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第74話 廊下の挑発

 足音は、ゆっくり近づいてきた。


 行政庁の廊下は広い。床は磨かれた石で、窓から差す光が細く伸びている。人の声は遠く、扉一枚隔てた会議室の中だけが、妙に静かだった。


 クラウス・ベルナーが来ている。


 その事実だけで、ダリオの肩が硬くなるのが分かった。


 彼は拳を握りかけ、すぐに開いた。


「殴らない」


 自分に言い聞かせるような声だった。


 リーゼが短く答える。


「斬らない」


 俺は記録板を手に取った。


「記録します」


 ダリオがこちらを見た。


「この村式、王都でも使うと本当に嫌な顔をされるな」


「有効です」


「分かってる」


 扉の向こうで、職員の声がした。


「クラウス技師、こちらは協議中です。直接の接触は――」


「私は抗議に来ただけです」


 聞き覚えのある声だった。


 丁寧で、滑らかで、冷たい。


「昨日の閲覧記録には、事実と異なる解釈が含まれている。行政庁に訂正を求める権利があるはずです」


 オルブライトは席を立った。


「この場で応対します。皆さんは中で待機を」


 だが、ダリオが首を横に振った。


「いや。俺に関わる話なら、聞く」


 ラウル査察官が目を細める。


「挑発に乗るな」


「乗らん。聞くだけだ」


 リーゼも立ち上がった。


「私も行く」


 オルブライトはしばらく考えた後、頷いた。


「では廊下で。ただし、発言はすべて記録します。接触禁止。大声による威圧も禁止。こちらからの質問に答える形で」


「行政庁らしいな」


 ダリオが苦く笑った。


「細かい」


「細かいから、残ります」


 扉が開いた。


 廊下に立っていたクラウスは、昨日と同じように整った技師服を着ていた。銀縁の眼鏡。黒革の手袋。隙のない身なり。


 ただし、顔色は少し悪い。


 昨日の閲覧で、黒塗りの下にあるものが見えかけた。

 クラウス自身が補修記録に名を残していた。

 その事実は、彼の立場を確実に削っている。


 クラウスは俺たちを見ると、薄く笑った。


「随分と大人数ですね。辺境村の方々は、廊下を歩くにも護衛と記録係が必要なのですか」


 俺は記録板に書いた。


『クラウス・ベルナー、廊下にて発言。辺境村の方々は、廊下を歩くにも護衛と記録係が必要なのですか』


 クラウスの視線が筆先に落ちる。


 笑みが少しだけ硬くなった。


「本当に、何でも記録するのですね」


「必要な発言は記録します」


 俺が答えると、クラウスは肩をすくめた。


「なら記録してください。昨日の閲覧において、リベル村側は古い資料を恣意的に解釈し、クラウス・ベルナー個人およびローゼン侯爵家に不当な疑いをかけた」


 俺はそのまま記録した。


 オルブライトが淡々と言う。


「抗議内容として受領します。ただし、昨日の閲覧記録には、資料状態、黒塗り、頁番号不連続、補修記録者名が記載されています。解釈ではなく、資料状態の記録です」


「資料状態をどう読むかが問題でしょう」


 クラウスは俺ではなく、ダリオを見た。


「特に、除名された元技師の記憶に頼るなど、行政庁ともあろうものが危うい判断をする」


 ダリオの頬がわずかに動いた。


 だが、拳は握らなかった。


「除名されたのは事実だ」


 ダリオは言った。


「だが、昨日見た頁二十一の補修記録者があんただったのも事実だ。黒塗りがあったのも、頁が飛んでいたのも、俺の記憶じゃない。紙に残っていた」


 クラウスの目が細くなる。


「君は昔からそうだ。自分の理解できない仕組みを見ると、すぐ不正だと騒ぐ。技師として必要なのは、現場を混乱させる正義感ではなく、全体を見る冷静さだ」


 ダリオは鼻で笑った。


「全体ってのは、貴族の都合まで含むのか?」


「言葉に気をつけた方がいい」


「気をつけるのはあんただ。ここはリベル村じゃないが、記録係はいる」


 俺は書き続けた。


 クラウスは一瞬、こちらを睨んだ。


 その視線が、次にリーゼへ移る。


