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第72話 黒塗りの資料室

 王都技師組合の正門は、想像していたよりも無機質だった。


 歯車と炎の紋章。

 鉄で縁取られた重い扉。

 石壁に刻まれた歴代組合長の名。


 建物の前に立つと、油と金属と古い紙の匂いがした。


 ダリオは扉を見上げたまま、しばらく動かなかった。


「……相変わらず、偉そうな建物だ」


 声は乾いていた。


 リーゼは彼の少し後ろに立っている。

 護衛の位置だ。

 だが、ただ守るためだけではなく、背中を押しすぎない距離でもあった。


 俺は書類箱を抱え直した。


 中には、リベル村の記録が入っている。


 黒石祠の拓本。

 外殻片の鑑定記録。

 水脈停滞の地図。

 ダリオの旧告発文書に関する照会写し。


 そして、今日の閲覧条件書。


 行政庁のオルブライト、防衛局のラウル査察官、ギルド記録官も同席している。


 単独行動なし。

 立ち会い必須。

 資料の差し替え禁止。

 閲覧資料の名称、頁番号、欠落箇所、黒塗り箇所を記録。


 ここまで条件を固めて、ようやく扉の前に立てた。


 オルブライトが組合受付へ文書を提示した。


「行政庁の閲覧許可に基づき、指定資料の確認に来ました」


 受付の職員は、俺たちの顔を順に見た。


 ダリオのところで、視線が少し止まる。


「ダリオ・ガンツ……」


「元、がつく」


 ダリオは低く言った。


「今日はリベル村外部技師として来た。懐かしがりに来たわけじゃない」


 受付職員は返事に困ったように目を逸らし、奥へ人を呼びに行った。


 しばらくして現れたのは、白髪混じりの管理官だった。


 以前、オルブライトたちが保管庫で会った人物だという。


「技師組合資料管理官、モルツです」


 彼は形式的に頭を下げた。


 その目は、ダリオを見ないようにしている。


 あるいは、見ていることを悟られないようにしている。


「本日の閲覧資料は、行政庁から指定を受けた範囲のみです。組合機密に関わる部分は、すでに処理済みです」


「処理済み、とは」


 俺が聞くと、モルツ管理官は淡々と答えた。


「黒塗りです」


 ダリオが鼻で笑った。


「便利な墨だな。都合の悪い線だけ消せる」


「不適切な発言は控えていただきたい」


「記録してくれ。俺は不適切な男だ」


 ギルド記録官が本当に記録を始めたので、モルツ管理官の表情がわずかに強張った。


 ラウルが短く言う。


「案内を」


 資料室は、組合棟の二階奥にあった。


 窓は細く、光は弱い。

 壁一面に棚が並び、古い設計図を収めた筒や、革表紙の台帳が詰まっている。


 中央の机には、すでに三種類の資料が置かれていた。


 一つ目。

『旧管理印一覧・第三分類』


 二つ目。

『管理紐付け系機構に関する標準監視補助資料』


 三つ目。

『ローゼン侯爵家関連施工補助図・抜粋』


 その表紙を見た瞬間、ダリオの喉が小さく鳴った。


「これだ」


 彼は三つ目の資料から目を離さない。


「この表紙、覚えてる」


「触る前に確認します」


 俺はそう言って、資料そのものを鑑定した。


《資料束:ローゼン侯爵家関連施工補助図・抜粋》

《状態:一部欠落》

《加工:黒塗り多数》

《差し替え痕:軽微》

《注意:頁番号不連続》


「頁番号が不連続です。一部欠落と、軽微な差し替え痕があります」


 部屋の空気が一気に変わった。


 モルツ管理官が眉をひそめる。


「古い資料です。整理時に頁が前後することはあります」


「前後ではなく、不連続です」


 俺は資料に触れず、表示を書き写す。


「頁番号、十二から十五へ飛んでいます。二十一頁の紙質が周囲と違う。黒塗りは七箇所」


 オルブライトがすぐに言った。


「その状態も閲覧記録に残します」


「組合機密に関わるため――」


「機密内容ではなく、資料状態の記録です」


 オルブライトの声は静かだったが、退かなかった。


 モルツ管理官は口を閉じた。


 最初に開いたのは、旧管理印一覧だった。


 そこには、古代施設、旧水路網、結界補助設備、炉管理装置などに使われた管理印が分類されている。


 円形印。

 三線印。

 歯車印。

 王都標準印。

 貴族家施工印。


 俺は黒石祠の拓本を横に置いた。


 布に写った、円と三本線。


 ダリオは指先を紙面の少し上に浮かせながら、慎重に頁を追っていく。


「似てるのは、ここだ」


 彼が示したのは、第三分類の古い管理印だった。


『水脈補助施設管理印・旧式』


 円の中に三本線。

