表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

70/173

第70話 水は流れ、道は王都へ続く

 朝露を受けた傷洗い草の芽は、昨日よりほんの少しだけ背を伸ばしていた。


 それは、目を凝らさなければ分からないほどの変化だった。


 けれど、毎朝見ているセリアには分かる。


 土から顔を出したばかりの頃は、風が吹けば倒れてしまいそうだった。今も頼りないことに変わりはない。細い茎はまだ柔らかく、葉も小さい。


 それでも、伸びている。


 生きている。


 セリアは薬草予定地の前にしゃがみ込み、薄く湿らせた布をそっと土の端に置いた。


 直接水をかけない。

 触らない。

 急かさない。


 この村で何度も繰り返してきたやり方だった。


「今日も、少しだけですね」


 彼女が呟くと、背後からトマの声がした。


「芽、どうだ?」


「少し伸びています」


「俺には同じに見える」


「毎日見ていれば分かります」


「毎日見てるんだけどな」


 トマは頭をかいた。


 彼の手には、修復された鍬が握られている。ダリオが直した鍬は、畑仕事のたびに少しずつ村人の手へ馴染んできていた。


「今日も畑ですか」


「ああ。ダリオが、水量はこのまま、土起こしは端だけってうるさくてな」


「大事なことです」


「分かってるよ。最近、俺も焦ると村中から怒られる」


 トマは苦笑した。


「でも、悪くないな。怒られるってことは、誰かが見てるってことだし」


 セリアは少し笑った。


「トマさん、たまに良いことを言いますね」


「たまにって何だよ」


「リーゼさんの真似です」


「広がってるな、それ」


 そんなやり取りをしている間にも、旧水路の水は畑の端を細く流れていた。


 最初は頼りなかった水音が、今では村の日常の音になっている。


 水車の音。

 井戸の水を汲む音。

 畑で鍬が土を起こす音。

 子供たちが小声で芽を覗き込む声。


 リベル村は、少しずつ「壊れた村」ではなくなっていた。


 その朝、王都行政庁から正式な文書が届いた。


 封を開けた村長は、しばらく黙って文面を読んだ。


 村長宅には、すでに主要な面々が集まっている。


 俺、セリア、リーゼ、ダリオ、トマ、ニコル。


 机の上には、王都行きに備えて作られた書類が並んでいた。

 委任状。

 同行理由書。

 護衛同行許可書。

 単独行動禁止確認書。

 閲覧資料記録条件書。


 トマはそれを見るたびに「紙だけで馬車一台埋まりそうだな」と言っていた。


 村長が文書を置き、静かに読み上げる。


「王都技師組合資料の一部閲覧を許可する。ただし、閲覧対象は黒石祠管理印、旧管理紐付け機構、ローゼン侯爵家関連施工補助図のうち、行政庁が必要と認めた範囲に限る」


 ダリオの顔がわずかに強張った。


 村長は続ける。


「閲覧には行政庁職員、防衛局職員、冒険者ギルド記録官が立ち会う。リベル村側からは、技術説明者一名、記録者一名、護衛一名の同席を認める」


 視線が自然と三人に集まる。


 ダリオ。

 俺。

 リーゼ。


 正式に道が開いた。


 王都へ。


 村長が文書を置いた。


「許可が下りた」


 部屋が静まり返った。


 誰も、すぐには喜ばなかった。


 これは勝利ではない。


 扉が開いただけだ。


 その向こうには、王都技師組合がある。

 クラウスがいるかもしれない。

 ローゼン家の目もある。

 勇者パーティーの噂も、神殿の影も、騎士団の記録もある。


 ダリオは椅子の背にもたれて、天井を見た。


「本当に行くことになったか」


「嫌なら」


 セリアが言いかける。


 ダリオは首を横に振った。


「嫌だ」


 はっきり言った。


「嫌だが、行く。そこは変わらん」


 リーゼが短く頷いた。


「私も行く」


 その声は、昨日より少しだけ落ち着いていた。


「リベル村防衛役として。護衛として。騎士団への出頭ではない。ローゼン家に呼ばれるためでもない。私自身の意思で行く」


 ニコルがすぐに筆を走らせる。


 リーゼはそれを見て、少しだけ笑った。


「いちいち記録されるのにも慣れてきたな」


「大事なので」


 ニコルは真面目に答えた。


 俺も文書を手に取った。


 紙は軽い。


 だが、そこに書かれたものは重かった。


 リベル村正式記録者としての同行。

 技師組合資料閲覧の記録。

 黒石祠と地域封鎖術式の照合。

 ローゼン家関連術式との一致率を上げる、あるいは下げるための確認。


 行けば、何かが変わる。


 証拠が増えるかもしれない。

 逆に、疑いが外れるかもしれない。

 どちらにしても、今のままでは止まれない。


「俺も行きます」


 改めて言葉にした。


「リベル村の記録者として。ダリオさんの技術説明を記録し、リーゼさんの護衛同行を記録し、閲覧資料を確認します」


 村長は深く頷いた。


「では決まりじゃ」


 トマが腕を組む。


「こっちは任せろ。村長とセリアとニコルと俺で守る」


「水量板は勝手に動かさないでください」