「それにしても、懐かしい顔もいる」


 空気が変わった。


 リーゼは動かない。


 クラウスは柔らかく微笑んだ。


「リーゼ・ヴァルト。王都騎士団の元有望株。いや、今はリベル村の防衛役でしたか」


「そうだ」


「騎士団では、あなたの記録について確認が進んでいるようですね」


「知っている」


「任務離脱。護衛対象からの無断離脱。騎士団規則違反。そうした記録が出てきた場合、リベル村の護衛役という肩書きでどこまで守れるでしょう」


 リーゼの右手が、わずかに動いた。


 剣へは行かない。


 手首に触れそうになって、止まった。


 俺は記録する。


『クラウス、リーゼ・ヴァルトに対し、任務離脱、護衛対象からの無断離脱、騎士団規則違反の可能性に言及』


 リーゼは一歩も退かなかった。


「私の確認文は提出済みだ。腕輪による剣技回路封鎖、強制制御痕、本人意思。すべて記録している」


 クラウスは小さく笑う。


「腕輪。便利な言葉ですね。任務に耐えられなかった者は、いつも外部のせいにする」


 廊下の空気が冷えた。


 ダリオが一歩出かけた。


 リーゼが片手で制した。


「私が答える」


 声は静かだった。


「私は、任務に耐えられなかったのではない。任務中に装着された腕輪で、剣を封じられた。異常を訴えたが、適切に扱われなかった。そこまでは記録にした」


「あなたの主張です」


「そうだ。だから、腕輪本体と解除記録がある」


「リベル村に、ですね」


 クラウスはそこを突いた。


「つまり、ここにはない」


「写しがある」


「写しは写しです。原本ではない」


 ラウルが低く口を挟んだ。


「クラウス技師。あなたは何の立場で、騎士団記録に言及している」


 クラウスはラウルを見た。


「私は、王都の安全を憂慮しているだけです。危険な古代設備を抱える村に、除名技師、任務離脱者、元聖女候補、追放鑑定士が集まっている。偶然と考える方が難しい」


「言い方を変えれば、王都で適切に扱われなかった者たちが、辺境で自分の役割を取り戻しているとも言える」


 オルブライトが静かに言った。


 クラウスの表情が消えた。


 行政官のその一言は、刃ではない。


 だが、クラウスの言葉を真正面から受け止め、別の意味へ置き換えた。


 俺はその発言も記録した。


 クラウスは、今度は俺へ向いた。


「レオン・アスター。あなたも随分と立場を変えましたね。勇者パーティーで役に立たず、辺境村で記録係とは」


 胸の奥に、古い痛みが走った。


 無能。


 役立たず。


 追放された日。


 一瞬だけ、王都の喧騒が遠くなる。


 だが、俺の手は記録板を握っていた。


 リベル村の水音を思い出す。

 薬草の芽を思い出す。

 セリアが「守ります」と言った顔を思い出す。

 ニコルが「帰還予定」と読み上げた声を思い出す。


「記録係ではありません」


 俺は言った。


「リベル村代表記録者です」


 クラウスは鼻で笑った。


「同じでしょう」


「違います」


 俺は記録板を閉じずに続けた。


「俺は、壊されたものを鑑定し、直すための記録を残しています。勇者パーティーにいた時、自分の仕事を説明しきれなかった。それは俺の弱さでもありました。でも今は、記録しています」


 クラウスの目が細くなる。


「それで自分の価値を証明したつもりですか」


「証明するためではありません」


 俺は首を振った。


「壊されたものが、壊されたまま終わらないようにするためです」


 廊下が静かになった。


 クラウスはすぐには返せなかった。


 ダリオが横で小さく笑う。


「いいじゃねえか。リベル村っぽい」


「茶化さないでください」


「褒めてる」


 リーゼも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 クラウスは沈黙を嫌ったように、手袋を直した。


「いずれにせよ、あなた方の記録は不完全です。黒塗りの解除も、原本確認も、組合の正式許可なくしては不可能。昨日の閲覧結果だけで騒ぐなら、行政庁の信用も傷つくでしょう」