 黒石祠の印と、かなり似ている。


 だが、完全一致ではない。


 俺は鑑定する。


《照合対象:黒石祠管理印/水脈補助施設管理印・旧式》

《一致率:六十二%》

《差異:外周補助線/中央切欠き/施工者補助印》


「六十二%」


 リーゼが低く呟いた。


「上がったな」


「はい。ただ、まだ断定には足りません」


 ダリオは頁の端を睨んだ。


「違う。これだけじゃない。俺が見たのは、この旧式印に施工者補助印が足されたやつだ」


「施工者補助印?」


「貴族家や組合認定技師が、旧設備に手を入れた時に追加する印だ。管理履歴みたいなものだな」


 モルツ管理官が咳払いした。


「その種の補助印は、多くの施工者が使います」


「だから一覧が必要なんだろうが」


 ダリオの声に苛立ちが混じる。


 リーゼが一歩近づいた。


「ダリオ」


「分かってる」


 彼は目を閉じ、息を吐いた。


「殴らない。怒鳴らない。記録する」


「よし」


 リーゼが短く言った。


 次に開いたのは、管理紐付け系機構の資料だった。


 表紙には「標準監視補助」とある。


 だが、内容はかなり踏み込んでいた。


 対象設備の出力傾向を記録する方法。

 外部端子を通じた反応値の収集。

 安全監視名目での遠隔傾向分析。

 管理者権限との紐付け。


 黒塗りが多い。


 大事な箇所ほど、墨で潰されている。


 ダリオはその頁を見て、低く笑った。


「ほらな。標準監視補助だとよ。俺が言った時は妄言だったのにな」


 ラウルが資料を覗き込む。


「これとクラウスの測定具は?」


 俺は測定具の鑑定記録を横に置いた。


《照合対象:クラウス測定具/管理紐付け系機構資料》

《一致率:七十八%》

《共通:反応値外部記録/後日管理紐付け可能構造/提出外補助線》

《注意:黒塗りにより完全照合不可》


「七十八%です」


 ギルド記録官がすぐに記録する。


 オルブライトも表情を変えずに言った。


「この資料の黒塗り部分について、追加開示を求めます」


 モルツ管理官は硬い声で答えた。


「本日許可された範囲外です」


「では、黒塗りにより完全照合が不可能であることを記録します」


「それは……」


「事実です」


 オルブライトは淡々と言った。


 王都の会議で鍛えられた役人の静かな圧は、剣とは別の種類の強さがあった。


 最後に、ローゼン侯爵家関連施工補助図を開いた。


 ダリオの顔が、見るからに強張る。


 彼は一度、工具箱の取っ手を握った。

 だが、すぐに離した。


 資料の一頁目には、ローゼン侯爵家別邸結界炉の外形図があった。


 見覚えがあるのだろう。


 ダリオの呼吸が浅くなる。


「これだ」


 声がかすれている。


「俺が見た炉だ」


 俺はすぐに言った。


「休みますか」


「休まない」


「無理はしても、無茶はしない約束です」


「今は無理だ。まだ無茶じゃない」


 リーゼが彼を見る。


「危なくなったら止める」


「頼む」


 頁を進める。


 出力調整回路。

 安全遮断部。

 外部監視端子。


 そして、黒塗りされた箇所。


 ダリオはその黒塗りを見た瞬間、唇を噛んだ。


「ここだ」


「何が」


「俺が報告した線が、ここにあった。管理紐付け線だ」


 黒塗りの下は見えない。


 だが、線が途中で消えている。


 周囲の回路図から考えても、そこに何かがあったことは分かる。


 俺は鑑定する。


《施工補助図・頁十五》

《黒塗り箇所:管理補助線の可能性》

《周辺構造:クラウス測定具と一部共通》

《黒石祠管理印との関係:間接一致》

《注意:黒塗り解除なしでは断定不可》


「黒塗り解除なしでは断定できません。ただ、管理補助線の可能性が高いです」


 ダリオは机に両手をついた。


 怒りか、悔しさか、恐怖か。

 たぶん、全部だった。


「ここを見ろ」


 彼は別の頁を指した。


 頁番号二十一。


 紙質が違う頁だ。


 そこには、施工者補助印の一覧らしきものが載っていた。


 しかし、肝心の右下が黒塗りされている。


「これ、差し替えられてる」


 ダリオが言った。


 モルツ管理官が即座に否定する。


「古い資料の補修です」


「補修なら補修記録があるはずだ」


 ダリオは睨む。


「ここは俺が昔見た時、クラウスの補助印が載っていた。円と三本線に、中央切欠き。黒石祠の印と同じ癖があった」


「記憶違いでは」


 モルツ管理官が言った。


 空気が冷える。


 ダリオの手が震えた。


 リーゼが一歩前へ出る。


「その言い方はやめろ」