 ダリオが即座に言った。


「分かってるよ」


「畑側の水量は、朝と夕方に確認。異常があれば記録。勝手に増やすな。減らすのも記録してからだ」


「俺、そこまで信用ないか?」


「水に関してはない」


「ひでえ」


 トマは不満そうだったが、どこか嬉しそうでもあった。


 ダリオは小さな紙を取り出し、トマへ渡す。


「水量板の確認手順だ。読め」


「文字、多いな」


「読め」


「はい」


 トマは素直に受け取った。


 セリアは自分の役割を書き出していた。


 治療所の管理。

 薬草予定地の観察。

 ミード村の止血草古種の湿度処置。

 ハルマ村、北沢集落の井戸水記録の受け取り。

 怪我人対応。

 浄化水の作成。


 それを見て、俺は言った。


「多すぎませんか」


「多いです」


 セリアは素直に認めた。


「でも、ひとつずつです。治療も、薬草も、水路も、ひとつずつ」


 リーゼが少し微笑む。


「強くなったな」


「まだ怖いです」


「怖いまま、役目を決められるようになった」


 セリアは少し照れたように目を伏せた。


「リーゼさんも、王都へ行くと決めました」


「怖いままだがな」


「はい。だから、帰ってきてください」


 リーゼは一瞬、言葉を失った。


 それから、静かに頷いた。


「帰ってくる」


 その一言で、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。


 出発は翌朝と決まった。


 王都までの道のりは短くない。

 だが、急ぎすぎない行程を組む。

 途中の宿場では、ギルド支部に立ち寄り、移動記録を残す。

 王都入りした後は、行政庁の指定宿へ入る。

 技師組合へは、立会人が揃ってから向かう。


 徹底して単独行動を避ける。


 ダリオはその計画書を見て、苦笑した。


「逃げ道がないな」


「あります」


 俺は答えた。


「体調不良、精神的負担、危険反応。いずれかがあれば中断できます」


「そういう逃げ道か」


「必要な逃げ道です」


 ダリオはしばらく黙って、それから紙を軽く叩いた。


「悪くない」


 午後は、村を離れる前の点検に使った。


 まず井戸。


《リベル村中央井戸》

《状態:安定》

《浄化支援:安定》

《推奨:通常管理継続》


 次に水車。


《東水車》

《状態:安定》

《軸負荷:低下》

《推奨:三日後再点検》


 旧水路。


《旧水路》

《上流部:安定》

《中央部:安定》

《畑側:低水量安定》

《東部分岐跡:未復旧・触れないこと》


 薬草予定地。


《傷洗い草・試験栽培一》

《発芽:安定》

《葉形成:初期》

《推奨:水量最小/日差し調整/直接接触禁止》


 全部、完全ではない。


 それでも、村は回っている。


 俺がいなくても、すぐに崩れる状態ではない。


 そう確認できたことが、少しだけ背中を押した。


 夕方、村の広場に皆が集まった。


 特別な送別会ではない。

 ただ、夕食を少し早めにして、いつもより豆の煮込みを多めにしただけだ。


 トマが木椀を掲げる。


「王都行きの無事を祈って」


 ダリオが顔をしかめる。


「大げさにするな。まだ死地に行くわけじゃない」


「お前の顔は死地に行く顔だぞ」


「うるさい」


 村人たちが笑う。


 その笑いは、少し心配を含んでいた。


 村の老人が俺に言った。


「レオンさん。王都の連中に負けるな」


「戦いに行くわけではありません」


「同じようなものじゃ」


「そうかもしれません」


 別の女性がリーゼへ干し肉を包んだ布を渡す。


「道中で食べてください」


 リーゼは少し驚いた顔をした。


「私にか」


「防衛役でしょう。食べないと力が出ません」


「……感謝する」


 リーゼは丁寧に受け取った。


 ダリオには、トマが修復済みの小さな金具を渡した。


「何だこれ」


「分水板の試作に使えるかと思って」


「勝手に持ち出したのか?」


「村長に聞いた」


「ならいい」


 ダリオは金具を見て、少し笑った。


「帰ったら使う」


「帰ってこいよ」


「工具箱を置いて行くんだ。帰ってくる」


 その言い方が妙にダリオらしくて、皆が笑った。


 夕食後、セリアは俺を薬草予定地へ呼んだ。


 薄暮の中、小さな芽は布の影で静かに立っている。


「明日の朝、出るんですよね」


「はい」


「この芽、帰ってくる頃には少し大きくなっていると思います」


「楽しみにしています」


「枯らさないようにします」


「無理はしないでください」


「はい。でも、守ります」


 彼女は真剣だった。


「レオンさんたちは、王都で記録を探す。私はここで、芽と治療所と村の記録を守る。それでいいんですよね」


「はい」


 セリアは小さく息を吐いた。


「離れていても、同じ作業をしているみたいですね」


「そうですね。直すものが違うだけです」


「王都の記録も、直せますか」


 少し難しい問いだった。


 俺は考えてから答えた。


「直せるかは分かりません。でも、歪んでいるなら、まず見つけます」


