第71話 王都の門は、記録より重い
王都の城壁が見えた時、馬車の中は自然と静かになった。
高い。
まず、そう思った。
石を幾重にも積み上げた壁は、遠目には白く見える。だが近づくにつれ、細かな傷や補修跡が浮かび上がってきた。
魔物の爪痕。
古い戦の焦げ跡。
新しく塗り直された箇所。
門の上に掲げられた王家の紋章。
王都は、いつも自分を大きく見せる。
そして、そこへ入る者へ無言で告げてくる。
ここが中心だ、と。
俺は膝の上の書類箱へ手を置いた。
リベル村の記録が入っている。
井戸、水車、旧水路、薬草の芽、黒石祠、管理印の拓本、ダリオの外部技師登録契約、リーゼの護衛同行許可書。
王都の壁に比べれば、ただの紙束だ。
けれど、今の俺たちにとっては鎧だった。
向かいに座るダリオは、窓の外を見ていた。
いつもなら軽口のひとつでも言いそうなものだが、朝からずっと口数が少ない。
王都が近づくほど、その顔から余計な表情が消えていった。
「大丈夫ですか」
俺が尋ねると、ダリオは少し遅れて返事をした。
「大丈夫ではない」
正直だった。
「門を見ただけで胃が痛い。昔、組合から処分通知を受けた帰りも、この門を通った。あの時は、工具箱がやけに重くてな」
彼は足元の工具箱を軽く蹴った。
「今も重い」
「中身は減らしたはずでは」
「重いのは中身じゃない」
そう言ってから、ダリオは自分で苦笑した。
「今の、ちょっと詩人みたいで嫌だな」
「悪くありませんでした」
「褒めるな。調子が狂う」
リーゼは馬車の後方側に座り、外の気配を見ていた。
剣は腰にある。
だが、柄には触れていない。
王都へ近づいてから、彼女の右手は何度か手首へ向かいかけ、そのたびに止まっていた。
俺が視線を向けると、リーゼは気づいたように言った。
「見られていると分かる程度には、落ち着いている」
「それは落ち着いている判定なんですか」
「少なくとも、無意識に剣を抜いてはいない」
彼女は城壁を見た。
「ここには、私を逃亡者として扱いたい者もいるだろう。ローゼン家も、騎士団も。だが、私は今日はリベル村の護衛だ」
そう言って、胸元から畳んだ紙を取り出した。
護衛同行許可書。
昨日、村で何度も読み返した紙だ。
『リーゼ・ヴァルトは、本人意思により、リベル村防衛役として王都行き調査隊に護衛同行する。
本同行は、王都騎士団への出頭、召喚、または身柄引き渡しを意味しない。』
リーゼはその紙を指でなぞった。
「紙一枚で全部守れるとは思わない。だが、ないよりいい」
「紙の盾ですから」
俺が言うと、ダリオが横から低く笑った。
「リベル村名物だな」
馬車は王都の外門へ近づいた。
門前には旅人、商人、傭兵、荷馬車、巡礼者が列を作っている。検問の兵士が一組ずつ確認し、通行証や積み荷を見ていた。
こちらの馬車には、行政庁が発行した通行文書がある。
だが、それだけで済むとは限らない。
王都では、紙があるから通れることもあれば、紙があるから余計に見られることもある。
案の定、検問兵の一人が文書を見た瞬間、顔を上げた。
「リベル村関係者?」
声が少し変わった。
周囲の兵士もこちらを見る。
ダリオが小さく呟く。
「早いな。噂だけは水より速い」
俺は馬車を降り、正式な記録者委任状を提示した。
「リベル村代表記録者、レオン・アスターです。行政庁の許可に基づき、王都技師組合資料閲覧へ向かいます。こちらは技術説明者ダリオ・ガンツ、護衛リーゼ・ヴァルト」
兵士の目が、ダリオで止まり、次にリーゼで止まった。
「リーゼ・ヴァルト……」
その名を聞いた瞬間、空気が少し硬くなった。
リーゼは馬車を降りた。
背筋はまっすぐだった。
「リベル村防衛役として同行している。護衛同行許可書はここにある」
彼女は紙を出した。
兵士は受け取り、文面を読む。
その表情は、少し複雑だった。
「騎士団に確認を――」
「行政庁、防衛局、ギルドの立ち会い予定があります」
俺はすぐに言った。
「この場で騎士団への引き渡し対象として扱うなら、その発言を記録します」
ニコルなら、ここで筆を走らせただろう。
今は俺がやる番だ。
俺は記録板を開いた。
兵士は一瞬、嫌そうな顔をした。
だが、その時、門の内側から別の声がした。
「そこまでです」
