第70話 水は流れ、道は王都へ続く
朝露を受けた傷洗い草の芽は、昨日よりほんの少しだけ背を伸ばしていた。
それは、目を凝らさなければ分からないほどの変化だった。
けれど、毎朝見ているセリアには分かる。
土から顔を出したばかりの頃は、風が吹けば倒れてしまいそうだった。今も頼りないことに変わりはない。細い茎はまだ柔らかく、葉も小さい。
それでも、伸びている。
生きている。
セリアは薬草予定地の前にしゃがみ込み、薄く湿らせた布をそっと土の端に置いた。
直接水をかけない。
触らない。
急かさない。
この村で何度も繰り返してきたやり方だった。
「今日も、少しだけですね」
彼女が呟くと、背後からトマの声がした。
「芽、どうだ?」
「少し伸びています」
「俺には同じに見える」
「毎日見ていれば分かります」
「毎日見てるんだけどな」
トマは頭をかいた。
彼の手には、修復された鍬が握られている。ダリオが直した鍬は、畑仕事のたびに少しずつ村人の手へ馴染んできていた。
「今日も畑ですか」
「ああ。ダリオが、水量はこのまま、土起こしは端だけってうるさくてな」
「大事なことです」
「分かってるよ。最近、俺も焦ると村中から怒られる」
トマは苦笑した。
「でも、悪くないな。怒られるってことは、誰かが見てるってことだし」
セリアは少し笑った。
「トマさん、たまに良いことを言いますね」
「たまにって何だよ」
「リーゼさんの真似です」
「広がってるな、それ」
そんなやり取りをしている間にも、旧水路の水は畑の端を細く流れていた。
最初は頼りなかった水音が、今では村の日常の音になっている。
水車の音。
井戸の水を汲む音。
畑で鍬が土を起こす音。
子供たちが小声で芽を覗き込む声。
リベル村は、少しずつ「壊れた村」ではなくなっていた。
その朝、王都行政庁から正式な文書が届いた。
封を開けた村長は、しばらく黙って文面を読んだ。
村長宅には、すでに主要な面々が集まっている。
俺、セリア、リーゼ、ダリオ、トマ、ニコル。
机の上には、王都行きに備えて作られた書類が並んでいた。
委任状。
同行理由書。
護衛同行許可書。
単独行動禁止確認書。
閲覧資料記録条件書。
トマはそれを見るたびに「紙だけで馬車一台埋まりそうだな」と言っていた。
村長が文書を置き、静かに読み上げる。
「王都技師組合資料の一部閲覧を許可する。ただし、閲覧対象は黒石祠管理印、旧管理紐付け機構、ローゼン侯爵家関連施工補助図のうち、行政庁が必要と認めた範囲に限る」
ダリオの顔がわずかに強張った。
村長は続ける。
「閲覧には行政庁職員、防衛局職員、冒険者ギルド記録官が立ち会う。リベル村側からは、技術説明者一名、記録者一名、護衛一名の同席を認める」
視線が自然と三人に集まる。
ダリオ。
俺。
リーゼ。
正式に道が開いた。
王都へ。
村長が文書を置いた。
「許可が下りた」
部屋が静まり返った。
誰も、すぐには喜ばなかった。
これは勝利ではない。
扉が開いただけだ。
その向こうには、王都技師組合がある。
クラウスがいるかもしれない。
ローゼン家の目もある。
勇者パーティーの噂も、神殿の影も、騎士団の記録もある。
ダリオは椅子の背にもたれて、天井を見た。
「本当に行くことになったか」
「嫌なら」
セリアが言いかける。
ダリオは首を横に振った。
「嫌だ」
はっきり言った。
「嫌だが、行く。そこは変わらん」
リーゼが短く頷いた。
「私も行く」
その声は、昨日より少しだけ落ち着いていた。
「リベル村防衛役として。護衛として。騎士団への出頭ではない。ローゼン家に呼ばれるためでもない。私自身の意思で行く」
ニコルがすぐに筆を走らせる。
リーゼはそれを見て、少しだけ笑った。
「いちいち記録されるのにも慣れてきたな」
「大事なので」
ニコルは真面目に答えた。
俺も文書を手に取った。
紙は軽い。
だが、そこに書かれたものは重かった。
リベル村正式記録者としての同行。
技師組合資料閲覧の記録。
黒石祠と地域封鎖術式の照合。
ローゼン家関連術式との一致率を上げる、あるいは下げるための確認。
行けば、何かが変わる。
証拠が増えるかもしれない。
逆に、疑いが外れるかもしれない。
どちらにしても、今のままでは止まれない。
「俺も行きます」
改めて言葉にした。
「リベル村の記録者として。ダリオさんの技術説明を記録し、リーゼさんの護衛同行を記録し、閲覧資料を確認します」
村長は深く頷いた。
「では決まりじゃ」
トマが腕を組む。
「こっちは任せろ。村長とセリアとニコルと俺で守る」
「水量板は勝手に動かさないでください」