 声は静かだった。


 だが、刃のようだった。


「過去の記憶を疑うのは簡単だ。だが、今ここには差し替え痕と黒塗りがある。それも記録されている」


 ラウルがモルツ管理官を見る。


「補修記録を出せ」


「それは、本日の閲覧対象外で――」


「資料状態に関わる。出せ」


 防衛局の声だった。


 モルツ管理官はしばらく黙ったあと、部屋の外に職員を呼んだ。


 補修記録が出てくるまで、誰も喋らなかった。


 ダリオは椅子に座り、顔を手で覆っている。


 セリアがいたら、きっと何か声をかけただろう。


 でも今ここにいるのは、俺とリーゼだ。


 俺は水袋を差し出した。


「飲みますか」


「……飲む」


 ダリオは受け取り、一口飲んだ。


「俺、声出てたか?」


「出ていました」


「怒鳴ったか?」


「怒鳴る手前でした」


「なら、まだ無茶じゃないな」


 リーゼが短く言う。


「ぎりぎりだ」


「分かった」


 やがて、補修記録が運ばれてきた。


 表紙にはこうある。


『ローゼン侯爵家関連施工補助図・一部補修記録』


 俺は鑑定する。


《補修記録》

《状態:後年作成》

《記録者:クラウス・ベルナー》

《内容:頁二十一差し替え/右下印章部破損による再作成》

《注意:原本破損理由不明》


「記録者、クラウス・ベルナー」


 その名を読み上げると、部屋の空気が変わった。


 ダリオが顔を上げる。


 ラウルの目が細くなる。


 オルブライトが静かに言った。


「補修記録の写しを求めます」


「組合内部資料です」


 モルツ管理官が抵抗する。


「資料状態の根拠です。閲覧記録に必要です」


 オルブライトは退かない。


 ギルド記録官も頷いた。


「少なくとも、記録者名と補修対象頁、補修理由は閲覧記録に記載します」


 俺は黒石祠の拓本、旧管理印一覧、施工補助図、補修記録を並べた。


 中枢室ではないため、正確な一致率表示は出ない。


 だが、鑑定は可能だった。


《総合照合》

《黒石祠管理印》

《旧水脈補助施設管理印》

《ローゼン家施工補助図・差し替え頁》

《クラウス補修記録》

《関連性:強化》

《推定一致率:八十四%》

《断定条件:黒塗り解除または原本確認》


「推定一致率、八十四%」


 俺が言うと、ダリオが目を閉じた。


「……八十四」


 リーゼが低く言う。


「まだ百ではない」


「はい。でも、かなり強いです」


 ラウルが頷いた。


「これなら行政庁と防衛局で正式調査要求を出せる」


 オルブライトも記録する。


「黒塗り解除、原本確認、クラウス補修経緯の説明要求。この三点を申請します」


 モルツ管理官は青い顔をしていた。


 この場で完全な証拠は出なかった。


 だが、十分に大きな穴が開いた。


 そして、その穴は黒塗りで隠していた場所にあった。


 閲覧終了後、資料室を出る前に、ダリオは一度だけ振り返った。


 棚と机と、黒塗りの資料。


 自分が昔、負けた場所。


「記録してくれ」


 彼が言った。


「はい」


「俺は、間違っていなかったかもしれない」


 声は震えていた。


「まだ断定じゃない。でも、間違っていなかったかもしれない。そう書いてくれ」


 俺は記録した。


『ダリオ・ガンツ、資料閲覧後発言。

“俺は、間違っていなかったかもしれない。まだ断定じゃない。でも、間違っていなかったかもしれない。”』


 リーゼが静かに言った。


「良い記録だ」


 ダリオは顔を歪めた。


 泣きそうにも、笑いそうにも見えた。


「そうか」


「ああ」


 資料室を出ると、王都技師組合の廊下は相変わらず冷たかった。


 けれど、入る前と同じではなかった。


 俺たちは完全な勝利を得たわけではない。


 黒塗りは残った。

 原本はまだ見ていない。

 クラウスも、ローゼン家も、逃げ道を残している。


 それでも、記録は進んだ。


 四十一%だった線は、八十四%まで伸びた。


 黒石祠から王都技師組合へ続く道は、確かに繋がり始めている。


 宿へ戻る馬車の中で、ダリオは窓の外を見ながら言った。


「リベル村に帰ったら、豆の煮込みが食いたい」


 リーゼが答える。


「帰る理由としては十分だ」


「だろ」


 俺は書類箱を抱えた。


 中には、今日の閲覧記録が入っている。


 まだ黒塗りだらけの、けれど確かに前へ進んだ記録。


 王都の壁は高い。


 だが、紙の盾は、今日その壁に小さな傷をつけた。

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