灰色の外套を着た男が歩いてくる。
行政庁のオルブライトだった。
相変わらず、表情は薄い。
だが、来てくれて助かったのは確かだった。
「その三名は、行政庁の許可に基づく閲覧同行者です。防衛局とギルドにも通知済み。門で不要な引き留めはしないよう、通達が出ています」
兵士は姿勢を正した。
「失礼しました」
「職務確認は必要です。ただし、確認と拘束は違います」
オルブライトは淡々と言った。
兵士はそれ以上、何も言わなかった。
通行文書に確認印が押される。
王都の門が開いた。
馬車へ戻る前、リーゼが小さく息を吐いた。
「最初から来たな」
「はい」
俺は記録板に書き込んだ。
『王都外門にて、リーゼ・ヴァルト名に反応あり。騎士団確認の発言未遂。行政庁オルブライトにより通行確認。拘束なし。』
ダリオがそれを覗き込む。
「早速、紙の盾が働いたな」
「まだ門をくぐっただけです」
「門が一番嫌なんだよ」
彼の声は冗談めいていたが、少しだけ本音も混じっていた。
王都の中へ入ると、喧騒が押し寄せてきた。
石畳を行き交う馬車。
店先で声を張る商人。
香辛料、焼き肉、革、金属、馬糞、香水、雨上がりの石の匂い。
リベル村の水音とはまったく違う音の世界だった。
リーゼは周囲を見ている。
警戒しているというより、記憶と照合しているようだった。
ダリオは技師組合の方向へ目を向けて、すぐに逸らした。
「宿は行政庁指定でしたね」
俺が言うと、オルブライトが頷いた。
「はい。単独行動を避ける条件でしたので、行政庁に近い宿を手配しています。技師組合資料閲覧は明日午前。今日は到着記録と事前確認だけです」
「クラウスは?」
ダリオが聞いた。
「閲覧には同席しません」
「本当に?」
「少なくとも、公式には」
オルブライトは淡々と答えた。
「ただし、彼が王都にいることは事実です。ローゼン家側の動きも完全には読めません」
リーゼが言う。
「騎士団は?」
「今回の閲覧には関与しません。ただ、リーゼ・ヴァルト氏の王都入りは、いずれ知られるでしょう」
「もう知られているかもしれないな」
「その可能性はあります」
オルブライトはリーゼへ視線を向けた。
「あなたの同行身分は、行政庁記録上はリベル村防衛役です。騎士団から照会があった場合も、そう返答します」
「感謝する」
「私情ではありません。記録に基づく処理です」
「それが一番ありがたい」
リーゼは短く答えた。
指定宿は、行政庁の裏通りにある地味な建物だった。
豪華ではない。
だが、入口には行政庁の小さな封印札があり、勝手に人が入れないようになっている。
部屋は三つ。
俺とダリオが隣室。
リーゼはその向かい。
廊下の端に行政庁の連絡役が控える。
単独行動禁止の条件に合わせた配置だった。
荷物を置くと、ダリオはベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
「王都の空気は、相変わらず胃に悪い」
「豆の煮込みがないからでは」
「それもある」
彼は工具箱を開けず、足元に置いたままにした。
「技師組合へ行くのは明日か」
「はい」
「今夜、眠れないな」
「眠れなければ、記録整理をしますか」
「お前、なかなか鬼だな」
俺は書類箱を開けた。
「冗談です。でも、整理は必要です」
「冗談じゃなかっただろ」
「半分は」
ダリオは苦笑して、ようやく少し肩の力を抜いた。
夕方、行政庁の小会議室で事前確認が行われた。
参加者は、オルブライト、防衛局のラウル査察官、ギルドの記録官、そして俺たち三人。
ラウルは俺たちを見るなり、少しだけ頷いた。
「無事に入れたようだな」
「門で少しありました」
俺が記録を渡すと、彼はすぐに目を通した。
「リーゼ・ヴァルト名への反応。騎士団確認発言未遂。行政庁介入。分かった。こちらでも保存する」
リーゼが言った。
「助かる」
「まだ始まったばかりだ。気を抜くな」
「分かっている」
ギルド記録官は、ミリア監査員からの伝言を伝えた。
「リベル村の中立取引については、ギルド側で複数商人に働きかけています。ただし、商流圧力は完全には消えていません。村へ戻る際には、必要物資の小口輸送を手配できる可能性があります」
「種や布も?」
俺が聞くと、彼女は頷いた。
「少量なら」
