。
《証拠物保全照会》
《対象:腕輪原本/黒石祠外殻片》
《推奨:移送非推奨》
《推奨:現地閲覧/複数立会人/封印状態記録/返却条件不要》
ニコルが目を丸くする。
「返却条件不要?」
セリアが表示を見つめる。
「移送しなければ、返却の必要がないからですね」
「なるほど」
トマが感心したように言った。
「工房、たまに役所より分かりやすいな」
村長が静かに笑う。
「では、方針は見えたな」
村長宅へ戻ると、正式回答を作ることになった。
ニコルが筆を持つ。
セリアは腕輪保管記録を横に置いた。
トマは窓際で見張りながらも、時々口を挟む気満々の顔をしている。
村長がゆっくり口述した。
『リベル村は、リーゼ・ヴァルト氏腕輪原本および黒石祠外殻片について、現時点で王都側への原本移送を認めない。
理由は、証拠物の紛失、破損、差し替え、未承認解析の危険があるため。
ただし、リーゼ・ヴァルト氏本人意思、村長承認、リベル村証拠保管担当者同席、行政庁・防衛局・冒険者ギルド立ち会いのもと、リベル村現地での封印状態確認および限定閲覧は協議可能とする。
腕輪原本は、被害者本人に関わる証拠であり、本人同意なしに外部移送しない。
黒石祠外殻片は、地域封鎖術式疑いに関する証拠物であり、現地記録と紐づけて保管する。』
ニコルの筆が止まった。
「強いですね」
トマが腕を組む。
「いい。めちゃくちゃいい。渡さねえってちゃんと言ってる」
セリアは少し考えてから言った。
「腕輪は、リーゼさんのものではないかもしれません。でも、リーゼさんの身体に付けられていたものです。証拠である前に、彼女の傷に関わるものです」
村長は頷いた。
「それも入れよう」
ニコルが書き足す。
『腕輪原本は、単なる技術資料ではなく、リーゼ・ヴァルト氏本人の被害記録に関わる物証である』
セリアはその一文を見て、小さく頷いた。
「はい。これが必要です」
王都では、その返答を待つ間、俺たちは行政庁の小部屋で待機していた。
リーゼは窓の外を見ている。
ダリオは机の上で指を動かし、何かの図面を頭の中で組んでいるようだった。
俺は、リベル村へ送った照会文の控えを見ていた。
「心配ですか」
リーゼが聞いた。
「はい」
俺は素直に答えた。
「村に負担をかけています」
「村に残った者たちも、自分で選んだ」
「そうですね」
「セリアなら、腕輪をただの物として扱わない」
リーゼの声は静かだった。
「それは分かる」
ダリオも口を挟んだ。
「トマはたぶん、渡すなって叫んでる」
「たぶんではなく、確実ですね」
「ニコルは全部書いてる」
「はい」
「村長は、強い文にする」
「間違いありません」
そう言い合ううちに、少しだけ不安が形を変えた。
遠くにいるのに、何をしているか想像できる。
それは、信頼なのかもしれない。
夕方前、返答文が行政庁へ届いた。
オルブライトが文面を読み、珍しく少しだけ眉を上げた。
「強いですね」
ラウルが横から覗き込む。
「良い文だ」
俺も読んだ。
リベル村からの回答。
原本移送は認めない。
現地閲覧なら協議可能。
本人意思、村長承認、証拠保管担当同席、行政庁・防衛局・ギルド立ち会い必須。
腕輪は単なる技術資料ではなく、リーゼ本人の被害記録に関わる物証。
リーゼはその最後の一文を見つめた。
長い間、何も言わなかった。
「セリアか」
やがて、そう呟いた。
「おそらく」
俺は答えた。
リーゼは紙から目を離さずに言った。
「ありがたいな」
その声は、とても小さかった。
ダリオが頭をかいた。
「リベル村、強くなったな。俺たちがいない方がしっかりしてるんじゃないか」
「それは少し寂しいですが、頼もしいです」
「だな」
オルブライトはその文書を正式回答として処理し、騎士団と技師組合へ送る準備を始めた。
「行政庁としても、この条件は妥当と見ます。原本移送ではなく、現地閲覧が現実的でしょう」
ラウルも頷く。
「防衛局も同じ見解だ。証拠物を王都へ動かす方が危険だ」
リーゼは深く息を吐いた。
少しだけ、肩の力が抜けていた。
その夜、宿に戻ってから、俺は村へ短い報告を書いた。
『リベル村回答、受領。
腕輪原本移送拒否、現地閲覧条件提示。行政庁・防衛局とも妥当と判断。
リーゼ、回答文を確認。“ありがたい”と発言。
腕輪を単なる技術資料ではなく、本人の被害記録に関わる物証とした一文が非常に重要。
証拠物は引き続き村で保全してください。』
書き終えた時、リーゼが言った。
「その“ありがたい”も記録したのか」
「はい」
「少し恥ずかしいな」
「消しますか?」
リーゼは少し考え、首を横に振った。
「残してくれ」
ダリオが笑う。
「リベル村に帰ったら、セリアに読まれるぞ」
「構わない」
リーゼは静かに言った。
「伝わった方がいいこともある」
俺はその言葉も、個人記録に残した。
『伝わった方がいいこともある。』
王都の灯りは、今夜も消えない。
けれど、リベル村から届いた紙の盾は、その冷たい灯りの中で確かに俺たちを守っていた。