 オルブライトが答える。


「そのため、正式に追加開示を申請します」


「通るとお思いで?」


「通らない場合も記録します」


 クラウスの顔がわずかに歪んだ。


 この返しが、彼にとって一番厄介なのだろう。


 通っても記録。

 拒んでも記録。

 黒塗りも記録。

 差し替え痕も記録。


 何かを完全に消すことが、難しくなっている。


「では、私からも申し上げておきます」


 クラウスは声を低くした。


「リベル村が持つ腕輪原本、黒石祠外殻片、その他古代設備関連物。これらは危険物として王都側に提出を求められる可能性があります。辺境村で保管すべきものではない」


 リーゼの目が鋭くなる。


「腕輪は渡さない」


「あなたに決める権限が?」


「私の身体に装着されていたものだ。私の被害記録だ」


 俺はすぐに付け加えた。


「リベル村にて証拠保全中です。外部提出は、本人同意、村長承認、第三者立ち会い、受領記録、返却条件が必要です」


 クラウスがこちらを見る。


「ずいぶん準備がいい」


「必要なので」


「誰が入れ知恵を?」


 ダリオが笑った。


「俺たち全員だ」


 ラウルが一歩前へ出た。


「クラウス技師。本日の抗議内容は受領した。これ以上、閲覧同行者への直接接触は不要だ」


「私はまだ――」


「不要だ」


 今度の声は、完全に防衛局のものだった。


 クラウスはしばらくラウルを見ていたが、やがて小さく頭を下げた。


「分かりました。正式文書で提出します」


「そうしろ」


 クラウスは去り際、ダリオの横で足を止めた。


「ダリオ。君は今度こそ、自分の記録に潰されないように気をつけることだ」


 ダリオは一瞬黙った。


 そして、静かに返した。


「今度は一人じゃない」


 クラウスは答えなかった。


 靴音が遠ざかる。


 廊下に残ったのは、重い沈黙だった。


 最初に息を吐いたのはリーゼだった。


「斬らなかった」


「殴らなかった」


 ダリオが続ける。


「記録しました」


 俺が言うと、オルブライトが真面目に頷いた。


「全員、条件を守りました」


 ラウルが少しだけ口元を緩める。


「リベル村式、意外と有効だな」


 ダリオは壁にもたれた。


「胃に悪いけどな」


 リーゼは自分の確認文を見つめた。


「腕輪原本を求めてくるかもしれない」


「はい」


 俺は答えた。


「でも、渡す条件は決められます」


「渡さない条件もだ」


「もちろんです」


 オルブライトは静かに言った。


「騎士団への回答には、リーゼ氏の確認文と腕輪鑑定写しを添付します。クラウス氏の発言も、本日の接触記録として保存します」


「お願いします」


 俺は頷いた。


 その日の午後、宿に戻った俺たちは、村へ送る報告を書いた。


『クラウス・ベルナー、行政庁廊下にて接触。

昨日の資料閲覧記録に抗議。

ダリオの除名歴、リーゼの騎士団任務離脱記録、レオンの勇者パーティー追放歴に言及し、信用性を揺さぶる発言あり。

リーゼ、本人確認文に基づき反論。

腕輪原本提出を王都側が求める可能性あり。

現時点で提出せず。条件整理が必要。

全員、暴力行為なし。接触記録保全。』


 書き終えた時、ダリオが言った。


「最後の“暴力行為なし”っているか?」


「必要です」


 リーゼが答えた。


「かなり重要だ」


「俺たち、子供みたいだな」


「王都では、暴力を振るわなかった記録も盾になる」


 ダリオは少し考え、頷いた。


「嫌な街だ」


 その夜、俺は個人記録を書いた。


『クラウスと廊下で再対峙。

挑発内容は、三人の過去を狙ったものだった。

ダリオの除名。リーゼの任務離脱。俺の追放。

いずれも、王都で一度“失敗”として記録されたもの。

だが今日は、その記録をそのまま受け入れず、こちらの記録で返した。』


 最後に書く。


『過去は消えない。

しかし、過去につけられた見出しは、書き換えられるかもしれない。

そのために、記録を残す。』


 窓の外では、王都の灯りがまた消えずに揺れていた。


 リベル村の夜が恋しかった。


 水車の音。

 小さな炉火。

 薬草の芽。


 あの村へ帰るためにも、ここで記録を手放すわけにはいかなかった。

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