セリアが聞いたら喜ぶだろう。
傷洗い草の芽。
ミード村の止血草古種。
薬草畑。
村に残してきたものを思い出すと、少しだけ胸が温かくなった。
同時に、ここで失敗できないという重さも増した。
オルブライトは明日の手順を説明した。
「技師組合では、指定資料を閲覧します。閲覧対象は三種。旧管理印一覧、管理紐付け系機構資料、ローゼン侯爵家関連施工補助図のうち行政庁が認めたもの。ただし、組合側が一部黒塗りを主張しています」
「黒塗り?」
ダリオの声が低くなる。
「機密部分です」
「都合の悪いところの間違いじゃないのか」
「その可能性も含めて記録します」
オルブライトは表情を変えずに言った。
ラウルが続ける。
「閲覧中、資料を勝手に持ち出すな。逆に、組合側が資料を差し替えようとした場合は即座に止める。クラウス本人が現れた場合、直接応答は最小限。発言はすべて記録」
ダリオが片手を上げる。
「俺が殴りそうになった場合は?」
部屋が静まった。
冗談とも、本気とも取れる声だった。
リーゼが答えた。
「私が止める」
「助かる」
「私が斬りそうになったら?」
今度はダリオが言った。
「俺が叫ぶ」
「役に立つのか」
「たぶん立たん。だからレオンも止めろ」
「二人とも、斬らない、殴らないを前提にしてください」
俺が言うと、ラウルが少しだけ口元を緩めた。
「リベル村式だな。先に危険を記録する」
オルブライトが真面目に記録していた。
「同行者間の制止確認。重要です」
「本当に書くのか」
ダリオが呆れた。
「書きます」
オルブライトは即答した。
事前確認が終わる頃には、外は暗くなっていた。
宿へ戻る道で、王都の灯りが通りを照らしている。
リベル村の炉火とは違う。
明るく、広く、冷たい。
俺たちは三人で並んで歩いた。
単独行動禁止のためでもあるが、それ以上に、誰も一人で歩きたくなかったのだと思う。
ダリオがふと足を止めた。
視線の先に、大きな建物の影が見える。
王都技師組合。
尖塔のような煙突。
鉄と石で組まれた正面玄関。
門の上に掲げられた歯車と炎の紋章。
ダリオは、その建物を見たまま動かなかった。
「ダリオさん」
「……あそこだ」
声がかすれていた。
「あそこから追い出された。工具箱ひとつ持ってな」
リーゼは何も言わなかった。
ただ、少しだけ彼の横に立つ位置を変えた。
護衛というより、支えのようだった。
俺は記録板を開かない。
今の言葉を残すこともできた。
けれど、残す前に、本人の意思がいると思った。
「今の発言、記録しますか」
俺が聞くと、ダリオは少し驚いた顔をした。
それから、苦笑する。
「そういうところだぞ、この村は」
「どちらですか」
「記録しろ」
彼は技師組合を見たまま言った。
「追い出された場所に、明日戻る。嫌だが、逃げない。そう書いておけ」
「分かりました」
俺は記録した。
『ダリオ・ガンツ、王都技師組合前にて発言。
“追い出された場所に、明日戻る。嫌だが、逃げない。”』
リーゼが静かに言った。
「私も書いておけ」
「何を」
「王都に戻るのは怖い。だが、私はリベル村の護衛としてここにいる。騎士団の影に飲まれない」
俺はそれも記録した。
最後に、自分の分も書く。
『レオン・アスター。王都へ戻ることに緊張あり。元勇者パーティー鑑定士としてではなく、リベル村記録者として技師組合へ向かう。』
ダリオがそれを覗いて言った。
「自分のことも書くのか」
「必要なので」
「やっぱりリベル村式だ」
俺たちは宿へ戻った。
その夜、俺は村へ送る短い報告を書いた。
『王都到着。
外門にてリーゼ名への反応あり。拘束なし。
行政庁指定宿へ入る。
明日午前、王都技師組合資料閲覧予定。
ダリオ、リーゼともに不安はあるが同行意思継続。
単独行動なし。記録継続。』
最後に、少し迷ってから一文を足した。
『リベル村の水音を思い出す。明日、記録を取り戻しに行く。』
窓の外では、王都の灯りが消えない。
リベル村の夜とは違う。
ここでは、暗くなっても何かが動いている。
噂も、権力も、紙も、人の思惑も。
俺は書類箱に手を置き、目を閉じた。
明日、技師組合へ行く。
壊された記録を探しに。
負けたまま棚の奥に押し込まれた紙を、もう一度光の下へ出すために。