 セリアは頷いた。


「はい。見つけてください」


 夜、地下工房に降りると、リーゼが先にいた。


 彼女は中枢室の光を見つめている。


「眠れませんか」


「少しな」


「王都のことですか」


「ああ」


 リーゼは右手首に触れた。


「この痕を、王都で誰かに見られたらどうなるか。騎士団の記録に、私はどう書かれているのか。ローゼン家の者が現れたら、私は冷静でいられるのか」


「不安ですか」


「不安だ」


 迷いなく答えた。


「だが、行くと決めた。怖いことと、行かないことは同じではない」


 その言葉は、彼女自身に向けているようだった。


 ダリオも地下へ降りてきた。


「何だ、怖い者同士の集まりか」


「あなたもですか」


「当たり前だ。王都技師組合なんぞ、できれば一生見たくない」


 ダリオは工具箱を床に置いた。


「でも、見る。見て、昔の俺が本当に間違っていたのか、今度こそ確かめる」


 リーゼが言う。


「間違っていなかったら?」


「腹が立つな」


「間違っていたら?」


「それも腹が立つ」


「結局、腹が立つのだな」


「俺はだいたい腹が立ってる」


 少しだけ笑った。


 それで十分だった。


 俺たちは中枢室に、王都行きの最終記録を登録した。


《王都行動計画:確定》

《目的:王都技師組合資料照合》

《同行者:レオン・アスター/ダリオ・ガンツ/リーゼ・ヴァルト》

《村内管理者:村長バルド/セリア・ルミナス/トマ/ニコル》

《保護対象:治療所/薬草予定地/旧水路/畑/外周結界》

《条件:単独行動禁止/立会人必須/記録保持/危険時中断》

《推奨:帰還後、照合結果を村内共有》


 帰還後。


 その言葉を見て、少しだけ胸が軽くなった。


 行く話だけではない。


 帰る前提の記録だ。


 翌朝。


 出発の時、村はまだ薄い霧の中にあった。


 水車が回っている。

 旧水路が流れている。

 薬草の芽が、朝露を受けている。


 馬車は小さい。


 荷物も最小限。

 書類箱、封印袋、拓本、ダリオの工具箱の一部、旅支度。


 村長が俺たちの前に立った。


「行って、見て、記録して、帰ってこい」


「はい」


 俺は頷いた。


 ダリオは軽く手を上げた。


「飯のためにも帰る」


「それでよい」


 リーゼは村長へ一礼した。


「村を頼みます」


「こちらこそ、道中を頼む」


 トマが馬車の横に立ち、俺に言った。


「先生。王都の連中に、村の紙の盾を見せてやれ」


「はい」


「あと、無理すんなよ」


「トマさんも水量板を動かさないでください」


「最後までそれかよ」


 セリアは少し離れて立っていた。


 手には、小さな布袋。


「これを」


 俺が受け取ると、中には乾いた傷洗い草の古葉が少し入っていた。


「まだ新しい芽のものではありません。古い箱に残っていたものです。薬効はほとんどないかもしれませんが、お守りです」


「ありがとうございます」


 セリアはリーゼにも、ダリオにも同じ小袋を渡した。


「無事に帰ってきてください」


 リーゼは受け取り、静かに頷いた。


「帰ってくる」


 ダリオは袋を見て、少し照れたように鼻をこすった。


「薬草のお守りか。技師組合に効くといいな」


「たぶん、心には少し効きます」


「なら十分だ」


 ニコルは記録板を抱えていた。


「出発記録、書きます」


 彼は深呼吸して、丁寧に読み上げた。


「本日、レオン・アスター、ダリオ・ガンツ、リーゼ・ヴァルトの三名、王都技師組合資料照合のため出発。目的は黒石祠管理印、地域封鎖術式、ローゼン家関連術式との照合。単独行動禁止。帰還後、村内共有予定」


 そこでニコルは少しだけ声を詰まらせた。


「……帰還予定」


 村長が頷いた。


「よい記録じゃ」


 馬車が動き出す。


 リベル村の入口の木札が後ろへ流れていく。


 井戸。

 水車。

 旧水路。

 畑。

 薬草予定地。

 治療所。

 村人たち。


 それらが少しずつ遠ざかる。


 俺は振り返った。


 セリアが薬草予定地の近くに立っている。

 トマが手を振っている。

 ニコルが記録板を抱えている。

 村長が杖をついて見送っている。


 水は畑へ流れている。


 そして道は、王都へ続いている。


 ダリオが馬車の中でぼそりと言った。


「嫌な道だな」


 リーゼが答える。


「だが、戻る道でもある」


 俺は書類箱に手を置いた。


 中には、リベル村の記録が入っている。


 井戸の記録。

 水車の記録。

 旧水路の記録。

 薬草の芽の記録。

 黒石祠の拓本。

 ダリオの古い告発文書に繋がる手がかり。


 俺は静かに言った。


「次は、王都で記録を取り戻します」


 馬車は朝日に向かって進む。


 背後では、リベル村の小さな炉火が灯っている。


 前方には、王都の高い壁が待っている。


 水は流れ、道は続く。


 壊されたものが、壊されたまま終わらないことを証明するために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