ダリオが即座に言った。
「分かってるよ」
「畑側の水量は、朝と夕方に確認。異常があれば記録。勝手に増やすな。減らすのも記録してからだ」
「俺、そこまで信用ないか?」
「水に関してはない」
「ひでえ」
トマは不満そうだったが、どこか嬉しそうでもあった。
ダリオは小さな紙を取り出し、トマへ渡す。
「水量板の確認手順だ。読め」
「文字、多いな」
「読め」
「はい」
トマは素直に受け取った。
セリアは自分の役割を書き出していた。
治療所の管理。
薬草予定地の観察。
ミード村の止血草古種の湿度処置。
ハルマ村、北沢集落の井戸水記録の受け取り。
怪我人対応。
浄化水の作成。
それを見て、俺は言った。
「多すぎませんか」
「多いです」
セリアは素直に認めた。
「でも、ひとつずつです。治療も、薬草も、水路も、ひとつずつ」
リーゼが少し微笑む。
「強くなったな」
「まだ怖いです」
「怖いまま、役目を決められるようになった」
セリアは少し照れたように目を伏せた。
「リーゼさんも、王都へ行くと決めました」
「怖いままだがな」
「はい。だから、帰ってきてください」
リーゼは一瞬、言葉を失った。
それから、静かに頷いた。
「帰ってくる」
その一言で、部屋の空気が少しだけ柔らかくなった。
出発は翌朝と決まった。
王都までの道のりは短くない。
だが、急ぎすぎない行程を組む。
途中の宿場では、ギルド支部に立ち寄り、移動記録を残す。
王都入りした後は、行政庁の指定宿へ入る。
技師組合へは、立会人が揃ってから向かう。
徹底して単独行動を避ける。
ダリオはその計画書を見て、苦笑した。
「逃げ道がないな」
「あります」
俺は答えた。
「体調不良、精神的負担、危険反応。いずれかがあれば中断できます」
「そういう逃げ道か」
「必要な逃げ道です」
ダリオはしばらく黙って、それから紙を軽く叩いた。
「悪くない」
午後は、村を離れる前の点検に使った。
まず井戸。
《リベル村中央井戸》
《状態:安定》
《浄化支援:安定》
《推奨:通常管理継続》
次に水車。
《東水車》
《状態:安定》
《軸負荷:低下》
《推奨:三日後再点検》
旧水路。
《旧水路》
《上流部:安定》
《中央部:安定》
《畑側:低水量安定》
《東部分岐跡:未復旧・触れないこと》
薬草予定地。
《傷洗い草・試験栽培一》
《発芽:安定》
《葉形成:初期》
《推奨:水量最小/日差し調整/直接接触禁止》
全部、完全ではない。
それでも、村は回っている。
俺がいなくても、すぐに崩れる状態ではない。
そう確認できたことが、少しだけ背中を押した。
夕方、村の広場に皆が集まった。
特別な送別会ではない。
ただ、夕食を少し早めにして、いつもより豆の煮込みを多めにしただけだ。
トマが木椀を掲げる。
「王都行きの無事を祈って」
ダリオが顔をしかめる。
「大げさにするな。まだ死地に行くわけじゃない」
「お前の顔は死地に行く顔だぞ」
「うるさい」
村人たちが笑う。
その笑いは、少し心配を含んでいた。
村の老人が俺に言った。
「レオンさん。王都の連中に負けるな」
「戦いに行くわけではありません」
「同じようなものじゃ」
「そうかもしれません」
別の女性がリーゼへ干し肉を包んだ布を渡す。
「道中で食べてください」
リーゼは少し驚いた顔をした。
「私にか」
「防衛役でしょう。食べないと力が出ません」
「……感謝する」
リーゼは丁寧に受け取った。
ダリオには、トマが修復済みの小さな金具を渡した。
「何だこれ」
「分水板の試作に使えるかと思って」
「勝手に持ち出したのか?」
「村長に聞いた」
「ならいい」
ダリオは金具を見て、少し笑った。
「帰ったら使う」
「帰ってこいよ」
「工具箱を置いて行くんだ。帰ってくる」
その言い方が妙にダリオらしくて、皆が笑った。
夕食後、セリアは俺を薬草予定地へ呼んだ。
薄暮の中、小さな芽は布の影で静かに立っている。
「明日の朝、出るんですよね」
「はい」
「この芽、帰ってくる頃には少し大きくなっていると思います」
「楽しみにしています」
「枯らさないようにします」
「無理はしないでください」
「はい。でも、守ります」
彼女は真剣だった。
「レオンさんたちは、王都で記録を探す。私はここで、芽と治療所と村の記録を守る。それでいいんですよね」
「はい」
セリアは小さく息を吐いた。
「離れていても、同じ作業をしているみたいですね」
「そうですね。直すものが違うだけです」
「王都の記録も、直せますか」
少し難しい問いだった。
俺は考えてから答えた。
「直せるかは分かりません。でも、歪んでいるなら、まず見つけます」
セリアは頷いた。
「はい。見つけてください」
夜、地下工房に降りると、リーゼが先にいた。
彼女は中枢室の光を見つめている。
「眠れませんか」
「少しな」
「王都のことですか」
「ああ」
リーゼは右手首に触れた。
「この痕を、王都で誰かに見られたらどうなるか。騎士団の記録に、私はどう書かれているのか。ローゼン家の者が現れたら、私は冷静でいられるのか」
「不安ですか」
「不安だ」
迷いなく答えた。
「だが、行くと決めた。怖いことと、行かないことは同じではない」
その言葉は、彼女自身に向けているようだった。
ダリオも地下へ降りてきた。
「何だ、怖い者同士の集まりか」
「あなたもですか」
「当たり前だ。王都技師組合なんぞ、できれば一生見たくない」
ダリオは工具箱を床に置いた。
「でも、見る。見て、昔の俺が本当に間違っていたのか、今度こそ確かめる」
リーゼが言う。
「間違っていなかったら?」
「腹が立つな」
「間違っていたら?」
「それも腹が立つ」
「結局、腹が立つのだな」
「俺はだいたい腹が立ってる」
少しだけ笑った。
それで十分だった。
俺たちは中枢室に、王都行きの最終記録を登録した。
《王都行動計画:確定》
《目的:王都技師組合資料照合》
《同行者:レオン・アスター/ダリオ・ガンツ/リーゼ・ヴァルト》
《村内管理者:村長バルド/セリア・ルミナス/トマ/ニコル》
《保護対象:治療所/薬草予定地/旧水路/畑/外周結界》
《条件:単独行動禁止/立会人必須/記録保持/危険時中断》
《推奨:帰還後、照合結果を村内共有》
帰還後。
その言葉を見て、少しだけ胸が軽くなった。
行く話だけではない。
帰る前提の記録だ。
翌朝。
出発の時、村はまだ薄い霧の中にあった。
水車が回っている。
旧水路が流れている。
薬草の芽が、朝露を受けている。
馬車は小さい。
荷物も最小限。
書類箱、封印袋、拓本、ダリオの工具箱の一部、旅支度。
村長が俺たちの前に立った。
「行って、見て、記録して、帰ってこい」
「はい」
俺は頷いた。
ダリオは軽く手を上げた。
「飯のためにも帰る」
「それでよい」
リーゼは村長へ一礼した。
「村を頼みます」
「こちらこそ、道中を頼む」
トマが馬車の横に立ち、俺に言った。
「先生。王都の連中に、村の紙の盾を見せてやれ」
「はい」
「あと、無理すんなよ」
「トマさんも水量板を動かさないでください」
「最後までそれかよ」
セリアは少し離れて立っていた。
手には、小さな布袋。
「これを」
俺が受け取ると、中には乾いた傷洗い草の古葉が少し入っていた。
「まだ新しい芽のものではありません。古い箱に残っていたものです。薬効はほとんどないかもしれませんが、お守りです」
「ありがとうございます」
セリアはリーゼにも、ダリオにも同じ小袋を渡した。
「無事に帰ってきてください」
リーゼは受け取り、静かに頷いた。
「帰ってくる」
ダリオは袋を見て、少し照れたように鼻をこすった。
「薬草のお守りか。技師組合に効くといいな」
「たぶん、心には少し効きます」
「なら十分だ」
ニコルは記録板を抱えていた。
「出発記録、書きます」
彼は深呼吸して、丁寧に読み上げた。
「本日、レオン・アスター、ダリオ・ガンツ、リーゼ・ヴァルトの三名、王都技師組合資料照合のため出発。目的は黒石祠管理印、地域封鎖術式、ローゼン家関連術式との照合。単独行動禁止。帰還後、村内共有予定」
そこでニコルは少しだけ声を詰まらせた。
「……帰還予定」
村長が頷いた。
「よい記録じゃ」
馬車が動き出す。
リベル村の入口の木札が後ろへ流れていく。
井戸。
水車。
旧水路。
畑。
薬草予定地。
治療所。
村人たち。
それらが少しずつ遠ざかる。
俺は振り返った。
セリアが薬草予定地の近くに立っている。
トマが手を振っている。
ニコルが記録板を抱えている。
村長が杖をついて見送っている。
水は畑へ流れている。
そして道は、王都へ続いている。
ダリオが馬車の中でぼそりと言った。
「嫌な道だな」
リーゼが答える。
「だが、戻る道でもある」
俺は書類箱に手を置いた。
中には、リベル村の記録が入っている。
井戸の記録。
水車の記録。
旧水路の記録。
薬草の芽の記録。
黒石祠の拓本。
ダリオの古い告発文書に繋がる手がかり。
俺は静かに言った。
「次は、王都で記録を取り戻します」
馬車は朝日に向かって進む。
背後では、リベル村の小さな炉火が灯っている。
前方には、王都の高い壁が待っている。
水は流れ、道は続く。
壊されたものが、壊されたまま終わらないことを証明するために。




